鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

記号として、匿名として――津村記久子『ポトスライムの舟』論

 工場で働く二九歳の女性ナガセは、自分の年収と世界一周旅行の費用が、同じ一六三万円であることを知る。「働く=時間を金で売る」虚しさへ立ち向かうように、ナガセはその日から得る一年分の「金=時間」を、世界一周という行為のために蓄えようとする。しかし、周りではさまざまな事件が起きて……。本書に収められた二作のうち、表題作「ポトスライムの舟」は、そのような物語だ。

 初めの一文では、主人公ナガセは「長瀬由紀子」と記されている。のに、次に書かれるときは「ナガセ」になり、その表記は終わりまでずっと続く。これは、ただカタカナで記されている、というだけの話ではない。「ナガセ」とは、下の名前や漢字の揺らぎを削られた、より記号的な呼び方なのだ。そこでは「長瀬」と「永瀬」の区別がつかず、「ナガセユキコ」と「ナガセヨウコ」を分けられない。あるいはその記号性、匿名性は、ライン勤務であるナガセの境遇の表れなのかもしれない。代わりがきく存在、記憶されず、カタカナという「音声」として呼ばれ、やがて忘れられる名前。

 このことを裏づけるのが、大学時代の友だちだ。働くナガセとヨシカはカタカナ表記だが、結婚したりつ子とそよ乃は、まるで個人的な関係を保障されているかのように、「ひらがな+漢字」で記される(もちろん、りつ子の家出騒動が示すように、ことはそう単純でもないが)。さらに、りつ子の娘・恵奈が開く図鑑の言葉はカタカナだ。図鑑とは、まさしく記号性と匿名性の群れではないか。「ポトスライムの舟」は、人の名前の書かれ方と、その生き方が繋がっている小説、と言えよう(同時収録の「十二月の窓辺」では、それはより顕著だ。記号性と匿名性に浸りきれないツガワと、彼女を抑えつけるV係長やP先輩。アルファベット一文字の名前に、もはや「顔」は見えない)。

 主人公はカタカナ=「音声」の名前に抗うように、腕に「文字」を刻むことを考えている。だが結末に至ってもナガセはそれを行なわず、地の文は彼女を「長瀬由紀子」とは呼び直さない。なぜか? こうは考えられないだろうか。ナガセの年収と世界一周旅行の費用を結び付けられる「金=時間」もまた、ある種の記号だからだ、と。主人公は記号性や匿名性から脱するのではなく、世界一周旅行のユメを見ることで、むしろ「記号」が「記号」として在ることを肯定しているからだ、と。

 この小説は「ロスト・ジェネレーション」、「派遣世代」を代表する文学として評価されている。問題は、この文章がそれら世代に、ひいては現代の労働に、どういった価値判断を下しているか、なのだ。そしてそれは、たんに働くことの虚しさを嘆くだけのものでもなければ、逆に豊かさを謳うものでもないことは明らかだろう。