鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

ボカロ私的良曲まとめ ――2014年9月&10月現在

カラスヤサボウ「ガールフレンド・イン・マイ・ブルー」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24761070

ねこぼーろ「オノマトペメガネ」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24598974

石風呂「サンデーミナミパーク」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24712348

とあ「ミュージックミュージック」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24333080

CRUSHER-P「ECHO」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24643818

KITOTAN「バラバラバーズ」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24578691

バールーフ・デ・スピノザ『エチカ』について

 バールーフ・デ・スピノザの『エチカ』は、タイトルが示すとおり倫理について論じた書物である。
 本書は全五部から構成されており、それぞれの部は「神について」「精神の本性および起源について」「感情の起源および本性について」「人間の隷属あるいは感情の力について」「知性の能力あるいは人間の自由について」と題されている。おおよそスピノザは神と精神と感情について独自の定義と定理を与え、この感情の力能と知性の能力をめぐって驚くべき議論を展開した上で、人間が隷属ではなく自由に向かうための倫理を説いたことになるだろう。
 初めに確認しなければならないのは、スピノザの哲学(第1・2部)が「神」を能産的自然として定義していること、そしてこの能産的自然だけを無限の実体として描写していることである。すなわちスピノザにとって神とは世界そのもののことであり、この世界だけが本当に存在するものだということになるだろう――ゆえにこの神(=世界)は他の存在によって限定されることがない。こうした無限の実体は無限に多くの属性を有しており、このうち延長の属性の様態が事物と呼ばれるもの、そして思惟の属性の様態が観念と呼ばれるものである。要するにスピノザにおいて事物と観念とは、神(=世界)の同じ部分が別々の仕方で表現されたものに他ならない――たとえば人間は、延長の属性において表現されれば「身体」という事物になり、思惟の属性において表現されれば「精神」という観念になるわけだ。
 本書が倫理について論じた書物である以上、明らかに神についての論述は倫理的判断の基準をめぐる立場を表明しており、そして精神についての論述は倫理的判断の主体をめぐる態度の決定している。ここでスピノザが述べているのは、この世界の外部に倫理的判断の基準を立ててはならないということであり、この身体の外部に倫理的判断の主体を置いてはならないということだろう。それゆえ『エチカ』の記述は、何らかの神のもとでこの世界を否認したり、何らかの精神のもとでこの身体を軽蔑したりする倫理とは遠く隔たっている。実際に第3・4・5部において、倫理的判断の基準は世界の部分である人間の存在論的本質に求められ、倫理的判断の主体は身体的かつ精神的な感情から探究されていくだろう。
 続いて指摘しなければならないのは、スピノザの哲学(第3・4部)が「感情」を欲望と喜びと悲しみに区別したこと、そしてそれらの基盤に自己保存の衝動(コナトゥス)を設定したことである。スピノザにとって自己保存の衝動とは、身体的かつ精神的な自己利益を追求しようとするものである――欲望はこの衝動を意識することで、喜びや愛情は衝動が達成されることで、そして悲しみや憎悪は衝動が達成されないことでそれぞれ経験されるだろう。ここにスピノザの倫理がある。というのも「理性」は、自己保存の衝動(コナトゥス)に関して能動的な感情を善であると認識し、逆に受動的な感情を悪であると認識するからである。つまるところスピノザにおいて善悪の問題とは、身体的かつ精神的な自己利益を認識し追求しようとするか否かであり、この意味において能動的な喜びや欲望の感情を称揚するものなのだ。
 したがってスピノザ倫理学(第5部)は、人間の「自由」が徳であり至福であり知であると結論するだろう。おおよそスピノザにとって自由とは、受動的な感情を抑制しながら能動的な感情を多く獲得することである――それは同時に身体的かつ精神的な自己利益を追求する徳でもある。改めて言うまでもなく、人間は能動的な喜びや欲望の感情が大きくなるにつれて至福へと接近し、また知的になるにつれて受動的な感情が小さくなるのであるから、有徳な自由が幸福主義と主知主義にあることは明らかである。バールーフ・デ・スピノザの『エチカ』は、完全な幸福とは無限なる神(=世界)の実在を充分に知覚することであり、そしてこの充分な知覚こそが受動的感情を抑制してくれるのだと結論している。

相対的な他者へ、あるいは自明性の懐疑へ ――柄谷行人(編)『近代日本の批評1&2:昭和篇(上・下)』について

 まず柄谷行人(編)『近代日本の批評1:昭和篇(上)』には、1925年から1935年までの日本近代批評を扱った論文と討議、そして1935年から1945年までの日本近代批評を扱った論文と討議が収録されている。いずれの論文も執筆しているのは柄谷行人であり、またどちらの討議も参加しているのは浅田彰柄谷行人蓮實重彦三浦雅士の四名である。

 また柄谷行人(編)『近代日本の批評2:昭和篇(下)』には、1945年から1965年までの日本近代批評を扱った論文と討議、そして1965年から1989年までの日本近代批評を扱った論文と討議が掲載されている。このうち前者の論文を執筆しているのは三浦雅士、後者の論文を執筆しているのは浅田彰であり、いずれの討議も参加しているのは浅田彰柄谷行人蓮實重彦三浦雅士の四名である。

 

 柄谷によれば、1925年以降の日本近代批評には他者としての読者(=大衆)が出現していた。ここで確認すべきは、他者には「絶対的他者」と「相対的他者」の二種類が存在していることである。たとえば福本主義はプロレタリアートに絶対的他者を見出し、小林秀雄は自分自身の内部に絶対的他者を見出した。そしてそこでは「意識」ではなく「自然」の位相が勝利していたと言えよう。他方で文芸復興は、相対的他者を消去するような装置として機能していた。たとえばマルクス主義が絶対的他者に耽溺したように、保守勢力は日本的なものや美的なものに耽溺することで相対的他者を抹消し、想像力のなかでだけ近代主義を超克して満足しようとしたのである。そしてそれに抵抗し得たのは、詩的精神ではなく散文精神を重視する勢力、あるいは日本に対して他者としてのアジアを重視する勢力だけであった。

 相対的他者の抹消とは自己同一性の構造を担保してしまうことであり、自己を支える諸制度を自明のものとしてしまうことである。

 三浦によれば、1945年以降の日本近代批評にて重要なのは中村光夫江藤淳小林秀雄吉本隆明である。たとえば中村光夫は「近代」「文学」の自明性を批判することで近代的・文学的であろうとし、この影響下で、江藤淳は近代と文学を批評する新たな方法を獲得しようとしたのだ。また小林秀雄が深いマルクス理解のもとで当時のマルクス主義者を批判したように、吉本隆明は「マルクス主義」の自明性を批判することでマルクス的であろうとした。ただし浅田によれば、1965年以降の江藤淳吉本隆明は国家や共同体についての構造主義的な立場に向かうだろう。そこでは日本にとって〈表層・中心〉である西欧的・近代的な現在ではなく〈深層・周縁〉としての東洋的・前近代的な歴史が重視されることとなった。他方で柄谷行人蓮實重彦は、以上のごとき構造そのものが動揺する〈現実的なもの〉を模索し、それらを「外部」「他者」「記号」と呼びながら表現してきたと言えよう。そこでは祝祭としての通俗的革命論も、消費社会における通俗的ポストモダン論も懐疑されることとなった。

第151回芥川賞受賞作、柴崎友香『春の庭』について

 柴崎友香『春の庭』はその印象に反して難解な小説である。そしてそれは、柴崎が明確な主題のもとで本作を執筆しているにもかかわらず、決してその全容を明らかにしようとはしないからである。
 柴崎友香の多くの小説は「期待の地平」(ヤウス)を裏切ることで成立しており、本作もまた例外ではない。たとえば本作には様々な話題が登場するが、それらのうちいずれかが深く掘り下げられることはなく、また伏線らしい伏線の殆どは放置されたままで終えられることになる。読者に何かしらの期待をさせておいて肩透かしを食らわせる。柴崎がそうした物語を好むのは、もとより現実がそのようなものであり、彼女が現実の魅力の前で謙虚な作家のひとりだからであろう。言わば本作は、作り物の悲劇で悪酔いするような展開を避けているのだ。
 読者の期待を裏切ろうとする『春の庭』の努力は、物語のレベルだけではなく描写のレベルにも及んでいる。たとえば本作の書き出しには「アパートは、上から見ると“「”の形になっている」という一文が登場している。小説とは読者に感情移入をさせるべきものであり、描写とは読者に感情移入をさせるための唯一の武器である……などという狭く古い小説観の持ち主にとっては不可解な一文だが、むしろ本作はこうした微妙な逸脱を繰り返すことによって、私たちが自分自身の小説観を見つめ直すための契機を与えてくれもするだろう。
 かかる本作の工夫は素人の書き手でも可能なように感じられるが、実は相当な力量の作家でなければ不可能なものである。実際に小説を書いてみれば誰でも分かることだが、私たちは常に容易く物語の構造に甘えてしまうし、また簡単に感情移入の構図に甘えてしまうだろう。そして目の肥えた読者の期待も予想も裏切らない、ただ安心させるためだけの通俗小説を安心しながら書き上げてしまうのだ。その作り物の悲劇(あるいは喜劇)では、決して捉えることができない現実の不可思議な魅力……それを捉えられる者もまた優れた作家であるというのに。
 では、ここで柴崎友香は何を把握しようとしているのか。ひとつ目は視点を巡る手法において人物の多面性・混交性を描くことであり、またそれを通じて時間の複雑性・流動性を炙り出すことである。
 柴崎友香『春の庭』は終盤において、主人公である太郎の姉が「わたし=語り手」として唐突に登場する。本作は最初から姉の視点で語られていたと考えるべきだろうか、あるいは最初のうちは三人称・全知の視点で語られており、終盤において姉の視点に割り込まれたと考えるべきだろうか。私自身は、それについてはどうでもよいと考えている。またこのような手法が文学史的に見て新しいものであるのか、あるいは古いものであるのかもどうでもよいことだと思っている。重要なのは、その手法が作品にいかなる効果をもたらしているかである。
 柴崎友香はこれまでにも多く、西方と東方の距離感を作品の題材として採用してきたことで知られる。本作『春の庭』においても、もともと主人公である太郎とその姉は西方出身の人間であり、また西という女性の名は彼女が西から来た人物であることを仄めかしている。このことと先述の手法は深く関わっていると言ってよい。三人称・全知の視点で語られている太郎は東の人であり東の言葉を話すが、姉の視点で語られている太郎は西の人に戻り西の言葉を話すだろう。視点の手法は、東西で分かたれた人物の多面性を際立たせている。
 ひとりの人間は決してひとつの人格だけを持っているのではなく、時と場所と場合に応じて多くの側面を伺わせるものであり、特に方言を話すか標準語を話すかで大きく印象が異なるものである。柴崎友香は明らかにそのことを示している。さらに本作では途中、伝聞のなかで微妙に視点が移行していく手法も採用されている。私たちが言葉を交わすなかで自分の経験と他人の経験を混交させていく感覚、そうして自分の人格と他人の人格を微妙に溶け合わせるような感覚、かかるモーメントを本作はさりげなく描き出そうとしているのだ。
 こうした多面性・混交性は現在の人間関係だけではなく、過去の人間や土地との関係においても存在するものである。事実『春の庭』においては、太郎を始めとする様々な人物が「土に何かを埋める」行為を繰り返し、そのたびに土地と人間の関係は更新されていくことになるだろう。ここでは過去は現在と切り離された固定的なものではなく、足下に堆積している土地の歴史のごときものとして、言わば現在と繋がっている流動的なものとしてあるわけだ。かような形で時間の複雑性・流動性を炙り出すこともまた、柴崎友香の小説が多く行なってきたことである。

 

 柴崎友香の小説における多様な飛躍と逸脱は、その優れた観察眼に支えられていると言ってよい。今回は主人公である太郎を、その名が示すとおり『彼岸過迄』の敬太郎のごとき立場に置いたこと、すなわちある種の「探偵」のごとき視角として設定したことにあるだろう。さる論者の言うように『彼岸過迄』は『吾輩は猫である』と同じく、ひとりの傍観者のもとで複数のエピソードを断片的に組み合わせ、ユーモアある写生に徹底した原点回帰的作品である。柴崎友香が本作において試みているのは、漱石的な「写生」としての作品である。

 

(太郎および西という名の由来については作者のインタビューを参照した)

絶対的他者から相対的他者へ ――柄谷行人(編)『近代日本の批評1:昭和篇(上)』について

 柄谷行人(編)『近代日本の批評1:昭和篇(上)』には、1925年から1935年までの日本近代批評を扱った論文と討議、そして1935年から1945年までの日本近代批評を扱った論文と討議が掲載されている。いずれの論文も執筆しているのは柄谷行人であり、またどちらの討議も参加しているのは浅田彰柄谷行人蓮實重彦三浦雅士の四名である。

 柄谷によれば、1925年以降の日本近代批評には他者としての読者(=大衆)が出現していた。ここで確認すべきは、他者には「絶対的他者」と「相対的他者」の二種類が存在していることである。たとえば福本主義はプロレタリアートに絶対的他者を見出し、小林秀雄は自分自身の内部に絶対的他者を見出した。そしてそこでは「意識」ではなく「自然」の位相が勝利していたと言えよう。他方で文芸復興は、相対的他者を消去するような装置として機能していた。たとえばマルクス主義が絶対的他者に耽溺したように、保守勢力は日本的なものや美的なものに耽溺することで相対的他者を抹消し、想像力のなかでだけ近代主義を超克して満足しようとしたのである。そしてそれに抵抗し得たのは、詩的精神ではなく散文精神を重視する勢力、あるいは日本に対して他者としてのアジアを重視する勢力だけであった。

空間性と時間性 ――マルティン・ハイデガー『存在と時間』とその批判(完成版)

はじめに
 マルティン・ハイデガー存在と時間』はタイトルが示すとおり、存在と時間の関係について語ろうとしたものである。その第一部は「現存在を時間性へ向けて解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」ものである。彼は経験的な「存在者」と超越的な「存在」を区別した上で、経験的地平である空間と超越的地平である時間を区別しようとしていた。そして彼は経験論的かつ超越論的な人間存在(=現存在)を想定し、その空間性と時間性について述べようとしていたのである。

 

目次
1.現存在と空間性
2.現存在と時間
3.ハイデガー批判

 

1.現存在と空間性 ――第一編について
 マルティン・ハイデガー存在と時間』第一部第一編は、現存在の準備的な基礎分析を行なおうとするものである。ここで語られているのは、現存在と経験論的空間性の関係についてである。
 まず第一章は「現存在の準備的分析の課題の提示」を行なおうとするものである。ハイデガーは自身の哲学を、経験論的かつ超越論的な人間存在(=現存在)を想定するところから開始している。また第二章は「現存在の根本的構成としての世界=内=存在一般」を提示しようとするものである。彼は現存在が、ひとつの客体的存在者として世界から構成されていると同時に、ひとりの主体的存在として世界を構成しているという事実に注目しているのだ。
 ハイデガーは第三章で「世界の世界性」を描写するにあたり、A「環境性と世界性一般の分析」B「世界性の分析を、デカルトにおける世界の解釈と比較対照する」C「環境世界の「身の回り」的性格と現存在の空間性」という三つの段落を設定している。現存在は世界性を第一に環境性として構成し・第二に物質性として構成し・第三に空間性として構成するだろう。そして構成が段階を重ねるごとに、世界は近景・中景・遠景へと拡大していくのである。
 次に第四章は「共同存在と自己存在としての世界=内=存在、世間」を説明しようとするものである。現存在は他の人間存在とともに世界を構成しているのであり、決して独りきりで世界を構成しているわけではない……このように構築された世界を、ハイデガーは世間と呼ぶのである。ここで注意すべきは、彼自身は決して世間の日常なるものを肯定しているわけではないということ、経験的地平の空間に居直ることをよしとしているわけではないということである。
 ハイデガーは第五章で「内=存在そのもの」を分析するにあたり、A「現の実存論的構成」B「現の日常的存在と現存在の堕落」という二つの段落を設定している。世間の日常は主体的存在としての現存在たちによって構成されていると同時に、現存在を客体的存在者として構成している。そして世間の日常における現存在は堕落した存在……非本来的で不完全な存在者でしかありえない。彼は明らかに、経験的地平からの脱却を呼びかけるのである。
 そこで第六章は「現存在の存在としての関心」を主張しようとするものである。現存在は世界を構成したり世界から構成されたりするだけではなく、そのような構造を支える超越的地平に関心を持つことができる。言い換えれば、世間の日常を脱却して本来の自己や完全な自己を考えることができるだろう。なぜ・どのようにして人間存在は超越的地平に関心を抱くことができるのか、そしてこの超越的地平に対する関心とは、具体的には何に対する関心なのか。

 

2.時間性 ――第二編について
 マルティン・ハイデガー存在と時間』第一部第二編は、現存在と超越論的時間性の関係について語ろうとするものである。ここで行なわれているのは、現存在の本格的な応用分析である。
 まず第一章は「現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」を提示しようとするものである。また第二章は「本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」を提示しようとするものである。人間存在(=現存在)は、自分がいつか必ず独り「死」に至ることを理解し覚悟できる稀有な存在者である。「死」へ臨むことを覚悟することによって、現存在は世間とも日常とも他の人間たちともと断絶され、完全な自己あるいは本来の自己を考えることが可能になるだろう。
 次に、第三章は「現存在の本来的な全体存在可能と、関心の存在論的意味としての時間性」を描写しようとするものである。ハイデガーは、現存在が完全な自己あるいは本来の自己を考えるためには、自分がいつか必ず独り「死」に至ることを覚悟することが必要だと説いた。言い換えればハイデガーは、現存在が超越的地平に関心を抱いた上で超越的な存在を論じるためには、人生の始点と終点……時間性を構想しなければならないと説いたのである
 ハイデガーは時間性を描写するにあたり、第四章「時間性と日常性」第五章「時間性と歴史性」第六章「時間性と、通俗的時間概念の根源としての内時性」という三つの段落を設定している。第一に、現存在が構想しなければならない時間性は、他の人間との世間から断絶されるために要請されるものである以上、他の人間たちと共有できる客体的・社会的な時間性であってはならない。他の人間たちとは断絶された主体的・個人的な時間性を獲得すべきなのである。
 第二に、現存在が構想しなければならない時間性は、自分がいつか必ず独り「死」に至ることを覚悟するために要請された以上、始点も終点もなく発展もない日常的・平面的な時間性であってはならない。始点と終点があり発展がある歴史的・立体的な時間性を獲得すべきなのである。ここで警戒すべきはこの第三の点、すなわち経験的地平としての世間の日常から離脱したハイデガーが、超越的地平に至る時間性として「民族」「運命」を主張したことである。

 

3.ハイデガー批判
 マルティン・ハイデガー存在と時間』の序論は「存在の意味への問いの提示」を行なおうとするものである。
 彼の哲学は、何かが存在するとはどういうことかを問おうとするものだった。まず第一章は「存在の問いの必然性、構造および優位」を提示しようとするものである。彼は超越的な哲学としての存在問題を、他の全ての経験的諸学問に先立って必要なものだと考えていた。というのも、全ての諸科学が経験的な存在者について探究するものであるのに対し、哲学は存在者を規定する超越的な存在について探究するものだからである。その探究でも、彼は存在者より存在を優先して取り扱うべきだと考えていた。
 あくまで超越的地平を追究しようとしたこと、しかもそれを身近な経験的地平の考察から始めたハイデガーの粘り強さは今なお称賛に値する。
 しかし本書には三つ、単数形をめぐる問題が見受けられる。ひとつ目は超越的な存在を常に単数形で扱ったことであり、ふたつ目は、自己の本来性や全体性を常に単数形で扱ったことである。なぜ全ての存在者が一種類の存在によって規定されなければならないのか、なぜ私の在り方が一種類の本来性や全体性によって規定されなければならないのか、このことについてハイデガーが答えてくれることはあまりに少ない。そしてみっつ目は、超越的地平への入口である現存在の死を常に単数形で扱ったことである。
 そしてそれが『存在と時間』の最終的な躓きの石になっているのである。本書が超越的地平に至る時間性として称揚した「民族」「運命」とは、いったい誰にとっての民族であり運命なのか。のちのハイデガーは、アーリア人至上主義と反ユダヤ主義を掲げるナチスに接近したことで知られる。存在を単数化し・本来性と全体性を単数化し・現存在の死を単数化したとき、彼が説く歴史性・民族性・運命性もまた、排他的な単数性へと染め上げられたのではないだろうか。
 たしかにマルティン・ハイデガー存在と時間』は重要な書物である。だがそれは彼の躓きを乗り越えようと努力する限りにおいてである。

ボカロ良曲私的まとめ ――2014年7月&8月

ATOLS『ゾンビメイカー』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24243135

 

電ポルP『曖昧劣情Lover』
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Mah『セクト
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23898832

 

じーざすP『SI・RI・TO・RI』
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やいり『奇跡*Indication』
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ピノキオP『ラブイズオノマトペ
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みきとP『夏の半券』
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のぼる↑『ポジティブシンキング』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24055882