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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

『動ポモ』と『ゲーリア』、『クォンタム・ファミリーズ』について ――東浩紀と柄谷行人(第四回)

 東浩紀は、『クォンタム・ファミリーズ』(二〇〇九)で本格的に小説家としての活動を始める。それまでにも、桜坂洋らとの共著で「ギートステイト」『キャラクターズ』といった作品はあったが、ひとりで小説を発表したのは『クォンタム・ファミリーズ』が初めてだった。この作品は、これまで東浩紀が組み立ててきた理論をたんに実践に移したものとしても読みうる。だがそれは、ジャック・デリダが第二期に行なった様々なテクストの試みを、第一期でデリダが組み立てた理論の実践として読んでしまうのと同じだ。そして東は『存在論的、郵便的』において、まさにそのような読みを否定した。私たちは、東に倣って『クォンタム・ファミリーズ』を読むこともまた必要ではないか。この章ではひとつの解釈、ひとつの「感想」を書くことになる。その前にまず、『動物化するポストモダン』(二〇〇一)と『ゲーム的リアリズムの誕生』(二〇〇七)を読んでいこう。
 さて『動物化するポストモダン』は、俗に「オタク」と呼ばれる人々の消費活動をひとつの例として、日本社会のモダンからポストモダンへの変化を描くものだ(正確には、モダンとポストモダンの間に移行期を挟み込んでいる)。その変化とは、簡単にまとめるなら、映写機モデルからデータベースモデルへの変化を指している。かつて読み手と呼ばれる人々は、様々な作品(小さな物語)を受け取ることで、その背後に横たわる世界観や作家像(大きな物語)を消費していた。これは、映画における観客・スクリーン・映写機と対応している。すなわち、主体の映写機モデルにおける他者・自我・主体とも対応しているということだ。他方で、一九九五年以降のオタク、読み手はそのような消費活動を行なわない。様々な作品を受け取りはするが、それは背後にある世界観や作家からは切り離されている。
 東浩紀がその最も顕著な例として挙げるのが、「二次創作」と呼ばれるオタクたちの消費活動だ。二次創作とは、オリジナルの作品(一次創作)に登場するキャラクターやモチーフを借りて、自身で別の作品をつくることだ。ここでは、二次創作はもはや一次創作の背後にある世界観や作家像を参照しない、ということが重要になる。それは、オリジナル作品が描いている世界観とは違うのでこれはコピーでしかないとか、オリジナル作品を描いている作家ではないのでこれはコピーでしかないとか、そういった判断が働かない、ということだ。代わりに彼らが参照するのは、たんなる作品の一要素でしかないキャラクターやモチーフ、より厳密には、キャラクターやモチーフの「固有名」に他ならない。「固有名」さえ合っていれば「創作」である、という態度は、オリジナル作品(一次創作)の特権性を著しく損なうことになる。
 さらに、そうしたオタク、読み手が愛好するキャラクター描写もまた、かつての人物描写とは大きく異なっている。キャラクターたちはただ、奇妙なヘアスタイルやファッションなどの「記号」を組み合わせることでつくられている。このことをよく表わしているのが、「TINAMI」などの美少女キャラクターのネット検索エンジンだ。たとえば「眼鏡」の項目にチェックを入れれば眼鏡をかけたキャラクターが、「姉」の項目にチェックを入れれば姉、あるいは姉的な性格を持ったキャラクター(?)が一覧としてブラウザに表示される。そうしたキャラクターには、近代文学の登場人物が備えていたような統一された人格がない。あくまで「記号」「属性」という名で括弧にくくられているだけであり、それすらも二次創作によって変わりうる。こうしたなか、キャラクター描写はオタク系文化が独自に育んできたデータベース、そして「固有名」に依存するのだ。
 データベースモデルは、様々な作品(小さな物語/自我)とその背後にある世界観や作家像(大きな物語/主体)を切り離す。これを東は「解離」と呼び、また以上のような消費活動への変化を「動物化」と呼んでいる。その理由を、私たちは「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」と「情報自由論」を読んできたために知っている。フロイトの抑圧からジャネの解離への移行が、現代における環境管理型権力の説明になっていた。そしてコンピュータという新たな情報メディアの登場が、ジャック・ラカンにおける想像界象徴界の区別がなくなることを意味し、それが動物と人間の区別をきわめて曖昧にしてしまうことを、デリダハイデガー批判は明らかにしていた。『動物化するポストモダン』で参照されたのはアレクサンドル・コジェーブの議論だが、それはコジェーブが日本に、動物化したアメリカには見られない人間性(スノビズム)を見出したことを否定するためであり、本質はむしろデリダの延長上にある。
 さて「動物化するポストモダン2」と銘打たれた『ゲーム的リアリズムの誕生』は、その六年後に単行本になっている。ここでは、「動物化」した消費活動のなかでいかに文学はありうるのか、という問いが試みられている。そこで見出されるのが、近代文学が掲げてきた「自然主義的リアリズム」でもなく、また大塚英志が唱えた「まんが・アニメ的リアリズム」でもなく、「ゲーム的リアリズム」というわけだ。ここで注意しなければならないのは、「自然主義的リアリズム」とは近代文学史における自然主義とはあまり関係のない、大塚英志による新たな枠組みだということだ。それは「私」の自明性を疑わない態度、「言葉」の透明性を疑わない態度として言われている。たとえば、作家自身を主人公にした作品が、そのまま作家の経験として受け取られるような場合、それは典型的な自然主義的リアリズムを体現している。
 大塚の「まんが・アニメ的リアリズム」はこうした「私」の自明性を疑い、「言葉」の透明性を疑う態度として唱えられた。「記号」「属性」の組み合わせからなるキャラクターは統一された「私」を揺さぶり、現実を直接には示さない「言葉」として作品を構築する。大塚は、にもかかわらずこのようなキャラクターが一回限りの生と死の物語を送ること、そのことによって人間としてのキャラクターを描くことに可能性を見た。東の「ゲーム的リアリズム」は、大塚の論を批判的に乗り越えようとする。二次創作によって複数の物語を送るキャラクターは、もはや一回限りの生と死を送らないからだ。大塚の論は、あくまでオリジナル作品(一次創作)とコピー(二次創作)を区別できた時代の態度、かつてオタク、読み手が世界観と作家像を消費していた時代、すなわちモダンあるいはモダンからポストモダンへの移行期における態度なのだ。
 では、一回限りの生と死が存在しないキャラクターを使って、どのような文学がありうるのか。「ゲーム的リアリズム」は、その名のとおりリセットのできるゲーム、特にノベルゲームと呼ばれるものをひとつの例として、可能性を見出している。ノベルゲームは、プレイヤーの選択によってその物語の形を変え、複数の結末に辿り着くことができる。そしてプレイヤーはその全ての結末を読むことができ、作品全体を見渡す立場に立つことができる。しかしにもかかわらず、プレイヤーがその都度なにごとかを選択したという重みは、強くのしかかることになる。あとでどれだけ別の結末を選び直すとしても、「今ここ」で選択をした、という経験は消えないのだ。そこでは、一回限りの生と死の物語はむしろゲームのプレイヤーが送ることになる。東は、このようなプレイヤーの置かれた状況を含めた描写を「ゲーム的リアリズム」と呼び、その批評を「環境分析」と名付けている。
 伊藤剛は、キャラクターを「キャラ」と「キャラクター」に分けた。それは東の語彙に直せば、キャラクターが「記号」「属性」の組み合わせと、それらに影響を受けない「固有名」の二つに分けられることを指している。そしてこれらは、柄谷行人におけるラッセルの確定記述と、クリプキの固有名にそれぞれ対応している。私たちは、クリプキの固有名が持っている単独性が、確定記述の訂正可能性(幽霊)に他ならないことをすでに知っている。「ゲーム的リアリズム」とは、このような訂正可能性に満ちた私たちの世界(郵便空間)において、その都度なにごとかの確定記述を選択していることを重んじる態度として語りうる。『一般意志2.0』において重視されたのは「動物的」な憐み(転移)だったが、『ゲーム的リアリズムの誕生』で最終的に重視されているのは、「それでも『人間的』に生きるためにはどのように世界に接すればよいか」という「複雑でそして実存的な問題」なのだ。実は同じようなことを、東は漱石論「写生文的認識と恋愛」(一九九三/一九九四)のなかで語っている。写生文の重要さは、柄谷が漱石論においてすでに語ったものであり、それは対象を冷たく突き放しながらも温かく見守る「ヒューモア」の態度だとされている。これは『一般意志2.0』において、ローティと並んで相対主義の倫理性を説くものとして紹介された。あとで詳しく述べるが、要するに、全てを唯物論的に捉えて相対化する態度は、だからこそ(死者を含む)全ての他者を尊重する態度を可能にする、というものだ。しかし東は、漱石が恋愛小説家であったことに重きを置いてこれを再吟味する。なぜなら、ただひとりを選択する「恋愛」は相対主義(ヒューモア)によっては果たされないからだ。むしろ、漱石は写生文が恋愛を不可能にしてしまうこと、それ自体を写生文によって描こうとしたのだと東は語る。宇野常寛が指摘しているとおり、「ゲーム的リアリズム」が描くのもまたそうした「愛」であると言ってよい。

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 東浩紀は、全体と中心を持ったシステムを脱構築することが、再び別の全体と中心を持ったシステム(否定神学)を構築してしまうことを指摘してデビューした。そこではキーワードを持たないテクストの試みが、ひとつの主体ではなく他者とのコミュニケーションが、新たな脱構築として描かれることになった。浅田彰は、しかし東が浅田の「クラインの壺」を再解釈し、別のひとつの主体モデルを立ち上げていることを座談会「トランスクリティークと(しての)脱構築」で批判している。このことは、「探究3」以降の柄谷行人を「ひとつの主体モデル」を描いているために「理論的後退を強いられた」と言っている以上、決して無視できない批判としてある。また大澤真幸は、同じように「幽霊性から転移のシステムを語るのではなく、転移のシステムから幽霊性を語るべきだったのではないか」と述べている。転移のシステムが「ひとつの主体モデル」に落ち着く以上、この批判もまた決して無視できない。しかも、東の新たな議論はデータベースモデルという「ひとつの主体モデル」を核に据えているのだ。もちろん、私たちは東浩紀もまた理論的後退を強いられたのだ、と言って済ませるわけにはいかない。そうではなく、ジャック・デリダ柄谷行人が理論的後退を強いられた、という観方をまず疑ってみるべきだ。それは本当に後退だったのか? 柄谷の発言を読む限りは、決してそういうわけではなかったことが分かる。たとえば、柄谷の「ひとつの主体モデル」はすでにコミュニケーションのなかに置かれ、絶えず他者に脅かされている。また、柄谷の貨幣モデルは金と銀の複数からなっており、金は常に銀との関係において、銀は常に金との関係において価値付けられている。さらにこの座談会では、これもあとで述べるが、第三期のジャック・デリダが置かれていた社会的な諸条件も明らかにされている。
 こうした柄谷による自身やデリダの擁護は、実のところそのまま東の擁護として読むことができる。たとえば東が「クラインの壺」を再解釈した主体モデルは、常に幽霊に脅かされている。正確には、オブジェクトレベルの下層に敷かれた「マジックボード」が、幽霊を痕跡として残すことになっている。のちに、このモデルは『一般意志2.0』に描き直されている。それは、選良たちの熟議が常に大衆のコメント(一般意志)によって脅かされる、という図としてあった。私たちはそのモデルを、コメントを残す大衆の側から見たとき、動物的な憐み(転移)を重視することができた。他方で、熟議を行なう選良の側から見たとき、なにが重視できるのか。東は別の図で、一般意志の設計には功利主義リバタリアニズムを期待し、熟議の設計にはカント主義とコミュニタリアニズムを期待していることを明かしている。しかし一般意志、幽霊に脅かされる熟議に期待するものは、本当にそれだけでいいのだろうか。私たちは、その期待がなにかをはっきりと言うことができないだろうか。「ゲーム的リアリズム」、写生文のヒューモアを踏まえた人間的な愛こそが、動物的な憐みと真に対応するもののはずだ。選良は大衆のコメントを無視していいが、逆に言えば無視しなくてもいい。無意識のうちに影響を受けていいが、意識的に影響を受けるという選択は常にありうるのだ。選良はある程度、全てのコメントに対して相対的な立場に立つことができるし、またそう望まれているが、たったひとつのコメントに注目し、読み上げることもまた望まれている。その望みが少しもなければ、大衆はそもそもコメントなど残さない。『一般意志2.0』の最終章で描かれたひとりの大衆の物語を選良の側から読むと、そのような別の物語が浮かび上がってくる。そしてこの選択が強いる重みこそが、選良の熟議における新たな応答可能性として、すなわち責任=主体論として立ち上げられる。東は人が同時に動物でもあることを述べたが、それは人が人ではなくなるということではない。同時に、東は論理的脱構築否定神学)の他に郵便的脱構築があることを述べたが、それは論理的脱構築否定神学)が無効になるということでもない。コミュニケーション論が主体論を駆逐することなどありえない。
 さて、『クォンタム・ファミリーズ』を読んでいこう。このSF小説は、並行世界を扱っているのか、並行世界を扱っていないのか分からないように描かれている。ある場合には、彼らは並行世界を現実的に捉え、二つもしくは三つの世界を実際に移動する。にもかかわらず、それは全て主人公である葦船往人が陥ったひとつの狂気の世界、夢ではないかという解釈が常に留保されている。そもそも彼らが複数の世界を移動できるのは、自分の世界をたんなるシミュレーションのように捉えることで、シミュレーションにすぎない並行世界と等価値にしてしまうからに他ならないのだ。後者の解釈は、物語後半の舞台になる四つ目の世界の一部が、フィリップ・K・ディック『ヴァリス』の世界になっていること、そして、陰で全ての物語を操っていたのが、二〇六四年に生きる仮想人格の汐子だったことが明らかになるにつれ、より説得力を増していく。物語の結末において、主人公である葦船往人は汐子のデータが収められているらしい楪渚のフラッシュメモリを噛み砕き、そこで息絶える。ここには、きわめてシンプルな批判を下すことができる。要するに、物語を見渡す立場にある人物から逃れるために主人公が死(外部)を選ぶというのは、全体と中心(そして外部)があるという意味で、かつてハイデガーたちが陥った否定神学そのものではないかということだ。この手の批判は、ある側面においては完全に正しい。しかし、それだけではこの作品の片側しか見ていないだろう。主人公が死という外部を選んで物語の幕を下ろしたその先に、さらに別の外部(汐子が主人公である葦船往人の娘として生まれる「物語外2」)を描いていることは、外部の攪乱、それに伴う全体像の攪乱を招いていると言うべきだ。しかしそれだけではない。
 問題は並行世界があるかどうかではない。並行世界があるかどうかを保留したまま進められる『クォンタム・ファミリーズ』が、その点において二つの解釈を並行させているということだ。なにより各所に散りばめられた固有名は、それだけ多数の解釈を誘発してしまう。読み手は様々な解釈のなかからひとつを選択し、一回限りの読書(生と死)を経験するだろう。たんにパラレルワールドを描いているから「ゲーム的リアリズム」を実践しているなどと批評するのは、繰り返せば、かつて東自身が否定したデリダ論と全く同じ振る舞いでしかない。さらに言えば、パラレルワールドであることはゲーム的リアリズムの条件ではない。東の漱石論が「ゲーム的リアリズム」論であったように、それは徹底して方法の問題なのだ。すでに東は阿部和重インディヴィジュアル・プロジェクション』の批評を二度に渡って書き、二つの解釈を提示することで、そうしたリアリズムを見出している。かつて、東は柄谷の論理的なスタイルを問題にした。そして、それは東自身も浅田彰松浦寿輝によって批判され、東自身によってその批判の素朴さを再批判された問題だった。テクストはコンテクスト(文脈)のなかに置かれる。「郵便的」なテクストは、日本語の条件とフランス語の条件においては別のスタイルによって書かれる。デリダへの第三期への移行を東が状況論的に解釈して浅田彰に否定されたとき、柄谷がむしろ東に依って状況論的な解釈を支持したことは、東と柄谷のスタイルが本質的に近いことを明らかにしている。『クォンタム・ファミリーズ』が論理的な文章によって書かれているからといって「郵便的」ではない、という評価は誤っている。私たちは、より理論的な前進をこの作品に読まなければならない。
 それは東がここで、ラカン的でも江藤淳的でもない「家族」を初めて描いたことに見出される。この「家族」は、並行世界によって隔てられた「生まれるかもしれなかった子ども」から成る家族であり、たんなる象徴でも実体でもない「幽霊」のレベルを含み込んだものになっている。したがってそれは、素朴なマチズモ批判、家父長制批判によって退けられるべきではないだろう。むしろ先に述べた、『一般意志2.0』の選良側における熟議の倫理と同じものだと考えられる。私たちは「生まれるかもしれなかった子ども」という存在に、無意識のうちに影響を受ける(それを東は三五歳問題と呼んでいる)。もちろんその存在は無視していいが、逆に言えば無視しなくてもいい。そこに「家長」の応答可能性が、責任=主体論が立ち上がることになる。そしてその倫理は、「死者」を含めた全ての他者に対する責任=主体論を語った柄谷行人と接合しうるはずだ。ところで、なぜ東の思想はこのような「家族」概念を描くに至ったのか。それは「固有名」の単独性が、柄谷によれば「命名行為」の社会性に見ることができるからではないか。命名行為は、端的に「(物理的な親ではないとしても)名付け親になること」を意味する。『クォンタム・ファミリーズ』において、仮想人格である汐子が「風子の娘」という確定記述を与えられるのは、風子が汐子の「名付け親」だったからに他ならない。

 (東浩紀柄谷行人 第一部「〈問い〉を継ぐ者」完)