鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

『郵便的不安たち』について ――東浩紀と柄谷行人(第二回)

 そもそも、東浩紀にとって柄谷行人とはどのような存在だったのか。それを問うことは、柄谷行人にとって東浩紀がどのような存在だったのかを知ることに繋がる。てっとり早いのは、『郵便的不安たち』(一九九九)を読むことだろう。この評論集は『郵便的不安たち#』(二〇〇二)『郵便的不安たちβ』(二〇一一)とタイトルを変え、二回に渡って文庫化されている。その度に内容を大きく入れ替えているため、私たちは『郵便的不安たち』のテクストを二種類に分けることができるように思われる。すなわち、いずれの『郵便的不安たち』にも収められている中核的なテクストと、そうではない周縁的なテクストに。だが、事態はそう単純ではない。『β』にのみ収録されているものの方が、時期的にあとのものだという意味で重要だとも言えるからだ。だとすれば、私たちにはもはやなにが中核的でなにが周縁的なのかを決められない。つまり、『郵便的不安たち』にもまた脱構築の契機が宿っているのだ。
 東浩紀柄谷行人の出会いについては、伊藤剛によるインタビュー「オタクから遠く離れて」(一九九七)で語られている。この文章は、さながらデリダ「割礼告白」のように上部と下部で別々の内容が進められていく。上では日本アニメーションの歴史「遠く離れて」が、下では自身の歴史「オタクから」が。それを読むと、東が大学で演劇をやっていたものの失敗し、将来を憂いて東京大学の法学部から教養学部へ進学したことが分かる。「そうやってフラフラした時期が四ヵ月続き、九一年の一〇月。早稲田大学でやっている柄谷行人の講演会に行ったわけですね」。そこでの東の質問に柄谷は注目し、連絡先を教えるに至ったのだという。電話で悩みを打ち明ける東を柄谷は法政大学の授業に呼び、そのあとの会話で自身の「学生時代のヨタ話」もするのだが、東は満足できない。「なんか俺はもっとこう、本質的な会話をしたいと思って。それで、何か書けば、それなりに実質的な話ができるのではないかと、ぼくは考えた」。
 そこで提出されたのが、「ソルジェニーツィン試論――確率の手触り」(一九九一/一九九三)だ。『批評空間』に載せられたこの批評が、東にとって実質的なデビュー作となり、のちの問題意識を予見する本質的な文章となる。「確率」とは『存在論的、郵便的』で言えば固有名詞の「訂正可能性」「幽霊」のことだからだ。ソビエトにおいて強制収容された者は、名簿によってランダムに選ばれただけだった。そのような状況では、「なぜ私の父は殺されたのか」と問うことは、確たる理由がなにもないために、できない。その問いは、容易く「なぜ私の父は私の父だったのか」という根源的な問いに陥ってしまうのだ。同じことが、『存在論的、郵便的』では次のように書かれている。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」。この根源的な問い、確率の手触りを避けたところに「単独性」が現れるのはすでに見たとおりだ。
 ところで、この東浩紀が語る「いいひと」としての柄谷行人像は、今の私たちには奇妙な印象を与える。たとえば柄谷は「ソルジェニーツィン試論」について、東へ「(当時の自身が選考委員を担っている)群像新人賞に回そうか」と持ちかけてさえいる。だが別のある場面が回顧されるとき、この像の真逆と言っていいような柄谷行人像もまた浮かび上がるのだ。『β』巻末の特別インタビュー「九〇年代を振りかえる――あとがきにかえて1」にそれが示されている。「存在論的、郵便的」の連載が終わると、『批評空間』では座談会「トランスクリティークと(しての)脱構築」(一九九八)が行なわれた。柄谷行人浅田彰大澤真幸、そして東浩紀の四人で行なわれたこの座談会において「査読というにはかなり酷な評価が下されていた記憶があるのですが……」とインタビュアが訊ねると、東は「あの座談会はじつにひどい」「単に若い人を潰したかっただけだと思う」と語り出す。のちのシンポジウム「いま批評の場所はどこにあるのか」(一九九九)でも、東は「ネチネチと嫌み」を言われたのだという。
 二つの事件を機に「もうこんな人たちと付き合うのはやめよう」と決めた東は、『批評空間』との関係を断つべく動き出した。「棲み分ける批評」(一九九九)と「ポストモダン再考――棲み分ける批評Ⅱ」(二〇〇〇)は、そのような流れのもと書かれている。現在の日本の論壇は、書かない浅田彰に代表されるアカデミズムと、書きすぎる福田和也に代表されるジャーナリズムとで完全に棲み分けられている。前者は読み手に届かないために社会への緊張がなく、後者は読み手に届きすぎるために知への緊張がない。よって両者は対立するのではなく、補完し合っている。浅田が左翼で福田が右翼だという立場の違いも、この棲み分けを促しているのだ。実際に両者の関係は悪いものではなく、「いま批評の場所はどこにあるのか」でも同席していた。似たような棲み分けは、論争した高橋哲哉加藤典洋の関係にさえ見られるのだ、と。東は、この状況を「徹底化されたポストモダン」と名づけた。
 ポストモダンとは、文字どおり近代(モダン)のあと(ポスト)に来る時代区分を指している。東はこの「ポストモダン」と、近代からポストモダンへの移行期に現れた新しい思想の流れ「ポストモダニズム」を区別した。大陸では六〇年代、英米では七〇年代、日本では八〇年代に起きた流れだ。これらポストモダニズムは終わったが、それはポストモダンの徹底を意味する。なぜならポストモダンとは、ひとつの思想や主義(イズム)が決して社会に広く通じることのない時代を意味するのだから。注意すべきは、日本はもともと西洋に比べて近代化さえ不充分だったことだろう。このような「悪い場所」では、近代を解体すべきポストモダニズムは現状肯定の道具にすり変わる。言わば自分たち国の、主体の未構築を脱構築として取り違えたわけだ。そうして徹底化されたポストモダンである九〇年代において、思想や主義を語る日本の批評は機能不全に陥った。浅田は読み手に届けることを諦め、福田は思想そのものを諦めてしまった。
 東はこうした状況を乗り越えるためにも『批評空間』から逃れる必要があった。「さんざんいじめられた」「ずっとバカ扱いされてきた」という感情の問題だけでは決してない、確たる理論的ないし実践的な問題があった。タイトルにある「郵便的不安たち」とは、思想や主義を広く伝える手立てがなくなった社会で、いかに批評を行なうかという不安を指している。『存在論的、郵便的』を読んだ私たちは、これがすなわち「郵便空間」を行き来する手紙のことなのだと分かるはずだ。手紙は届いたり届かなかったりするし、遅れて届いたり早く届いたりする。全体を見渡すような体系は(否定神学としてさえ)もはやありえない。では、どうすればいいのか? まさに『郵便的不安たち』という本が、その問いへのひとつの答えになっている。ここには状況論も文芸批評もあれば、エッセイや書評やサブカルチャーへの言及もある。文庫化における章タイトルの追加も、その多様性を強調しているかのようだ。
 しかし、かつて「いいひと」だった柄谷行人が、たった数年のあいだに「ネチネチと嫌み」を言う人になったとはどういうことなのか。私たちはここに、もっとも単純な答えを用意できる。要するに、自分の仕事を批判されて頭に血がのぼった、ということだ。だがこの答えは、東自身が退ける「湾岸戦争を機に現実に目覚めたデリダや柄谷」という人物像と大差がない。第三期のデリダや「探求3」期の柄谷が陥った否定神学化の理由として、『存在論的、郵便的』はそうした通俗的な解釈を避けている。むしろ、そうした通俗性を避けるためにも東は第二期のデリダを評価したのだ。もし第三期のデリダが「現実」に目覚めたというなら、第二期はただの「夢」でしかないのだから。私たちもまた、同じ問いから出発している。したがって、柄谷の変貌にあるいはもっと別の動機を探さなければならないかもしれない。ここではその問いに深入りしないが、デリダ『有限責任会社』におけるジョン・サールの激怒を思い出しておこう。(注1)
 ところで、東浩紀中上健次に会ったことがない。シンポジウムで柄谷と同席した中上を一度だけ見たことはあるが、中上はその直後に亡くなっている。「中上亡き後にデビューしたということは、別の意味で言うと、柄谷行人の仕事が不調になったあとに登場したということでもある。実際、当時の柄谷さんは中上健次の死に強いショックを受けていた。ぼくが柄谷さんに会ったのはそんな時期なんです。だから、ぼくが二〇代のとき『批評空間』で仕事をしながらずっと思っていたのは、率直に言って『残念だ』という気持ちだった。柄谷さんや浅田さんはもっとおもしろかったはずなのに、どんどん保守的な方向に行っている感じがした。時代の転換期でした」。ここでも私たちは、「中上の死にショックを受けて否定神学化した柄谷」という像を描いてはならない。むしろ考えるべきは、中上と東が柄谷にそれぞれ及ぼした影響の差異なのだ。

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 東浩紀『郵便的不安たち』と『#』には、柄谷行人について書かれた文章が二つ収められている。「柄谷行人について 柄谷行人『探究』の紹介」(一九九七)と「柄谷行人について2 柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』文庫版への解説」(一九九八/一九九九)がそれだ。一つ目の文章では、柄谷の『探究1』『探究2』と「探究3」との違いについて、より詳しく検討されている。要するに『探究1、2』は批評と哲学を往復するように書かれていたが、「探究3」では哲学のみに絞られている、というのだ。
 柄谷は『探究』を始まるまで、大きく分けて二つの仕事を行なっていた。一方は、『畏怖する人間』(一九七二)『意味という病』(一九七五)『反文学論』(一九七九)『日本近代文学の起源』(一九八〇)といった、具体的な文芸批評。もう一方は、『マルクスその可能性の中心』(一九七八)『隠喩としての建築』(一九八三)『内省と遡行』(一九八五)といった、抽象的な哲学思考。さて、『探究』は一見すると抽象的な哲学思考の仕事に見えるが、実際には出てくる哲学者たちを「固有名詞」として扱っている。たとえばウィトゲンシュタインの哲学を、ウィトゲンシュタインが抱えた固有の問題として読み解くのだ。つまり『探究』は、抽象的な哲学思考にもかかわらず具体的な文芸批評の形で書かれている。その意味で、それまで分けられていた二つの仕事を往復するような仕事なのだ。私たちは、『探究1』で柄谷の脱構築否定神学からコミュニケーションへ転回したことを知っている。だが同時に『探究』は、それ自体が哲学者とのコミュニケーションなのだとも言える。様々な哲学者たちの言葉を読み換えては自身の哲学のなかに取り入れていく柄谷は、まさに哲学を脱構築している。また、『批評とポスト・モダン』(一九八五)ではこの往復の必要性も語られていると東は言う。すなわち、近代化の不充分な日本では、ポストモダンの哲学は容易く現状肯定の道具にすり変わるということだ。先ほど述べた東のポストモダン論「棲み分ける批評」は、柄谷が描いたこの問題を受け継ぐものだった。重要なのは、日本の具体的な状況を踏まえて抽象的な思考を営むこと、批評と哲学の間に横たわる領域を経て往復を繰り返すことを「批評」とすることなのだ。柄谷は、そうしたコミュニケーションの領域を「交通空間」と名づけている。
 しかし、この説明は具体的な批評が抽象的な哲学を支える理由にはなっているが、抽象的な哲学が具体的な批評を求める理由にはなっていない。「探究3」は、この自己批判から来ているのだと東は語る。したがって新たな「探究」の記述は、カントの哲学についてのみに絞られている。「それゆえ問題は前進している」とも東は書いているが、この「探究」が理論的後退を招いてしまったのはすでに見たとおりだ。実際、このあと柄谷は「探究3」を放棄して『トランスクリティーク カントとマルクス』を書き始めている。そう、再び「クリティーク=批評」なのだ。
 なお東はこの指摘だけではなく、柄谷における批評と哲学の乖離が抱えていた病についても深く考察している。それは柄谷にとって、日本と西洋、前近代と近代の乖離でもあると言うのだ。したがって「探究3」は本来、同時期の「日本精神分析」(雑誌版)と互いに補い合う関係にあったのではないか、と。つまりこうだ。日本の文学について批評を書くことは、近代化の不充分なこの国について考えることを意味する。それは充分に近代化された西洋の哲学について論考を書くことと、まったくかけ離れてしまうというわけだ。『探究』はまた、この乖離を乗り越える形で書かれたという意味でも重要なのだ。そもそも柄谷は漱石論「意識と自然」において、具体的なものと抽象的なものとの乖離を論じてデビューした。これは同時に、江藤淳吉本隆明が自明のものとしていた「政治」と「文学」の繋がりへの批判でもあった。『意味という病』の「病」とは、この乖離のことを指している。東によればその「病」は、つまるところポストモダンの「病」だ。ポストモダン、すなわちひとつの思想や主義が決して社会に広く通じることのない時代において、政治と文学、具体的なものと抽象的なものは乖離せざるを得ない。柄谷は現在の日本がポストモダンであることを否定するが、その振る舞いはまさにポストモダニストのそれだというわけだ(その意味でも、彼はデリダに近い。デリダドゥルーズフーコーがそうだったように、ポストモダンやポストモダニズムという枠組みに自分が当てはめられることを拒否した)。ならば問わねばならないのは、いかに柄谷はこの乖離を乗り越えられたのか、でもあるだろう。かけ離れた二つの仕事を、なぜ柄谷は往復しようと思うことができたのか。二つ目の文章「柄谷行人について2」では、主にそのことが問われている。だが残念ながら、東はこの問いに答えることができなかった。
 私たちは「なぜ柄谷もデリダも九〇年代に理論的後退を強いられたのか?」「なぜ柄谷とデリダのスタイルは異なるのか?」という二つの問いから出発した。だがここに、「そもそも、なぜ柄谷は『転回』できたのか?」という三つ目の問いを付け加えなければならないだろう。それは『存在論的、郵便的』のもともとの問い、「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」と並行するものだ。さて、『存在論的、郵便的』はこの問いに答えることができなかった。私たちは、先人が躓いたこの三つの難題について考える必要がある。だがこれらの問いは、本当は二つ、あるいは一つの問いのバリエーションかもしれない。というのも、東はここで『探究』の転回について、はっきりと「日本と西洋」における乖離との関係を示唆しているからだ。そして、柄谷とデリダのスタイルの差異もまた「日本語とフランス語」の差異に依るのだと東は語っていた。とすれば、全ては日本と西洋という大きな関係のもとに読み解かれる可能性がある。
 個人的には、柄谷のこの乖離と往復は出版のレベルにおいても見られるように思われる。先ほどの『批評とポスト・モダン』と『隠喩としての建築』は、ほぼ同時期に書かれた文章をわざわざ分けて収めて世に出したものだ。この分割は、まさに批評と哲学の乖離に対応している。『批評とポスト・モダン』は批評、『隠喩としての建築』は哲学、というわけだ。興味深いのは、柄谷がのちにこれらを絶版にし、それぞれの中核的な文章を収めた文庫本『差異としての場所』(一九九六)を出版していることだ。これの年は、ちょうど「探究3」を放棄して「トランスクリティーク」を構想したであろう時期に当たる。私たちは、この出版になんらかの意味を読み込むことができる。哲学と批評を往復するような「批評」としての『探究』は、やがて「探究3」で終わりを告げた。だが「トランスクリティーク」ではまた別の「クリティーク=批評」を見出しているのではないか。そしてその「クリティーク=批評」は、『差異としての場所』の出版であらかじめ宣言されていたのではないか。詳しくはのちほど考えられることになるが、ここでは往復の質が異なっていることに注目しておきたい。『批評とポスト・モダン』と『隠喩としての建築』が分かれていたとき、あくまで批評/哲学という乖離も往復も、柄谷のスタイルの問題だった。私たちは、それを知らずにこれら二冊の本を読むことができた。しかし、『差異としての場所』ではそういうわけにはいかない。批評/哲学という乖離と往復は、一冊の本のなかで繰り返し行なわれることになるからだ。言わば、読み手にも乖離と往復が強いられるわけだ。一冊の本のなかで行なわれる乖離と往復こそ、のちに『トランスクリティーク カントとマルクス』が試みたことではないか。柄谷が「トランスクリティーク」を「脱構築の否定ではなく、むしろ徹底」と述べたこと、『差異としての場所』を「私の『差異と反復』を示すもの」と述べたことの意味は、ここから導かれるだろう。

(注1)ただし、実際にこれら座談会とシンポジウムの記録を読んでみると、「ネチネチと嫌み」を言っていた柄谷行人という像とはまた別の解釈も生まれる。たとえば「トランスクリティークと(しての)脱構築」では、デリダ解釈をめぐって浅田彰東浩紀を問い詰めている場面では柄谷は助け舟を出している。また、「いま批評の場所はどこにあるのか」では、松浦寿輝の書評へ反論しようとする東に対して、むしろ松浦を攻撃するような言動をとる(小谷野敦はこの振る舞いを「なだめる」と形容しているが、それはそれで言いすぎだろう)。もちろん、柄谷の人物像に関しては私たち読者よりも当事者らの感覚の方がはるかに正しいことは否めない。だが「この私」には、この座談会とシンポジウムにおける柄谷は「嫌み」を言っているというより、もっと深刻な人間観・世界観の食い違いから東とのディスコミュニケーションを引き起こしてしまっているように感じられる。柄谷がシンポジウムでの東らの議論を「全然わからない」と言うとき、それはある意味で本当に分かっていないのではないか。
 この食い違いがなにを意味するかは、のちに私たちが明らかにするところではある。先にまとめてしまおう。それは、柄谷のコミュニケーションとデリダのコミュニケーションとの決定的な差異に基づいている。