鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

BLと百合のフェミニズム

 ここ一年で、BLと百合に対する見方が大きく変わった。むろん、その二、三年前ではまた別の見方をしていたので、これから変わっていく可能性も大いにある。とはいえ、少し考えをまとめておく必要があるだろう。
 たとえば、私は一年前「BLや百合は同性愛者への暴力だ」ということを書いている。一方で、「BLや百合は現実の同性愛や両性愛とはなんの関係もない」ということも書いている。だが今にしてみれば、この二つの主張は全く相容れないことが分かる。現実のものと関わらないものが、どうやって現実のものに暴力を振るうことができるのか。当時の私は、どうやら次のようなことを言いたかったらしい。「たとえばBLの多くは、たんに『異性愛のやり方』を(攻め・受けという形で)同性に当てはめているだけだ。それは実際の同性愛や両性愛とは別ものだし、セクシュアリティを一つの枠組みに押し込めている点で暴力なのだ」と。そして私はこうした考えのもと、「BLや百合にジェンダー的な批評性を期待することはできない」と書いている(しかし、今ではこうした考え方を採ることはない)。
 また、しばらくすると、私は「なぜ女性はBLにハマるのかという問題や、BLにハマる女性と百合にハマる男性の非対称性の問題を考えることには意味がない」と書いている。「BLにハマる男性と、百合にハマる女性」の二者が零れ落ちてしまうというのがその理由の一つだし、「一般的なBLや百合に収まらない形でLGBTを扱ったポルノ」を無視してはいけない、とも書いている。これらの主張については、今でもほとんど変わることがない。ただ私は、もはや「BLにハマる男性」「百合にハマる女性」を持ち出すまでもなく、たんに「消費者の自意識に踏み込むことには意味がない」と言うだろう。さらに時間が経つと、私はこう書くようにもなる。「女性がBLを消費することと、男性が百合を消費することに非対称性があるのだとしたら、それは、たんに女性と男性の非対称性が反映されているだけではないのか」と。
 この時期で私は、最初に書いた私の意見とは逆のことを書き始める。「現実の同性愛と虚構のBLを混同するな、という類の言葉は、他のどんなポルノに対しても言えることではないか」「むしろ、そうした虚構のものでしかないBLやその他のポルノが、現実にどのような影響を持ち、現実のセクシュアリティにどういった可能性を開くのか、といった問題を考えるべきではないか」。私はここで、「虚構と現実」をはっきりと分けて関わりを断つような考えを退けている。そして、「同性愛と異性愛(のやり方)」を明確に区別することも、もはやしなくなっているようだ。仮に同性に『異性愛のやり方』を当てはめているBLが多く数えられたとして、それはBLの致命的な問題なのだろうか。実際にそうしたカップルは存在する(し、BLを読む同性愛者は存在する)。かつての私はなにに苛立っていたのだろう。
 それは恐らく、一般的な「異性愛のやり方」に対する忌避感と、ある種の「腐女子」に対する同族嫌悪的(?)な感情から来ていたのではないか。もちろん、その忌避感や嫌悪が今は完全になくなったというわけではない。だが後者については、腐女子の問題をBL自体の問題から切り離すことで解決できたように思われる。たとえば私は、ネット上のある腐女子が「同性愛は異性愛と違って平等な関係性がある」と語っていたことについて「嫌気が差す」「こうした幻想をもとにBLを語っても不毛なだけだ」と書き、某オタク評論家がある著書で『ウテナ』に触れ「同性であるがゆえに『所有』が起こらない関係が云々」と書いていることについては、長々と批判を記している。こうした憤りが、BLや百合を自分の(批評的な)関心領域から遠ざけようとした原因かもしれない。だが、これら馬鹿馬鹿しい言葉の群れには最初から付き合わなければいいだけの話だろう。
 私は決して「BLや百合は暴力的ではない」と言い始めたわけではなく、「異性愛のやり方」を肯定し始めたわけでもない。ただ、「暴力的ではない表現」を探ろうとすればそれは「あらゆる表現は暴力だ」などという原罪的な発想に陥るだろうし、「異性愛のやり方」をたんに否定しても実社会においてそれを覆すことはできない、と言っているのだと思う。そうではなく、BLや百合に限らずおよそポルノと呼ばれるものは、「虚構」でありながら「現実」と否応なく関わりを持つのだ、ということを引き受けた上で(つまり責任をとった上で)、その力によって「異性愛のやり方」を揺さぶることができるかどうかについて考えているのではないか。

 以上のような思考の変化には、ジュディス・バトラードゥルーズ+ガタリによるところが大きい。たとえばバトラーは、「ジェンダーを攪乱する実践によって、男性/女性という抑圧的な二項対立そのものを脱構築しうる」と言う。その実践とは、二項対立の模倣と反復、すなわちパロディだ。たとえば、同性愛の営みにおいて男役/女役を設けることによって、異性愛の営みにおける男性/女性を模倣し、反復すること。このような同性愛における男役/女役というパロディは、もともと異性愛における男性/女性が「役割」にすぎないことを明らかにする。バトラーは他にも、異性装(男装/女装)や、侮蔑的な意味合いを持つ名詞(例:オカマ)をあえて引き受けてしまうことも、パロディのうちに含める。模倣や反復こそがジェンダーを攪乱する実践になりうるのだと語るバトラーは、つまり二項対立の「外」ではなく「内」に可能性を見出すのだ。
 では、ドゥルーズ+ガタリはどうするのか。彼らは男性/女性という二項対立を、いったんマジョリティ/マイノリティという二項対立で表そうとする。そしてそこに大人/子ども、異性愛者/同性愛者、白色人種/有色人種……といった数多くの二項対立を当てはめていくのだ。そうして、「マジョリティ」という枠組みが実は存在しないことを示してしまう。「男性で、大人で、異性愛者で、白人で……」というのは、全体から見ればもはや少数なのだ。マジョリティのなかにはマイノリティが潜み、マイノリティのなかにもマジョリティがありうる。ドゥルーズ+ガタリが行なうのは、個人の属性を無限に細分化することだ。一人ひとり別の性があるのだとする「n個の性」という概念は、こうした操作によっても導かれる。彼らもまた男性/女性など二項対立の「外」ではなく、「内」に可能性を見出した者たちだ。
 なぜ「外」に可能性を見出してはいけないのか。簡単に言えば、「外」を見出すような思考は二項対立を前提としてしまうために、かえってそれを温存してしまうからだ。したがって私たちは「内」に留まる必要がある。バトラーはたとえば、レズビアンを「男性でも女性でもない、新たな性」と見なすような論、母親に「男性/女性という二項対立が形づくられる前」を見出すような論、両性具有者に「男性/女性という二項対立に収まらない肉体性」があるとする論、それらいずれをも否定する。またドゥルーズ+ガタリも「n個の性」を語る際、「多くの女たち」「多くの男たち」と言うことによって、たとえば第三の性を描くようなことは避けている。批判者たちは、「ドゥルーズ+ガタリは性別ではないものまで性別に数え上げているだけであって、実際の性とはなんの関係もない」と言うだろうが、それはたんに想像力が貧しいのだ。
 だとすれば、「同性に『異性愛のやり方』を当てはめているBLや百合」は、むしろパロディとしての強さを持ちうるのではないか。攻め・受けという「役割」の形式は、異性愛における男性・女性も「役割」にすぎないことを明らかにする。また、「ある作品が、BLや百合で描かれる必然性」を望む人は少なくないが、もはやそんなものは必要ない。異性愛にはないような関係の形を描くことも、社会的なタブー性を描くことも、BLや百合の条件ではない。だいいち、異性愛にはない関係の形とはなにか? ある人は、異性愛が男性上位で、役割固定的で、非対称で不平等な関係であることを批判するだろう。しかし、それは多様なセクシュアリティを自身もまた画一化しているにすぎない。タブー性の絶対視も同じことだ。そうではなく、BLや百合には「同性である」ということ以外なんの条件も必然性もないことに意味がある。
 まとめ。BLや百合をジェンダー批評として捉えなおすに当たって、今の私はどうしようと思っているのか。(1)消費者の「自意識」の問題と、BL・百合といった形式の問題は切り離そうということ。「なぜ人はBLや百合にハマるのか」など知ったことではないと、はっきり言うことだ。(2)「BLや百合は現実とは関係がない」といった責任回避的な言葉をやめ、「暴力的だ」といった他のポルノ全般にも言えるようなことを言わないこと。問題を曖昧にするものでしかない。(3)BL・百合とはなにか/どうあるべきかといった条件や必然性、定義の問題には立ち入らないこと。そんなことより、なにができるかという可能性の問題について考えたほうが生産的なのだ。この三つから、私がBLや百合を愛することと、同時にフェミニズムを語ることの関わりを立ち上げようと思う。少なくとも、「フェミ対腐女子」のような争いには関わらないつもりだ。

 続く?

 追記)少し分かりづらい箇所があったので、補足します。最後から二段落目の「しかし、〈それ〉は」は、「しかし、〈同性愛にそのような非対称性や不平等性がないなどと言うこと〉は」という意味でした。