鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

被選択の排除――『ロボティックス・ノーツ』のためのノート

前回のおさらい

カオスヘッド』の物語には、「選ばれること」はあっても「選ぶこと」がない。たしかに、主人公である西條拓巳は、咲畑梨深に承認されるか否かをめぐって苦悩する。しかし、たとえば梨深と優愛のどちらを愛すべきか、梨深と七海のどちらを助けるべきか、という苦悩とは無縁なのだ。結果として、「選ぶこと」の責任はヒロインたちに押し付けられる。特に蒼井セナと、彼女の父親である波多野一成のやりとりは注目に値する。波多野が娘から「選ばれる」立場に甘んじているため、両者のコミュニケーションは決定的に失敗するのだ。そのためセナは、自らの憎しみを自意識のレベルに矮小化してしまう。

カオスヘッド』には、以上のような限界がある。ではここから、『シュタインズ・ゲート』の物語はどのようなものとして見えてくるのか?

 

被選択の排除――『シュタインズ・ゲート

シュタインズ・ゲート』の後半において、主人公である岡部倫太郎は、似たような構造のジレンマに何度も苛まれる。それは、幼馴染である椎名まゆりともうひとりの人物A、どちらを優先すべきか、という問題である。人物Aには、フェイリス・ニャンニャンや漆原るか、そしてメインヒロインである牧瀬紅莉栖が当てはまるだろう。

 まず、フェイリスとるかについて。彼女たちが過去改変ツール「Dメール」で叶えた願いを取り消さなければ、まゆりの命を救うことはできない。フェイリスの場合、それは死んだ父を蘇らせることであり、るかの場合、それは「女」に生まれ変わることだった。両者はいずれも、彼女たちの生において根源的な欲求である。すなわち岡部は、まゆりの命と引き換えに彼女たちの救済を台無しにしなければならないのだ。そこでは、かつての西條拓巳が経験しなかった「選ぶこと」の問題が出現する。

 牧瀬紅莉栖に至っては、「選ぶこと」の深刻さはさらに増している。まゆりが死ななかった「世界線」に移動すれば、今度は紅莉栖の方が死ぬことになるからだ。天秤にかけられているのは、まゆりと紅莉栖、二人の命である。しかも岡部は、まゆりを助けるべく過酷な日々を繰り返すうちに、牧瀬紅莉栖に惹かれ始めており、紅莉栖もまた、岡部を好きになっている。つまり、幼馴染の命か恋人の命か、という究極的な二者択一が岡部に降りかかるのだ。

 以上のように、岡部のドラマは「選ぶこと」を中心に描かれている。しかし一方で、彼は「選ばれること」については免れている。というのも、メインヒロインである牧瀬紅莉栖が性的に欲するのは岡部ひとりしかいないからだ。どれだけ「世界線」を移動しても、そのことだけは不変である。

 漆原るかのエピソードに戻ってみよう。るかが「女」になりたいと望んだのは、コンプレックスを解消するためであり、そしてそれ以上に、岡部への想いに対して素直になるためである。彼女は次のように語っている。「男に戻ったら、この気持ちを封印しなくちゃいけない」。だが、ここではひとつの疑問が伏せられていると言わなければならない。それは、「世界線」を超え、性別さえ書き換えたのに、なぜ岡部への想いは変わらずに済んでいるのか、ということだ。

 この疑問は、牧瀬紅莉栖についても言える。どれだけ「世界線」を改変しても、紅莉栖が岡部を好きになることは変わらない。たとえば、彼女が橋田至を愛するといった事態は訪れない。むろん、この謎にはもっともらしい理由が与えられている。改変前の記憶を保持する岡部の能力「リーディング・シュタイナー」は、彼以外にも微弱ながら存在しているのだ。だがそれは、「ではなぜそのような設定にしたのか」という別の問いを生むに過ぎない。

シュタインズ・ゲート』の物語には、「選ぶこと」はあっても「選ばれること」がない。その点においてこそ、先に述べた『カオスヘッド』と対照的な作品である。

 この対比を、主人公のキャラクター造型に見ることもできる。たとえば、岡部は「鳳凰院凶真」という厨二ネームを持っている。クライマックス、彼はその名によって己を鼓舞し、紅莉栖の救命に成功する。「鳳凰院凶真」は彼にとって、揺らぎそうなアイデンティティを統一するものに他ならない。だが、拓巳はそのような名を持たない。「疾風迅雷のナイトハルト」というハンドルネームは、彼のアイデンティティを支えるものとしては機能しないのだ。

 また興味深いのは、「もうひとりの自分自身」が担う役割の違いである。もちろん、もうひとりの岡部=「未来の岡部」にしろ、もうひとりの拓巳=「将軍」にしろ、主人公である彼らのアドバイザーである点では同じである。しかし、「未来の岡部」は「将軍」と違い、主人公の自己同一性を脅かしたりはしない。具体的には、牧瀬紅莉栖が「未来の岡部」を好きになる、ということはありえない。他方、拓巳にとっての「将軍」は、まさに梨深との三角関係を成すライバルである。

 なぜ、このような差異があるのか。それは、「選ぶこと」の責任を引き受ける岡部にとって、その主体を統一しておく必要があるからだろう。この主体性は、拓巳にはない。というよりも、「選ばれること」の苦悩に陥る拓巳においては、まさに主体を統一できない、ということこそが問題なのだ。

 

 最後に、ヒロインたちを比較しよう。『カオスヘッド』の少女たちが「選ぶ」立場を押し付けられているのだとすれば、『シュタインズ・ゲート』の少女たちは「選ばれる」立場を押し付けられている、と言えるのだ。

 まず指摘しておきたいのは、前述の蒼井セナと牧瀬紅莉栖の二人は似ている、ということだ。セナと紅莉栖は、どちらも科学者の父親との関係にトラブルを抱えている。しかし、その性質は真逆である。セナが父親である波多野を憎んでいるのに対して、紅莉栖は父親である中鉢から一方的に恨まれているからだ。そしてセナと違い、紅莉栖は最後まで和解できない。セナは自分の感情を解釈し直したが、紅莉栖はそうした再吟味、たとえば中鉢を憎み返す、といった手段を選ぶことがないのだ。

 セナは、「選ばれる」父親の前では「選ぶ」娘になるしかなかった。その一方で、紅莉栖は「選ぶ」父親の前では「選ばれる」娘になるしかなかったのだ。そしていずれにしても、コミュニケーションは失敗に終わっている。「選ぶこと」と「選ばれること」の偏りが、再び悲劇を生んだのである。

 

カオスヘッド』と『シュタインズ・ゲート』は、どちらも同じテーマについて物語を進めながら、最後にはひとつの限界を迎えてしまった。そうした議論を押さえることで、私たちは『ロボティックス・ノーツ』を次のような作品として期待することができる。すなわち、「選ぶこと」と「選ばれること」の両方を同時に描いた作品、シリーズ到達点としての第三作目として。

 このノートは、そうした期待を予め表明しておくものである。

 

補足

 ただし、『シュタインズ・ゲート』のエピローグは、この限界をわずかながら乗り越えたものだと言える。どういうことか。

 紅莉栖の命を犠牲にまゆりを救ったあと、岡部は阿万音鈴羽に連れられ、まゆりも紅莉栖も死なない世界線「シュタインズ・ゲート」へ行くことになる。タイムマシンの存在しない世界線、なんら未来の決まっていないその世界線で、彼は紅莉栖と全く違う形で出会い直す。その先については、(本編では)描かれていない。たしかなことは、彼らはもはや「ただの恋愛」をしなければならない、ということだ。岡部が「選ばれること」を味わう可能性は、作品外に仄めかされている。

 残念ながら、『カオスヘッド』のエピローグの方では、西條拓巳が「選ぶこと」を迎える可能性は希薄である。拓巳は、あくまで梨深から「好きなの」と言われ「僕も、君が好きです」と返している。「選ばれる」立場は、むしろ強化されているのだ。とはいえ、続編的(?)な位置付けの『カオスヘッド らぶchu☆chu』の正統派ギャルゲー展開には、拓巳を「選ぶこと」の物語に参入させる意味があった。そのことは記しておかなければならない。