鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

『BLACKPAST vol.2』に文章が載ります。

 お知らせです。

 2012年夏のコミックマーケット三日目、8月12日(日)に発売される『BLACKPAST vol.2』に、拙稿を載せていただくことになりました。タイトルは、「「95年」と桃果の倫理――幾原邦彦少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』論」です。

 BLACKPAST公式サイト http://blackpast.jp/

 お買い求めの際は、ぜひぜひお読みいただければと思います。

 

  * *

 

 ……ある個体の単独性と特殊性の区別は、つぎのようにも考えられる。たとえば、ある男(女)が失恋したときに、ひとは「女(男)は他にいくらでもいるじゃないか」と慰める。こういう慰め方は不当である。なぜなら、失恋した者は、この女(男)に失恋したのであって、それは代替不可能だからである。この女(男)は、けっして女(男)という一般概念(集合)には属さない。したがって、こういう慰め方をする者は、“恋愛”を知らないといわれるだろう。しかし、知っていたとしても、なおこのように慰めるほかないのかもしれない。失恋の傷から癒えることは、結局この女(男)を、たんに類(一般性)のなかの個とみなすことであるから。……(柄谷行人『探究2』)

 

 ……アウシュヴィッツについてのさまざまな記録を読めば分かるように、その選択はほとんど偶然で決まっていた。あるひとは生き残り、あるひとは生き残らなかった。ただそれだけであり、そこにはいかなる必然性もない。そこでは「あるひと」は固有名をもたない。真に恐ろしいのはおそらくこの偶然性、伝達経路の確率的性質ではないだろうか。ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかもしれないことこそが悲劇なのだ。リオタールとボルタンスキーによる喪の作業は、固有名を絶対化することでその恐ろしさを避けている。……(東浩紀存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』)

 

……男性的主体は固有名の偶然性をファルス(父の名)によって「運命」へ転化するが、女性的主体はたえざる偶然に曝され続け、決して運命をつかむことがない。(同上)

 

 ……麻原彰晃は「バルドーの導き」という洗脳ヴィデオのなかで「お前は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ。死は避けられない」と自らナレーターとして繰り返し語っている。つまり、「どうせ」死ぬの「だから」、何かをしなくてはならない――そういう「死の恐怖」を煽って行動へ駆り立てる物語を、彼らは紡ぎ出すわけです。しかも、ここで「死の煽り」に脅かされて行う「何か」も、実は「救済」の名を借りた終末論的な「死」「絶滅」を導き出す行為以外の何物でもない。彼らの考えることも、行動することも、どこまでいっても終末と死と絶滅なのですよ。そもそも、この世に終わりがあるという考え方だけで「終末論」と呼ぶわけで、さきほど「その日その時はだれも知らない」と言ったイエスも終末論ではあるんですよ。当然のことなのですが、自分が生きているうちに終末は来ないと考えても、終末があると考えている以上、それは終末論と定義できる。でも、オウム真理教の場合はもっともっと圧倒的に病んでいる。何故なら、自分が生きている間に終末が来ることを望むのですから。「どうせ死ぬ」のです。「死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」のだから、いっそのこと「今」死にたい。それどころか、自分だけが死ぬのは嫌だ、他の奴らはみんな楽しそうに生きていて俺と俺たちだけが死ぬのは嫌だ、世界全体を巻き添えにしてみんな一緒に死にたい――というわけですよ。つまり、「自分の死とこの世界全体の絶対的な死を、つまり世界の滅亡を一致させたい」という欲望がそこにある。……(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』)