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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

もしも人工知能がピーター・シンガー『実践の倫理』を読んだら

 ピーター・シンガーは、倫理の適用範囲を人間以外、すなわち「動物」にまで拡大させたことで知られている。それは、彼が「最大多数の最大幸福」を重んずる功利主義者であることと関わっている。ここでは「幸福」が、シンプルに「苦痛ではないこと」として捉えられているのだ。彼は「幸福=苦痛ではないこと」を感じることの条件として「苦しむ能力」を挙げている。痛みや苦しみを感じることのできる者ならば、逆に誰でもその反対の状態=幸福を知っているというわけだ。この理屈に従えば、私たちはもはや「最大多数の最大幸福」の適用範囲を人間に限らなくても構わない。動物、より具体的に言えば脊椎動物は苦しむことができる。だとすれば、私たちは当たり前ながら彼らの苦しみを取り除かなくてはならない、というのがシンガーの主張だ。その考えから導かれるのは、科学的な実験において動物を用いることの禁止、さらには肉食の禁止になる。
 彼がそのようなことを語るのは、決して根拠のないことではない。たとえば、彼は歴史上に実在した性的差別や人種差別を例に挙げる。かつて西洋社会が女性や有色人種を差別していたのは、彼ら(=私たち?)が「人間扱い」されていなかったからだろう、と。ここでは差別の原因が、「人間/非人間」という区別自体に求められているのだ。もし私たちが「動物」への暴力を「それは人間ではないから」という理由で正当化しているとすれば、それはかつて西洋社会が女性や有色人種を「それは(西洋の標準的な)人間ではないから」という理由で差別していたことと、全く同じことをしているのだ。シンガーはこれを人間中心主義だとし、厳しく批判する。もはや倫理の適用範囲は、「それは人間だ/それは人間ではない」といった二項対立によって分けられてはならない。そこで持ち出されるのが「苦しむ能力」というわけだ。
 シンガーは以上のような論理から、動物愛護と呼ばれる私たちの行為に確固たる倫理的基盤を与えようとする。たとえば捕鯨はしてもいいのか、それともいけないのかなどという問いは彼にとっては愚かだ。鯨どころか魚類全般、そして私たちが普段から食べているほとんどあらゆる肉に至るまで、彼は食べることを禁じるだろう。実際、シンガーは菜食主義者だ(さらには功利主義の観点から、彼は所得の20%を寄付しており、先進諸国に対しても富のいくらかを後進諸国に贈与すべきだと述べている)。はっきり言って偽善ではないかとさえ感じられるほどのこの熱い倫理観は、しかしあるときにはひどく冷たいものとなる。「苦しむ能力」を倫理の適用範囲として用いる彼は、植物人間の命を絶つことや胎児を中絶することなどをためらいなく許容する。なぜなら、それは苦しむことができないからだ。

 大澤信亮はその著書『神的批評』のなかでピーター・シンガーを参照し、それを批判しつつも突き詰めようとする。彼はまず、「何をもって他者が『苦しんでいる』と判断し得るのか」と問いかける。「暴力を振るったときに叫び声を上げるからか。神経系統に人間に近しいものがあるからか――そのように進んでいくとき、私たちは、究極的に、誰が苦しみ、誰が苦しまないのか、決定できない。植物も、石ころも、空気も、水も、苦しんでいるのかもしれない。私たちがその固有の表現をまだ発見できないだけで」。これは重要な批判だ。というのもシンガーは「苦しむ能力」を規定するとき、たしかに「神経系統に人間に近しいものがある」という点から始めているからだ。人間中心主義を遠ざけるために持ち出された「苦しむ能力」もまた、実は極めて「人間的」なものにほかならない。大澤はこの盲点を突いた上で、次のようにまとめる。
 「ならば、シンガーの誇らしげな菜食主義は、結局、女性や有色人種を差別してきた者たちの論理を反復するだけではないか」
 もう一つ、大澤はシンガーの問題点を「平等の根拠を『苦しみ』に置く発想自体」に求めている。「苦しまなければ、殺していいのか。苦しんでいれば、殺していいのか。世界にはなぜ、苦しみが存在するのか。私たちはなぜ、それを消し去りたいと望むのか」。これも重要な批判、というより突き詰めだと言える。シンガーはつまるところ、「人間/非人間」という二項対立を「苦しむ/苦しまない」という二項対立に置き換えただけだ。どちらにしても後者は無視されたままに終わっている。大澤は別の箇所で、この二分法それ自体を問うのだ。「憎んでいる者なら殺すこともあろうが、愛する者だけは殺さない、という自己規定こそが暴力の形式である」と。
 大澤信亮『神的批評』の最終論考「批評と殺生――北大路魯山人は、以上のようにシンガー倫理を乗り越えた結果、あまりに痛ましい罪悪感に囚われている。「生きることは食べることであり、食べることが殺すことであるならば、私たちにどんな希いが許されているだろうか。何も許されていない。この結論は絶対に思えた。そこから目を逸らしたすべての試みが空疎に思えた。今も思っている」。彼は肉食どころか、菜食や呼吸にすら暴力の臭いを嗅ぎとってしまう。この結論から逃れるため、(簡単にまとめておくなら)彼は哲学的「死」の概念を用いることを選ぶ。生きていたつもりが実は「死」に向かっていた、という気づきを、食べていたつもりのモノに実は食べられていた、殺したつもりのモノに実は殺されていた、という気づきへ置き換えるのだ。結果、彼は自分の「死」を受け入れること、自分を殺すような存在こそを愛する態度に倫理を見出そうとする。

 だが、私はピーター・シンガーにも大澤信亮にも不徹底なものを感じる。シンガーに対する大澤の批判は、シンガー自身の論理を突き詰めて行なわれるために極めて正しい。問題は、そこである二つの論理を使っていることだ。「~も苦しんでいるかもしれない」と「相手が~でなければ殺していいのか」。しかし、この論理はどちらも無限に拡大させることができる。たとえば、一つ目の論理に大澤は「実在するモノ」しか当てはめようとしない。「実在しないモノ」、すなわち虚構の世界に属する人物や可能世界に属する人物はどうするのか。あるいは、今後決して存在することのありえないような「なにか」の苦しみは? 大澤は先の文章で「私たちがその固有の表現をまだ発見できないだけで」と書く。そう、彼は人間中心主義を脱したように見えて、実は「まだ」「発見」という語を用いたことにより、問題の中心に再び「今ここにいる私たち」を置いてしまうのだ。
 二つ目の論理が孕む問題によって、事態はもっと根本的なものになる。大澤はここでやはり「実在するモノ」しか当てはめようとしない。同じように「実在しないモノ」、虚構の世界に属する人物や可能世界に属する人物を当てはめてみよう。さて、虚構の人物は死ぬことができるが、しかし死ぬことができない。プログラムは容易にデリートされるだろうが、また容易にコピーできる。彼らを殺すことは、したがって可能でありながら不可能だ。もはや「相手が~でなければ殺していいのか?」と問うこと自体が、大澤の議論に矛盾を生じさせている。なぜなら、それ自体が「殺せる者/殺せない者」の二分法を新たにつくり出す例の「自己規定」にすぎないからだ。彼の誤りは、哲学的「死」の概念をやはり「人間的」なものとして扱ったことにある。もし仮に人工知能が、プログラム人格がシンガーや大澤の本を読んだら、そこには欺瞞以外のなにも覚えないだろう
 むろん、私は以上のようなことを真剣に考えているわけではない。ただ大澤の論理を徹底させると、当の論理自体が崩れ落ちてしまうことを述べただけだ。では、なぜこのようなことが起きたのか。おそらく、それは彼がカント倫理に深く依拠しているからだと思われる。カントは他者や自己を「手段のみならず目的」「人格」として扱うところから倫理を立ち上げようとする。言うなれば、「人間/非人間」の二分法を導入、仮構することから倫理が始まるのだ。そうでなければ人間はたんに「自然」の一部でしかなく、そもそも倫理や責任を負う義務は一切ない(なぜなら「自然」だからだ)。わざわざ「人間/非人間」を分割する類の倫理に依拠しておきながら、それが分割される前の「自然」に対して倫理の適用範囲を拡大させようとするのは転倒している。逆にカント倫理の仮構性(あえて~かのように)を知る柄谷行人は、この転倒を起こさない。彼はあくまでマルクス的な唯物論を支持するが、その倫理的正当性を保証するためにカント的な自律を「あえて」接続するのだ。あるブログ(『The Red Diptych』)は大澤のカント依存に異議を唱えてヒュームの可能性を記し、ついでに柄谷のマルクス=カント理解に疑問を呈するが、私はとくにその必要を感じない。大澤が見逃しているのはヒュームの可能性ではなく、カントの仮構性だ。
 私たちは倫理を仮構する。したがって、その適用範囲もまた常に仮構の影響下に置かれる。ピーター・シンガーや大澤信亮とは異なり、私は倫理の適用範囲は「人間」から出発するしかないだろうと考えている。肝心なのは、「人間/非人間」の二分法に代わる新たな基準を模索することではない。それらは結局のところ二分法の温存、失敗に終わるだろう。そうではなく、「人間/非人間」という枠組みの内側に留まりながら常に境界へ注意を配り、ときにその境界を往復し、攪乱させるような倫理的主体へと身を投じることなのだ。

 そう、私が読まなければならないのはピーター・シンガーの倫理学だけでなくダナ・ハラウェイフェミニズムであり、押井守イノセンス吉浦康祐『イヴの時間』という二つのアニメだったのだ(次回へ続く?)。