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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

「現実に帰れ」はなぜ間違っているか。――『エヴァ』試論――

 『新世紀エヴァンゲリオン』における最後の二話や旧劇場版は、しばしばそのメッセージを「現実に帰れ」という一言で括られがちだ。すなわち、オタクはアニメという虚構に逃げ込まずに、たとえ「気持ち悪い」としても現実を受け入れろ、萌えキャラではなくアスカのような「生身の女性」「他者」に向き合え、と。この見方は実際に監督の庵野秀明によっても語られているため、作家論としては全く正しい。私たちが「セカイ系」や「ポスト・エヴァ」といった言葉でアニメを考えるとき、上のような『エヴァ』解釈なしで済ませることはできないと思われているし、評論家の宇野常寛も『ゼロ年代の想像力』などで次のようなことを述べている。「『エヴァ』がせっかく“現実に帰れ”と説いてくれたのに、オタクはそれを受け入れずセカイ系に“逃げた”」。ともかくも『エヴァ』と「セカイ系」の関わりを論じるのが、よく言われる「ポスト・エヴァ」史観なるものの主な問題意識のようだ。
 だが、私は常々このメッセージにうんざりさせられてきた「萌えキャラではない」「生身の女性」の一人だ。だいいち、「萌えキャラではない」「生身の女性」が「現実」であり「他者」であるなどということは、実際には多くの女性が「現実であること」「他者であること」をこの社会で封じられている問題を無視している。『エヴァ』が「現実」のしるしとして“アスカ”を選んだことは、“シンジ”にとっての「他者」がせいぜい一人の女子中学生でしかなかったということを明かしこそすれ、「帰れ」というメッセージを普遍的なものにする道具立てでは到底ありえないし、むしろ宇野が口酸っぱく非難する「安全に痛いパフォーマンス」に『エヴァ』もまた含まれることを示している。この限りで言えば、『エヴァ』の主張はたんに“都合の良い女”より“都合の悪い女”に向き合っている方が“男”としてマシだという、それこそ“都合の良い”話にすぎないのだ。
 だから「現実に帰れ」というメッセージと、『エヴァ』が26話ほどかけて綴った物語には大きなずれがある、そのことをまず認める必要がある。庵野が「現実に帰れ」と述べたあとで“アニメ”ではなく“実写”作品を撮り始めたことについて、アニメ作家の宮崎駿が「逃げ」だと痛烈になじっていることはその参考になる。オリジナル作品の主人公をほぼ“女性”にする庵野秀明に対して、マンガ版『エヴァ』の執筆者でありキャラクターデザインを務めた貞本義行こそが“男性”主人公を提案したのが、その後の実写作品『ラブ&ポップ』で庵野がまた“女性”を主人公に据えたという構図も、だ。つまるところ庵野の『エヴァ』後の活動を見るに、彼は「現実(実写)」に「帰った」のではなく「逃げた」のであり、「萌えキャラではない」「生身の女性」に他者として「向き合った」のではなく、これまた「逃げた」のではないかということだ。『エヴァ』のメッセージにより合う言葉は、「現実に逃げろ」だった。
 「帰れ」ではなく「逃げろ」こそが『エヴァ』のメッセージだという論は、少なくとも旧劇場版の物語を分かりやすくさせるだろう。“アスカ”が「生身の女性」として「現実(実写)」のしるしに置かれたように、“レイ(≒碇ユイ)”は「アニメ的女性」として「虚構」のしるしに置かれるのが『エヴァ』批評の定説だ。が、その間に置かれた主人公のシンジは決して“レイ”に惹かれた状態で二者択一を迫られているのではない。冒頭のオナニーシーンで自身がはっきりと「綾波ミサトさんも怖いからアスカに目を覚ましてほしい」と述べているし、人類補完計画のなかで巨大化したレイに彼は悲鳴を上げる。とすれば、仮に一時の迷いでレイとともに補完されたがっている描写が伺えるとしても、シンジが最終的にアスカを、「現実」を選ぶのは実はなんの不自然さもない。どころか、レイやミサトが怖いからアスカを選んでいるらしい冒頭の姿からは、彼が初めから大した変化も決断もしていないのだということが露わにされる。
 恐ろしいのは“レイ”であって“アスカ”ではなく、向き合うべき他者は「虚構(アニメ)」であって「現実(実写)」ではない。ここから思い出されるのは、アニメ作家である押井守が撮ってきた一連の作品、特に『ビューティフル・ドリーマー』と『パトレイバー2』の二つだ。『パト2』において東京を覆うのは「虚構の平和」であり、テロリストの柘植でさえそこに「現実の戦争」を持ち込むことはできず、主人公の後藤はその「キナ臭い平和」の内に留まる決意をする。私たちは常にすでに「虚構」のなかにいるのであって、「現実」などというものは彼岸にしか存在しないという認識は、多くの『エヴァ』批評が安易に「帰れる」ものとして「現実」を説く姿勢と真逆の位置にある。また、「生身の女性」らしいアスカがシンジを睨みつけて「気持ち悪い」と言い放ったその何年も前に、「アニメ的女性」であろうラムはあたるに「責任、とってね」と微笑みながら詰め寄っているのだ。どちらの言葉がより恐ろしいかは各自の判断に委ねるしかないだろうが、少なくとも「気持ち悪い」がただの拒絶でしかないのに比べて、「責任、とってね」には相手を絡めとって離さないもの、関係への強制がある。

 しかしながら、“レイ”と“アスカ”の二者択一だけに絞って話を進めること自体、なにか多くのものを取り零している。たった一カット、シンジがこれまでの登場人物に囲まれて笑うあの画を思い浮かべて、彼が「帰る=逃げる」相手が“アスカ”一人に限らなかったことに気付くのもいいだろう。たしかに、シンジはレイが人類補完計画の中心人物であるのは知っているが、「帰った=逃げた」あとの現実でアスカ一人だけが横たわっている場面に出くわすとは分かっていない。補完中の内面パートやラストシーンの絞首、そして「気持ち悪い」という台詞に惹きつけられたあまりか、アスカ以外の「生身の他者」をシンジが忘れ去ってしまったような印象を私たちは受けがちだが、決して作中の事実がそうであるとは限らないのだ。
 しかしそれ以前に、シンジの選択する相手が“レイ”と“アスカ”の他に少なくともあと二人、“ミサト”と“カヲル”もいることを忘れてはならない。シンジを人類補完計画の内面パートに引きずり込む巨人の姿はカヲルでもあり、実際に現実に「帰る=逃げる」ことをシンジが決めるのはミサトのペンダントである。まるでシンジが本当は“レイ”と“アスカ”の二者択一ではなく、“ミサト”と“カヲル”の二者択一で悩んでいるとでも言いたげではないか。いや、そうではなく、レイやアスカがシンジの性的対象として(すなわち、「アニメ的女性」「生身の女性」として)重要人物であり、「虚構」や「現実」のしるしだと言うのなら、彼がたしかに性的に惹かれていたはずのミサトとカヲルも重要人物であり、なんらかのしるしが当てはまっていなければ辻褄が合わない。彼の内面パートではしばしばレイとアスカに加えてミサトも性的対象だったはずだし、カヲルは言うまでもないのだから。
 二者択一をたんに放棄することも簡単だが、それはこれまでの『エヴァ』批評を素朴に否認して、ありがちなサブカル論壇嫌いを表明するだけでしかなく、それらを批判的に乗り越えることを可能にしない。したがって私たちは、二者択一をいったん「四者択一」に増やした上で『エヴァ』を読み直す必要があるだろう。それは、たとえばレイとアスカの二項対立を「母性」と「異性」の二項対立として説明する『エヴァ』批評の類にも、いくらかの修正を促すものだ。要するに、なぜそこではシンジの性的対象がそもそも「同い年の」「女性」に限定されているのか、ということだ。カヲルにシンジがはっきりと惹かれるエピソードを一話ぶん使って描いてあるというのに、批評をする者の多くが、たとえば「父性」や「同性」という項をなぜシンジの選択肢に加えないのか。このような観点から言えば、『エヴァ』の批評は『エヴァ』自体よりむしろ「セカイ系」の規範に則って書かれている。
 思春期における男女の性愛(ボーイミーツガール)だけを過剰なまでに特権化し、それだけを「世界」といった抽象的な概念にまで結び付けてしまうこと。主人公シンジが選択しようとする相手のなかから“レイ”と“アスカ”の二人だけを選び取り、彼女たちだけに「母性」「異性」といった概念を当てはめていくこと。「セカイ系」を批判するために『エヴァ』を取り上げているような「ポスト・エヴァ」史観を初めに挙げたが、まさにそれこそが「セカイ系」なのだ。というより、彼ら自身が「セカイ系」だからこそ多くの作品が「セカイ系」に見えてしまう。「セカイ系」を肯定的に批評する場合は「『エヴァ』はセカイ系の起源だ」という「ポスト・エヴァ」史観を形づくるだろうし、「セカイ系」を否定的に批評する場合は「『エヴァ』のメッセージをセカイ系は受け取らなかった」という「ポスト・エヴァ」史観を形づくるだろう。どちらにせよ、それは間違いではないにしても、『エヴァ』の読みを少なからず狭めるものだ。

次回へ続く。