鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

本の感想(『世界史の構造』『知の考古学』『神話が考える』)

『世界史の構造』

 柄谷行人『世界史の構造』より引用。

「歴史の理念を嘲笑するポストモダニストの多くは、かつて『構成的理念』を信じたマルクスレーニン主義者であり、そのような理念に傷ついて、理念一般を否定し、シニシズムやニヒリズムに逃げ込んだ者たちである。しかし、彼らが社会主義は幻想だ、大きな物語にすぎないと言ったところで、世界資本主義がもたらす悲惨な現実に生きている人たちにとっては、それではすまない。現実に一九八〇年代以後、世界資本主義の中心部でポストモダンな知識人が理念を嘲笑している間に、周辺部や底辺部では、宗教的原理主義が広がった。少なくとも、そこには資本主義と国家を越えようとする志向と実践が存在するからだ。もちろん、それは『神の国』を実現するどころか、聖職者=協会国家の支配に帰着するほかない。だが、先進資本主義国の知識人にそれを嗤う資格はない」

 

『知の考古学』

 ミシェル・フーコー『知の考古学』には、おおよそ四つの概念が提出されている。すなわち、エノンセ、ディスクール、アルシーヴ、そして知。これらの関係を理解するのは、「図書館」の比喩を用いるのが手っ取り早いと私は思う。エノンセは本、ディスクールは本棚、アルシーヴは目録、そして知は図書館なわけだ。

 エノンセ(本)は、語られたこと。そしてディスクール(本棚)は、エノンセを一定の規則に従って整理したもの。ここで重要なのは、本棚には「隙間」があるということ。つまりディスクールの分析は、語られたことだけではなく、「語られるかもしれなかったこと」を含めてなされるものなのだ。そしてアルシーヴ(目録)は、エノンセの総体。ここには、ディスクールのような分類や「隙間」はない。最後に知(図書館)は、ディスクールの総体として現れる。すなわち、語られたことと「語られるかもしれなかったこと」を、一定の規則に従って整理したものの総体が「知」と呼ばれるのだ。

 フーコーは、「知」がいかにして発生し展開してきたのかを明らかにするとともに、「真理」が絶対的、普遍的なものではありえないことを示す。「真理」と呼ばれるものは、社会的な権力構造のなかで形成されたものなのだ。権力の分析と知の分析こそ、フーコーの生涯の課題だった。

 

『神話が考える』

 ここに二つの原理(=「闘争の原理」と「想像力の原理」)がある。まず前者において、希少な財は多人数で切り分けられる。そこでは自他は峻別され、切断や裁きによる資源調達が求められる。他方で後者において、新たな豊富性は新たな希少性を生む。そこでは自他の区別は溶解し、豊富性に基づくネットワークの拡張が求められるだろう。

 言うまでもなくネットワークの発達は人々のリアリティを変え、サブカルチャーを進化させた。福嶋亮大『神話が考える ネットワーク社会の文化論』では、人間がネットワーク(=データベース)を利用しネットワークが人間(=認知限界)を縮減する、ポストモダンの新しい「構造」が描かれることになる。

 ネットワーク社会のリンク(=豊富性の領域)は、「契約や誓いの主体(=法的人間)」を擬似超越化し、「想像力の領域の主体(=経済的人間)」に場の変更をもたらす。そして法的人間としての私は、経済的人間としての私が陥るリンクの固着を緩和するのだ。これが、新しい構造である。この構造に基づき、福嶋は近代の公私とポストモダンの公私を並列させる。近代=政治的レベルにおいて、人は公人としては法による統治に属し、私人としては功利主義的倫理を求められる。ポストモダン=神話的には、人は公人としては神話(=ネットワーク)の生態系に属し、私人としてはアイロニーを求められるわけだ。