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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

メディアアートと内面、そしてオリジナル性

1 メディアアートの意義

 メディアアートとはどういったものか? もしそれがメディア(媒介)を要とするアート(芸術)だとすれば、あらゆるアートはメディアアートにならないか。絵と字を描きつける壁も、音と声を載せ運ぶ空気も、また一つのメディアなのだから。しかしもちろん、ことはそう単純でもない。それはただメディアを要とするアートではなく、ただメディアを用いたアートでもない。言ってみれば、メディアそのもののアート性(一方で、アートそのもののメディア性)を浮き彫りにするようなアート、であるから。いったい誰が、壁や空気がアートの一部だ、などと思うだろう。そこでは二つの「描かれたもの(=描かれた絵、描かれた壁)」は綺麗に分けられている。だが、もしこの二つの「描かれたもの」の隔てをなくし、脱構築することができるならば。もし壁と絵(=地と画=媒介と芸術)の間に横たわるような領土を見出せるならば。それこそが、メディア‐アートと呼ばれるにふさわしいアート‐メディアになるであろう。

 よってメディアアートを描こうとするとき、同時にわたしたちはメディアもまた新たに描かなければならない。つまりメディアアートの開拓は、新しいメディアの開発という時代の流れと共にある。二〇世紀に起こり、今まさに絶頂を迎えようとする情報機械の開発と――フリードリヒ・キットラーが言うところの、グラモフォン、フィルム、タイプライターの開発と共に。ところで、キットラーを経由する東浩紀はその著作のなかで次のようなことを述べている。新しいメディアの開発は、近代国民国家の誕生と等しくわたしたちの内面を大きく変えた、と。たとえばフロイトの精神分析理論における精神分析医の役割は、当時に現れた情報機械の機能と重なり合っている(患者の言葉を、そのノイズまでも含めて記録すること)。しかも、ラカンによって整理された精神分析の主体モデルは、そのまま映写機(映画)のモデルと同じ形をしている。これらの事実は、わたしたちにあることを教えてくれる。すなわち、わたしたちの内面の変遷はメディアの変遷とともにあるということ、そして、そうしたメディアの変遷を芸術として描くことがメディア‐アートであること。そう、メディアアートの開拓は、常にわたしたちの内面の開拓に関わっている。メディアアートの存在意義とはなにか? これがその答えと言えよう。(追記――メディアの起源とは別に、アートの起源についても考えてもみよう。動物にとっての領土拡大は、いつでもアートとしてそこにあるとは言えないか。彼らが鳴き、排泄物を垂れ流し、巣をつくりまた罠を張るとき、彼らは自らの領土を剥き出しの大地に描いている。が、それは同時に大地‐領土そのものが「二つの描かれるもの(=地と図=媒介と芸術)」であることを意味している。メディアとアート、そして開拓という、わたしたちがアートを描く際の前提となるものは、動物が領土を拡げる行ないにおいて既に出揃っている。ドゥルーズ=ガタリはこうした動物におけるアートの始まりを「リトルネロ」と呼んだ)。

 八谷和彦の『見ることは信じること』という名のインスタレーションを例として挙げてみよう。「empty entity」「ヒツジ」「メガ日記」の三つの作品から成る集合体である。それ(それら)には一つの発想、ネット上で集められた他人どうしの日記を可視化するという発想がある。日記とは、近代文学によって生まれた「言文一致体」を用いて自らの内面を書きこむ制度、そして、教会の権力から生まれ育った「告白」という制度が織り込まれている。そこでは言文一致体=標準語=国語によって内面が形づくられ、告白した言葉から遡るように内面が形づくられていく。すなわち、近代国民国家が捏造するわたしたちの近代的自我が(そう、だから、近代文学とは告白文学なわけである)。『見ることは信じること』は、この日記(=「内面」)を掻き集めて可視化してしまう。それよって、もともと内面というものが「可視化されたものの結果」「集団統治的なものの結果」であることを浮き彫りにする。タイトルが示しているがごとく、内面とは「信じるから見える」のではなく、「見えたから信じられた」のである、と。

 

2 デジタル技術とメディアアート

 

 デジタル技術によってアートや映像表現がどう変わったか? 言うまでもなく、デジタルはメディアの形を変えた。複製や加工、処理などによって劣化することのない情報は、いくらでもコピーがつくられうる。それはつまり、オリジナルの情報さえコピーと見分けがつかないこと、オリジナルでもコピーでもない第三の領域(シミュラークル)が現れたことを意味する。むしろ今日わたしたちが考える「情報」は、こうしたデジタル技術、オリジナルでもコピーでもない領域(シミュラークル)を前提としている。以上のようなメディアの変化は、そのままメディア‐アートの変化でもある。のみならず、アートそのものにも大きな影響を及ぼすであろう。人のアートと動物の「リトルネロ」を分ける最大のものは作者名の記入のある/なし、固有名詞のオリジナル性であるから。つまりは著作権の問題であるからだ。だがもしシミュラークルの拡大によって、わたしたちにオリジナルとコピーの区別がつかなくなるなら。もしデジタル技術の開拓によって、著作権の概念が常に既に脅かされつつあるなら。わたしたちはアートをアートと定める別のなにかを要とするかもしれない。少なくとも、こうしたメディアの変化と共に変わろうとしないなら、それはメディア‐アートの名にはふさわしからぬ振る舞いである。さらにメディアの変遷は、わたしたちの内面の変遷にも関わる。グラモフォン、フィルム、タイプライターといった二〇世紀の情報機械は今や、コンピュータという新たな情報機械に統合されつつある。それとともにわたしたちの内面もまた、オリジナルでもコピーでもない新たな領域を孕むであろう。それは従来のフロイト=ラカンの精神分析理論にいくらかの修正を施さなければならない世界、「私が死んでも代わりがいる」「死んでもリセットすればいい」世界である。(追記――映像表現においても、同じことが起きている。それがCG……実写やアニメにところ構わず忍び込み、その現実性を脅かすものである。)

 カオス*ラウンジと彼らが起こした様々な騒動は、アートに訪れたこれらの変化を背景にしている。彼らの宣言に依れば、彼らは「日本の高度な情報化、深刻なポストモダン化を正確に反映しており、情報/物(作品)、匿名性(消費者)/有名性(作家)、要するにネット/アートの分断を克服するヴィジョンを示し、また、これら前者に寄り添った彼らの活動や作品を紹介している」という。そうした彼らの理念は、従来の著作権など(後者に寄り添った)概念と真っ向から対立するであろう。そこで全面化するのはシミュラークルであり、またカオス*ラウンジのメンバー黒瀬陽平の言葉を借りたところの「アーキテクチャ」である。それは、もはやオリジナル性を素直に認められないわたしたちが、最後に拠りどころとする(らしい)もの。アートの下層に位置するメディア(図における地=領土における大地)自体を「建築」する(らしい)ものである。結果、彼らのアイフォン4ケースは発売中止・回収され、ネット掲示板で生まれたキャラクター「キメラこなた」を作品に用いたことで批判された。そこでの「アート」は、もはやわたしたちが考えるアートとは異なるなにかであり、「アーキテクチャ」なる理念は、もはや様々なアイデアを放り込んだかのごとき「屑籠=剰余享楽=対象a」でしかない。

補足しておくと、わたしは彼らを擁護しようなどとは全く思わないが、一方で完全に忘れていいとも思わない。彼らの抱えた歪みは、そのままデジタル技術の開拓とメディアの変化、そしてメディア‐アートそのものが抱えた歪みの結果であると思うから。「アーキテクチャ」なる理念の「屑籠性」を叩くだけではなく、なぜ彼らがそんな理念を生み出してしまったのかを問うこと。それは今後の課題であろう。