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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

長井龍雪作品における「見る」ことと恋愛。 ――『あの夏』から『あの花』『とらドラ!』へ

 なぜこんなにメガネをかけた登場人物が多いのか。長井龍雪『あの夏で待ってる』の物語を動かす六人のうち、三人がメガネをかけている。これはアニメの伝統から言って、いささか大きな割合を占めすぎではないだろうか。メガネはたんなる物体ではなく、キャラクターの個性を形づくる「記号」のひとつだ。だが、それが約半分のキャラクターに与えられているなら、もはや個性でもなんでもない。ならば、この多すぎるメガネが作品のなかでどのような役割を果たしているのか、改めて考えなければならないだろう。そのヒントになるカットが、オープニングの最後に提出されている。そこではメガネは、映画撮影用のカメラとともにテーブルのうえに置かれている。このカメラこそ、物語が進むうえで重要になるアイテムのひとつだった。メガネの存在意義は、カメラとの関わりのなかで問われる必要がある。
 メガネとカメラのふたつに共通するものとはなにか。それは、どちらも「見る」ためのものだ、と言うことができる。ただし、当たり前のことだが、その性質はかなり異なっている。メガネは基本的に、ひとりにつきひとつ(正確にはふたつのレンズだ)しか掛けることができない。だから、メガネを通して「見る」ものはメガネを掛けているその人にしか分からない。なにより、カメラとは違って、メガネは「見る」ものを録画することはできない。よって、メガネを通して「見る」ものは、基本的にただ一度だけレンズに映っては消えていく。他方、ビデオカメラは録画機能がなければならないし、撮ったものはのちに全員が「見る」ことになる。つまり、メガネとカメラの差異は、その狭さと広さ、あるいは一回性と反復性としてまとめることができるだろう。メガネは、「ひとりだけ、一度だけ」を象徴している。
 以上のことを考えれば、『あの夏』においてメガネを掛けるキャラクターが多いことも頷ける。彼らが作中で繰り広げる「恋愛」なり「青春」は、まさにその狭さと一回性によって定められているのだ。彼らはたったひとりを愛し、また愛されようとするし、自分たちの「夏」が一度きりものだと知っている。メガネが象徴しているそれらの条件が、彼らを「恋愛」なり「青春」に向かわせるのだ。もし何人でも愛していいし、愛されていいのなら、彼らの関係はなんのトラブルも抱えない。もし何度でも「夏」を繰り返せるならば、彼らはその思いを急ぐこともない。事実、物語を推し進めようとするキャラクター(主人公であるイチカと海人、第五話で柑菜の思いをばらす哲朗)はみなメガネを掛けている。一方で、メガネを掛けていないキャラクター(柑菜・美桜)は葛藤しこそすれ、ストーリーの牽引役ではない。
 忘れてはならないのは、このようにメガネが象徴する「ひとりだけ、一度だけ」の意味合いは、対となる「誰でも、何度でも」があって初めて際立つということだ。この「誰でも、何度でも」を象徴するものとしてのカメラの重要性もまた、同じように考えなければならないだろう。『あの夏』において、カメラは二つ登場する。ひとつは、主人公である海人が持っている、映画を撮るために使おうとするカメラ。もうひとつは、先輩である檸檬が持っており、隙があれば登場人物たちを撮ろうと狙っているカメラ。最終的に、映画の監督が海人から檸檬になり、映画のストーリーがそのまま『あの夏』のストーリーと溶け合ってひとつになることから、後者の方が主であることが分かる。カメラの象徴を担うのは檸檬であり、彼女はだから、登場人物全体を見渡すような立場にいる。なにより、彼女はすでに「恋愛」を超えた視点、何度も「夏」を反復した視点に立っている。
 おそらく『あの夏』は、「恋愛」「青春」にとってなくてはならないものがなんなのか、はっきりと分かっている。それはカメラではなくメガネを通して「見る」こと、物理的な視野狭窄にあるのだ。もっと言えば、恋愛を具体的な「見る」ことに還元するような描写が『あの夏』ではなされている。たとえば哲朗は、恋愛の苦しさに耐えきれずに泣く柑菜の「目を隠す」のだ。ところで哲朗は、柑菜の想いを海人にばらすとき、カメラを構えている。また海人は、イチカの思わぬ言動に対して、構えていたカメラを逆に降ろしてしまう。これらのシーンでは、メガネとカメラの象徴するものがいかに対立し、摩擦を起こしているかがよく読み取れる。要するに、哲朗は全体を見渡す立場(カメラ)に逃げ込むために最後まで悩み続け、海人は早々とその立場を降りてしまうためにさして悩まない。哲朗は、カメラを降ろさないのならメガネの方を外すべきだった。

 

 同監督『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』は、以上のような「見る」ことと「恋愛」の関わりにおいて読み解かれうるだろう。たとえば、この作品でもメガネは重要な意味を持っている。だが、対となるカメラが登場しないため、その意味合いもまた変わってくる。対になるのは、むしろ「見る」ことの対象として現れる「めんま=幽霊」に他ならない。めんま=幽霊は、主人公のじんたんにしか見えない者として甦り、「超平和バスターズ」を困惑させる。視野狭窄を引き受けているのは、見られる対象としてのめんま=幽霊の方だ、と言うべきだ。再会したキャラクターのうち、ゆきあつは嫉妬にかられ何度かじんたんを攻撃する。が、その嫉妬を、すなわち「恋愛」の感情を焚きつけているのはめんま=幽霊なのだ。彼は自分が「めんま」になって目撃されることで、じんたんの特権性を揺るがそうとするが、その欲望はいささか倒錯している。彼はめんま=幽霊がじんたんの方を選んでいるらしいことに嫉妬しているのであって、じんたんにしかめんま=幽霊が見えないのはその象徴にすぎない。いくら象徴の方をいじっても、めんま本人の心をどうこうすることはできないはずだ(注)。むろんそう指摘するだけでは、ゆきあつを批判できても、ゆきあつの欲望を説明したことにはならない。私たちは、ゆきあつがそのような倒錯を起こしてしまうほど、『あの花』においては「見る」ことと「恋愛」が癒着してしまっているのだ、と考える他ないだろう。そして、その癒着を引き起こしているのはめんま=幽霊の特異性なのだ。初めから彼女が全員に見えているなら、ゆきあつの嫉妬はこのような形を取らなかっただろうから。もっと言えば、最終回で「かくれんぼ」をしたのち、全員に見つかるという結末を迎えることもなかっただろうから。ゆきあつが倒錯しているというなら、結末の「かくれんぼ」も倒錯している。
 倒錯は、倒錯される前のなにかを覆い隠してしまう。すでに述べたように、ゆきあつがめんまの姿になるという戦略は、いずれにせよめんまがじんたんを選んでいる、という残酷な事実を覆い隠そうとする。同じように結末の「かくれんぼ」は、全員でめんまを「見る」ことによって、なにかを覆い隠している。それは、いずれにせよめんまはじんたんを選び、じんたんはめんまを選んでいること、したがって他のメンバーは実のところ蚊帳の外なのだ、ということだ。めんまの「お願い」にしろ、それはめんまとじんたんの家族間で交わされた約束であり、「超平和バスターズ」の様々な試みは基本的に不発に終わっている。この残酷さは、要するにめんまとじんたんの「恋愛」がほぼすでに確定しており、ゆきあつたちの入る隙などないのだという残酷さと切り離せない。思えば、最終話の神社で「自己啓発セミナー」をする前、全員の間にはいくつもの三角関係による嫉妬が横たわっていた。自己啓発セミナーと「かくれんぼ」は、この複雑な嫉妬をなかったことにしてしまう。全員でめんまを「見る」こと、全員でめんまを好きだと言うことは、めんま・じんたんの二人と他のメンバーとの間にある格差を覆い隠す戦略なのだ。もちろん、めんまもじんたんも他のメンバーも、その残酷さを知らなかっただろう。じんたんはエンドロール中に挿入される独白において、「(おれたちは)大人になっていく」と語る。だが、複雑な人間関係をセミナーで克服した気になり、それをあやふやに放っておくのは明らかに精神的に退行している(とはいえ、ある意味では「大人になる」とはそのような面を含んでいるので、彼の言葉は決して的外れではないとも言える)。ひとまずここでは、めんま=幽霊が「恋愛」になくてはならない視野狭窄を象徴しているのに対して、彼らが象徴自体を操作して問題を解決しようとしている、その倒錯を見さえすればよい。
 メガネの重要性は、ここから導き出される。メガネはこの作品ではより積極的に、「恋愛」が本質的に狭さを要求するものであることを明かす。したがって、めんまとじんたんの関係が他のメンバーとの関係から実は遠く隔たっており、自己啓発セミナーも「かくれんぼ」もこの残酷さを覆い隠すだけで、決して消し去りはしないのだ、ということを宣告する。たとえば、十年前にメガネを掛けているあなるは、めんまとじんたんの関係性をみんなの前で告発し、それが全てのトラウマの始まりになっている。そして現在メガネを掛けているつるこは、めんまの姿をしているゆきあつをみんなの前で告発する。前者は言うまでもなく、後者はその告発によって再び、じんたんにしかめんま=幽霊が見えない、という特権性を打ち立ててしまうのだ。さらに言えば、つるこはこの物語の複雑な人間関係のなかで、最も多くのメンバー(あなる、めんま)に嫉妬しているが、他方で自分は誰からも「嫉妬されていない」。彼女は超平和バスターズの外部と言わないまでも、その周縁に追いやられている。メガネは、めんま=幽霊が象徴する狭さを「見る」側から裏打ちし、決してごまかそうとしない。それがこの作品に不穏なものをたたえている。

 

 『とらドラ!』について触れるのはまた別の機会にしたい。私たちはとりあえず、この作品におけるキャラクターたちの「目付きが悪い」ことに注目しておこう。

 

(注)文章を最後まで書いてから気が付いたが、ゆきあつはあるいは、じんたんにしかめんま=幽霊が見えない、ということの方にまず嫉妬していたのであって、めんまへの「恋愛」感情はそこから捏造・強化されただけなのかもしれない、と言うことができる。この場合、倒錯は二重に起きていることになるだろう。