鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

「上手な文章」を目指さなくてもよい理由

 今回は、小説の書き方に関わることがらについて話をしようと思います。せっかく文芸サークルなんてものに入っていることですし、たまには。
 内容はタイトルのとおりです。私たちは小説を書くときにせよなんにせよ、普通「上手い文章」を書こうと心がけています。読みやすい文章、分かりやすい文章、淀みない美しい文章、などなどです。
 でも、私たちは本当に「上手い文章」を書く必要があるのでしょうか。そんな文章は、書かなくてもよいのではないか。いやむしろ「上手い文章」を書こうとすることが、優れた小説を立ち上げる妨げになっているのではないか。そんなことを、ここ最近は考えていたわけです。
 一人、名前を伏せたまま例を挙げてみましょう(フィクションと思ってくださって大丈夫です)。彼はとても「上手い文章」を書きました。物語の世界観や主人公の性格にきちんと合った語彙で、難しいところも読みにくいところも全くない。それどころか、声に出したいほどに美しい。かつて私が在籍していた高校の文芸部にはそんな文章を書く人がいて、内輪でも高く評価されていました。
 しかしながら、彼の小説には大きな欠陥がありました。それは物語の内容、さらには主題の根幹を成す部分での欠陥でした。要するに、そこには「他人」が描かれていないのです。いや、べつに「他人」が描かれていなくても優れた文学ならいくらでもあるでしょう。彼の小説が問題だったのは、「他人」が描かれていないにもかかわらず、物語の主題としては「他人を描くこと」を選びとっていたことです。それどころか、「他人を描いた」かのように物語を仕立てていたことです。
 彼の小説は、構造としては同じことの繰り返しでした。主人公の男を、それより弱い立場の女が拒絶する。たとえば、内向的な児童、引きこもりの少女、気弱な妹、という風に。そんな「弱い立場」である彼らのささやかな拒絶を、主人公の男は大騒ぎしながら受け止めます。大騒ぎしながら受け止めるために、主人公の男はいつも傷つきやすく鬱陶しい性格をしています。そして物語は、お定まりの「僕は『他人』に出会った」という手垢にまみれた主題を描きます。しかしそれは、言わば「適度に都合の悪い『他人』」にすぎません。
 適度に都合の悪い「他人」とは、要するに主人公を適度に傷つけ、適度に反省させるだけの「他人」だということです。事実、彼は全く同じ構造の小説を繰り返し書くことができました。小説の主人公を傷つけはするが、書き手も、あるいは読み手も傷つけないことに成功している。彼の小説は部員たちから高い評価を受けましたが、それは単に部員たちも傷つかずに済んだからです。一方で物語の内容は「僕は『他人』に出会った」「僕は傷ついた」というメッセージを与えてくれるから、私たちは自分が安全地帯にいることから目を背けることができます。
 ときおり導入されるメタフィクションの意匠もまた、この欺瞞を隠蔽することに加担しました。そして、最初の話題に戻るなら、まさに彼の「上手い文章」がこの構造を温存したわけです。いや、もっと言えば、「上手い文章」からは既に「他人」が排除されている。それはつまり、小説という表現形式自体が「適度に都合の悪い『他人』」に成り下がっていることを意味します。ひとつの作品を、読みやすく分かりやすく淀みなく美しく書き終えられるのは、決して誇れることではありません。そのとき書き手は、なに一つ自分より「強い」もの、困難なものに出会っていないのです。それならそれで「出会っていない」とはっきり書くべきです。
 このことは、なにも彼の小説を読む私たちに限った話ではありません(だったら今さら思い出しません)。たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』から「現実に帰れ」という言葉を導く批評、『シュタインズ・ゲート』よりも『紫色のクオリア』の方が「他者」に出会っているから優れているのだという批評、いずれも同じ罠に嵌っています。「適度に都合の悪い『他人』」の前で、大げさに騒げばいいのです。しかし、作品のなかに躊躇いなく「他人」を表象させてしまうとき、私たちは「他人」を自分の作品のなかに出せるようなレベルのものに貶めているでしょう。あるいは、「作品」そのものがすでに私たち書き手にとって「他人」であるような地平を忘れています。そうしたことを、長らく考えていました。

 ガヤトリ・C・スピヴァクという尊敬すべき思想家がいます。彼女の文章はきわめて難解で、翻訳のためもあってかきわめて読みにくい。
 その文章のややこしさは、彼女がマルクス主義者であり脱構築派でありフェミニストである、という立場の複雑さから来ているものかもしれません。しかし、その読みにくさと分かりにくさには実践的な理由があります。
 分かりやすさはたやすく暴力に変わりうる、というのがその理由です。すなわち分かりやすい文章はその分かりやすさのために、読む人に「すぐ理解すること」を強いるわけです。私はこんなに分かりやすく書いているのだから、当然お前はそれを分かるべきだ、という風に。
 そうして「すぐ理解すること」を強いられた読み手を、分かりやすい文章は言葉巧みに騙せるわけです。読みやすく分かりやすく淀みなく美しい言葉は、読み手に「これは本当なのか?」と問わせる隙を与えない。暴力性について思考するスピヴァクは、まさにこの問題意識から自身の文章を難解なままに留めたのだと言えます。難解な文章は、誠実だから難解なのです。
 ところで、この問題は当然のように私のところへ帰ってきます。私はやはり、読みやすく分かりやすい文章を心がけたいと思ってしまう。スピヴァクを尊敬するならば、その態度をも学ぶべきではないか? この問いはジャック・デリダジョン・サールの論争をめぐる本『有限責任会社』を読むことで、さらに強まりました。というのも、デリダ的なものに与するはずの私の文章は、明らかにサール的なものだったからです。
 デリダが批判したのは、「真面目/不真面目」「標準/逸脱」というヒエラルキーでした。そのためデリダは「真面目」「標準」を重んじるサールを挑発すべく、徹底して「不真面目」で「逸脱」した文章を書き、反論しました。私は、デリダの問題意識もその実践もきわめて正しいと思います。しかしそれなら、なぜ私は今デリダのこうした戦略を「真面目」に紹介できるのでしょうか? それはダブルスタンダードなのではないか、という疑問が出てきました。
 むろん、スピヴァクデリダを尊敬するからその難解な語り口を真似てみよう、というのは言うまでもなく「最悪」の思考停止です(先日も、そういう態度の「デリダ派」に不毛な論争を仕掛けられました。これは愚痴なのですが、「あなたの読みはデリダへの裏切りだ」とか言われたんですよ。いくらなんでも、見知らぬフランス人に対して感情移入しすぎでしょう。もっと言えば、こういう「狂信者」たちを避けるためにこそデリダはその難解な語り口を努めて鎮め、政治化したのです)。その意味で、私は読みやすく分かりやすい文章を書いてしまうこの「ねじれ」に耐えるべきなのかもしれません。要するに、その「ねじれ」が私にとっての難解さとしてある、ということですね。しかし、そうやってまた分かりやすくまとめてしまうことにも罠があります。では、どうすればいいのかは、まだ分かりません。
 結局、私もまた自分より「強い」もの、困難なものに出会っていないということであるように思われます。そういう意味では、「彼」と「私」とでは全く同じ問題に囚われているのでしょう。以前ある方に「その書き方のままだと窮屈になるときがくるだろう。あるいは、反動としてのフォーマルだと回収されかねない」と忠告されたことがあります。が、だからといって自由でカジュアルな書き方に変えてみても同じことです。そうした小手先の文体芸で済むことではないのです。たとえば、スピヴァクデリダの書き方は「小手先の文体芸」ではありえない。いや、そうやって意識的に文章のスタイルを変えられると思うこと自体、書き手を「他人」のいない場所へと連れ戻そうとします。
 小説家の保坂和志は「下手なままでいたい」と言いました。これは、自分の文章を「下手なまま」にさせるようなものを描き続けたい、ということを意味しています。彼にとって、それは「風景」(近代文学のそれではなく)でした。一次元としての言葉は、三次元の空間を描こうとするとき否応なくそれを歪めていきます。