鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

性的なもの、政治的なもの(下) ――大江健三郎『性的人間』論――

オイディプスと戦後日本
 先ほどわたしは、ラカン派精神分析によれば最初の法とは父であると述べた。母と子の関係を断ち切り、子に名を与える父の存在(父の名=否)である、とも。では、Jという名をJに与えた者とは、父とは誰を指すのか。「そもそもその青年のことをJと呼びはじめたのは、かれの妹の外国人教師だった。青年の父親がかれにつけた名前はいかにも堂どうとして長たらしく、外国人のためには記憶の困難な名前だったからだろう。それから誰もかれもがかれのことをJと呼びはじめた。Jという頭文字の架空の人物めいた不確かな印象が、その青年にふさわしかったのだ」(20p)。とある通り、JにJという名を付けた者は父ではなく、妹の外国人教師である。Jとホモ・セクシュアルの関係にあり、結果としてその関係が前妻を自殺に追いやった、あの外国人教師。そこではなにか不穏なものが差し込まれている。さて、ここで物語外部に、「戦後の日本のもっとも激しかった政治的動揺の時」という時代背景を読み込んでみよう。それは60年代安保闘争であり、そこで作中舞台の日本に差し込まれていた異物とは、アメリカなのである。こうは考えられないか。この外国人教師はアメリカ人である、と。そして父‐外国人教師‐Jの関係は、そのまま戦前日本(実の父=系譜的な父)‐アメリカ(名を与えた父=象徴的な父)‐戦後日本(子)の関係に当たる、と。いや、名を与える父が断ち切るものは、母と子の関係だったことを考えに入れてみる。さらに冒頭の大江自身の言葉「政治的に牝になった国」をも思い出そう。もはや、「戦前の日本」は「実の父=系譜的な父」ですらなく、それは「牝」すなわち「母」なのである。アメリカという父によって戦後日本という我が子との関係を断ち切られた、哀れな母。さらに冒頭へ遡れば、「政治的に牝になった国の青年は、性的な人間として滑稽に、悲劇的に生きるしかない」ともある。これこそまさに主人公・Jの姿であり、戦後日本ではないか。わたしは、性的人間と政治的人間は混ざり合っていると書いた。しかし一方で明らかに大江の言葉は、J=戦後日本は政治的人間であることを断念させられている(去勢されている)ようにも読める。そこでかれらは政治的なものが断ち切られている。せいぜいが、「反社会的」なあの痴漢行為でしか「社会の存在感についてもっとも敏感」になれない。Jという名は、「架空の人物めいた不確かな印象」を与えるという。誰でもいい誰か、取るにたらない誰か。これは、再びわたしたちの間接民主主義における代表(代理=表象)の問題と重なるであろう。そこでは、代表すべき者は誰でもいい誰かであることが民主主義の条件であるから。しかしこのことは、即座にJと民主主義(政治的)を結びつけようとはしない。むしろ物語においては、もう一方の痴漢行為(反社会的、性的)と結びついてしまう。欲望を反らされ断念することこそ、去勢されていることを意味しているのだから。
 (1)ここでJという名の文字に注目しよう。Jという「頭文字」と作中では述べられていた。Jとはまさに、日本(JAPAN)の頭文字であり、このことはJ=戦後日本であるという説を裏づけるだろう。また、元の問いだった「性的人間」と「政治的人間」という語の差異に、文字の観点で臨めばどうなるか。「セイテキニンゲン」と「セイジテキニンゲン」とを差異するものは「ジ」の発音、つまり「J」である。とすれば主人公・Jの名は、性的なものと政治的なものを混交させるこの作品の核だろう。Jこそまさに、二つの語の間に横たわるのだから。(2)Jだけではなく、他の登場人物の名に目を向けたらどうなるか。J、蜜子、カメラマン、詩人、サワ・ケイコ、俳優、Jの妹、老人、少年など。一目して分かるのは、女性だけが固有名詞であり、男性の名は「架空の人物めいた不確かな」普通名詞だということである(Jという名は不確かな頭文字でしかないが、Jの妹と書けば、それはたった一人であり固有名詞的である)。なぜ、このような区別がなされているのか。少なくとも言えるのは、「政治的に牝になった国の青年」という言葉から伺える、大江のジェンダー意識である。つまりここでの問題は、もともと牡だった国、青年にしか焦点を合わせていない。女性は排除されており、その差異が彼女たちの名に現れているのではないか(しかしそれでも、Jの妹という名は固有名詞からほど遠いという意見もあるだろう。そのことについてさらに検証するために、わたしたちは次の項へ進みたい)。

政治的なファリックガール
 Jの妹という名の曖昧さの理由を示す箇所を次に示そう。「その時、Jの妹が椅子を立って進み出た。ガラスの破片を室内靴でギシギシ踏みしだき、破壊された硝子戸の危険な穴ぼこを注意深くくぐりぬけ、独りだけ露台に出て勇敢にも人々に立ちむかった。室内から見つめている六人の眼に、耳梨湾の人々がじつに深く動揺するのが分かった。「その子供が崖から落ちて死にでもしないかと心配していたのよ、夜じゅうここに隠れていて、それからガラスを破って逃げだして行ったから。怪我はひどくないようね?」とJの妹は恥知らずなほど傲岸に話しかけた。彼女は棄て身の反撃に出たのだ。彼女の政治的な罠は人々をとらえるだろうか?」(61p)。Jの妹はここで「政治的人間」として振る舞い、罠を張っているとある。これはJの妹の「政治的人間」化、牡化=男性化を示すのではないか。そのことが、「Jの妹」という名の、固有名詞でも普通名詞でもない、どこか危うい呼び方に現れているのではないか。それを裏づける箇所を、第二部で少年が痴漢を行なう場面に見出せる。「それから、大柄な少年は汗みずくになって安堵し、この世界全体を傲岸にも無関係だと考え、とたんにまったく死にもの狂いに昂奮して、トレンチコートの隠しポケットのひとつの小窓から、硬い武器をのぞかせ、それを、小娘のオレンジ色の尻の部分に、愛しげに憂わしげに丹念にこすりつけはじめた。聖者のように衛星無害の微笑を、快感でめくれあがる脣を中心にしだいに顔いちめんに浮べてゆきながら……」(67p)。ここではJの妹が「破壊された硝子戸の危険な穴ぼこを注意深くくぐりぬけ」るのと同じ動作、少年のペニスが「トレンチコートの隠しポケットのひとつの小窓から」のぞく動作がある。おあつらえ向きに、硝子戸=小窓というイメージの反復までも行なうことで、Jの妹はここで少年のペニスとイコールで結ばれ、象徴的なペニス化(ファルス化)を果たしている。斎藤環が語るところのファリックガール――ファルスを持つ女性(=ファリックマザー)ではなく、ファルスそのものであるような主体、戦闘美少女に。わたしたちはここまで、冒頭に掲げた大江健三郎の言葉に沿って歩んできた。すなわち、戦後日本において人は性的人間として在るしかない、という。しかしこの箇所で、Jの妹はたしかに政治的な何者か、同時に性的でもある何者かになろうとしているではないか。「性的人間」という作品の名付けに現れた綻び。そこに、大江自身もあるいは気付かなかったかもしれない「J」を見出そう。Jの妹とイコールで結ばれたペニスこそ、「J」という文字の形を横たえた、その姿なのである。
 追補――第一部、そして第二部と分けられたこの作品では、もう一つの動きがある。それは「沈黙」の進化である。ジャガーから地下鉄へ(乗り物)、映画から詩へ(芸術)、乱交から痴漢へ(反社会的な性)、というモチーフの移行によって、作中の静けさは増していく。電車の中で人は大声を出せず、詩は手によって書かれ、痴漢は「厳粛な綱渡り」の緊張を以て行なわれるのだから。こうした「沈黙」のテーマは、その舞台の名――「耳梨湾(=耳無し湾)」にも現れている。