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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

映画の感想(『愛・おぼえていますか』『その男、凶暴につき』『バットマン』)

超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか

愛・おぼえていますか』には、二つの「愛」が描かれる。ひとつは戦争の収束であり、もうひとつは輝と未沙の関係である。そしていずれの場合も、「愛」は「言語」の同一化として描かれる。すなわち前者は歌の「翻訳」とともに、後者は漂流期間における「タメグチ化」とともにそれぞれ発展するのだ。

 そう考えれば、輝がミンメイではなく未沙を選ぶことも理に適っている。未沙が歌詞を翻訳するのに対し、ミンメイは翻訳を「知らない」のだ。彼女は歌詞を翻訳物としては捉えず、「未沙の歌詞」として一度拒絶してしまう。しかしこの映画の面白さは、翻訳を知らないミンメイこそが「愛」をもたらすという倒錯にある。翻訳によって言葉が通じると、私たちは本来べつの言葉話者であったことを忘却し、まるで初めから共通感覚が存したかのように錯覚する。「愛」はこの忘却、遠近法的倒錯により成り立つ。

 ミンメイの歌う「愛」は、作中では「文化の力」として素朴に信じられているように見える。だが、一方でボドルザーは共通の敵として撃破されてしまうのだ。『愛・おぼえていますか』で真に「おぼえていますか?」と問うべきは、実際には愛(同一性)ではなく言語(差異)かもしれない。

 追記)むろん「愛」には同一性を求める以上の働きがある。たとえば差異を肯定することも「愛」だろう。ただ、ここで「愛(同一性)⇔言語(差異)」という二項を立てるのは、単にこの映画における「愛」の描写がそのような代物だったからだ。

 

『その男、凶暴につき』 

 なぜ『その男、凶暴につき』は「歩く」画面ばかりなのか。それは、たとえばヤクの売人が血まみれで逃げるすぐ脇で女が布団を叩いている、といった街の風景を背後に映すためだけではあるまい。おそらく「歩く」画面は、ヤクザとカタギの違いを何よりもまず「歩き方」によって示しているのだ。

 この映画では、「自転車に乗る」少年たちはソッコーでパクられ、「船乗り」は小学生に缶を投げられたり死体を見つけたりしてしまい、「高飛び」を企てる売人たちは殺される。主人公にしても「車に乗って」犯人を追うと不祥事を起こす。売人たちは首吊りやビルからの落下、そして水に浮くなど「脚を宙に浮かせる」死体で発見されるし、主人公は清弘の「脚を刺して」反撃の狼煙を上げ、「座っている」敵にトドメの銃を撃ちまくるのだろう。思い返せば、裏切り者は初めから主人公を「車に乗せる」男ではなかったか。

 ところで、主人公と清弘は「(ヤったからには)ウチの妹もらってくれるんだろうな」「てめえら女まわしといて逃げるつもりじゃねえよな」といった台詞で奇妙な一致を見せ、ともに組織から追放されたあげく部下に裏切られる。終盤における二人の無言の対峙は、どこか彼らの「絆」を強調するかのようだ。

 

バットマン

 ノーラン版『バットマン』とバートン版『バットマン』における差異のひとつがジョーカーのキャラクターである。前者のジョーカーがバットマンにとって決して内面化できない非対称な存在(外部)として描かれるのに対し、後者のジョーカーはバットマンと絶えず転移し合う対称的存在(鏡像)として現前する。

 そしてその差異は、それぞれの作品制作時期の違いと対応している。ノーラン版が撮られた2000年代後半、アメリカにとって敵とは中東のイスラム原理主義であり、他方でバートン版が撮られた1980年代末、敵とは既に瓦解しつつあるソ連の社会主義だった。西洋にとって中東が(まるでノーラン版のバットマンにとってジョーカーがそうであるように)、決して内面化できない外部だった一方で、資本主義にとって社会主義は(まるでバートン版のバットマンにとってジョーカーがそうであるように)、絶えず互いの病理を映し合う鏡像だったと言えよう。

 ノーラン版とバートン版の不気味さは全く異質だ。ノーラン版の怖さはイメージの不透明性(敵がよく分からない)から来ている。それに対し、バートン版の怖さはイメージの徹底的な透明性(敵がよく分かりすぎる。いやむしろ敵とは私であり、私とは敵ではないのか……?)から来ているわけだ。