鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

全体への道、個への道 ――TVアニメ『アイドルマスター』論

「961プロダクション」の社長である黒井崇男は、「765プロダクション」の社長である高木順一朗に「負けを認めたわけではない」と吐き捨てて去っていく。これが単なる遠吠えではないとすれば、いったい物語終盤のどこに彼の勝機があったのだろうか?

 TVアニメ『アイドルマスター』(原作:バンダイナムコゲームス)は、「765プロダクション」に所属する駆け出しのアイドルたちを描いた青春群像劇である。物語は、大きく二つのパートに分けられている。すなわち、アイドルたち全体の姿を描くエピソード群と、一人ひとりにスポットライトを当てるようなエピソードに。この構造は、作品に通底するひとつのテーマを示している。それは「全体」と「個」の葛藤、あるいは前者から後者への移行と言うべきものである。そして、そのテーマを最も引き受けているのが主人公のプロデューサーである。

 第一話、主人公はカメラマンからプロデューサーへと転身する。また最終回、彼は集合写真のカメラ役を高木順一朗に預けてアイドルたちのなかへと加わっていく。ここで繰り返されているのは、アイドル全体を遠巻きに見渡すような立場(カメラマン)から、個々人と近くで関わる立場(プロデューサー)への態度変更である。注目すべきは、第六話だろう。主人公は、仕事のないアイドルたちのスケジュールを埋めようと急ぐあまり大きな失敗を犯す。そしてそのあと、同事務所のプロデューサーである秋月律子の「一人ひとりの良さを活かす」やり方に改めて感銘を受けるのである。

 主人公の物語は、「全体から個へ」のストーリーとして見ることができる。そのように考えるとき、重要なのは二人のアイドル、天海春香星井美希の対比関係である。

 第五話、春香たち765プロのアイドルは全員で夏の海へ慰安旅行に赴く。そこでは既に、皆が有名になれば一緒にいることができなくなるだろう、という不安が描かれている。そして第二二話、実際に人気アイドルになった彼女たちはクリスマスパーティーを開くことも一苦労になる。遂に第二三話ではライブ前の全体練習さえも難しくなり、春香は自身の仕事を削ってでも仲間たちを集めようとした結果、夢を見失って休養する。彼女にとって「765プロダクション」は、言わば個としての自分よりも大切な絆である。作品を通して春香は、「全体」を引き受ける少女として描かれる。

 一方で美希は、「個」を引き受ける少女として描かれている。彼女はミュージカルの仕事において主役を射止めるべく、容赦なく春香をライバル視する。そして、スケジュールを空けてまで皆を集めようとする春香をワガママだと非難するのである。美希だけが主人公を「ハニー」と呼び、特別な好意を寄せているのもポイントだろう。第一一話から第一三話においてモチベーションを失った彼女は、主人公の説得の甲斐もあって「765プロダクション」へ戻る。だが春香とは異なり、美希はそこで全体の絆よりも個としての自己が輝くことを望んでいる。

 確認すべきは、彼女たちの対比関係には完全な決着がついていない、ということである。たとえば春香はミュージカルの主役を射止めるが、そのことは却って彼女を孤独にしてしまう。また美希は全体練習の呼びかけに応じるが、そのときも彼女はやはり自身の将来を案じている。なにより、最終回では主人公と春香と美希の三角関係がわずかに仄めかされるのだが、これも萌芽に留まるものでしかない。いつか主人公は、春香と美希のいずれかを選ばなければならなくなるだろう。そしてその選択は、「全体と個」の物語の比喩として機能しうるはずである(とはいえ、主人公が悩むべきは「春香と美希のどちらを選ぶのか?」ではなく、「誰も選ばないか、美希を選ぶか?」かもしれない。というのも、それこそが春香=全体の望むところだとも思われるから)。

 以上の見立てに従えば、主人公の物語には次の段階が用意されていることになる。それを宣告するのが、元アイドルでありプロデューサーの秋月律子に他ならない。

 主人公の物語を「カメラマン(全体)からプロデューサー(個)への移行」と定式化した場合、律子のそれは「プロデューサーかアイドルかの葛藤」と言えるだろう。第一八話、彼女は代役としてアイドルに復帰し、自身の育てたアイドルユニット「竜宮小町」との仲を深めることになる。この挿話は主人公にとって、プロデューサーである以上にアイドルと向き合う「個」の立場が存在することを教えてくれる。補助線を引くために、第一七話を見ておこう。アイドルの菊池真は主人公をデートごっこに誘い、「自分を王子様ではなく、お姫様として見てくれるひと」への希望を口にする。その言葉は、「主人公は春香と美希、どちらの王子様=アイドルになるのか?」という問いへの隠れた伏線になっているのだ。

 

 しかし、ここでひとつの疑問が生じる。言うまでもなく、主人公はこの選択に未だ遭遇していないし、肝心の終盤で負傷して退場を強いられてしまう。ならばTVアニメ『アイドルマスター』という作品において、春香(全体)と美希(個)の対比関係はなんの区切りもなく終わってしまったのだろうか?

 むろん、そうではない。本作には、対比関係に決着をつけるのではなく、両者を取り持って調和を成すような別のキャラクターが設けられている。アイドルの如月千早こそ、それである。

 そもそも春香が抱える問題の厄介さは、他のアイドルたちと同じようには解決できないところにある。なぜなら、まさにその「一人ひとりにスポットライトを当てる」エピソードの丁寧な積み重ねこそが、彼女の寂寥の起源になっているからだ。水瀬伊織(第二話)、萩原雪歩(第三話)、高槻やよい(第七話)、三浦あずさ(第八話)、双海亜美双海真美(第九話)、我那覇響(第一六話)、四条貴音(第一九話)の物語の多くは、彼女たちが自分の課題を、自身や近しい者たちの力で乗り越えようとするものである。その姿が魅力的に描かれれば描かれるほど、もはや個々人にとって「アイドル全体の姿を描く」エピソードは不要であるかのように見えてしまう。そしてそこで、春香=全体の絆は忘却されてしまう。先に述べた美希や真にしても、例外ではない。

 よって、全体を蔑ろにしたまま春香という個を単に救うことはできない。かといって春香のために皆が「765プロダクション」全体へ回帰するだけでは、それまでのアイドルたち個々の物語を否定することになるだろう。ここに、「961プロダクション」黒井崇男の不敵な笑いが響いていることは疑いを入れない。彼はアイドルをゲーム全体の駒のように扱い、アイドルを一個の人間として信頼する高木順一朗と深く対立している。要するに、全体への道は黒井崇男への道に短絡する危険があるのだ。もちろん、高圧的な彼と純粋な春香は一見似ても似つかない。しかし他方で我々は、たとえば無邪気な愛国心が容易にファシズムへ転位することもよく知っている。この点を鑑みるなら、黒井社長が「不器用な奴」に過ぎないという高木社長の評や、春香が「悪役に似合う」という作中設定は構造的必然性を帯びていく。

 だが、千早だけは違う。第二〇話と第二一話、ゴシップ誌に自身の過去を掲載された彼女は歌声が出せなくなり、自室に引きこもってしまう。そこへ救いの手を差し伸べるのは、春香が携える新曲の歌詞と、千早の母から預かったスケッチブックである。さらにステージで窮地に陥る彼女を立ち直らせるのは、「765プロダクション」のアイドル全員の手と、死んだ弟の幻である。最後に千早は、音源トラブルに対して自分ひとりのアカペラで立ち向かい、仲間たちへの見事な恩返しを果たす。つまり彼女の物語では、全体(新曲とアイドルたち)の絆と個(スケッチブックと弟)の力が両立しているのである。そうした調和は既に第四話、アイドルの仕事(全体)と歌手としての夢(個)とを両立させようとする彼女の姿において現れている。

 結局のところ、この千早こそが春香のために全体練習を呼びかけるのである。個々人としてのアイドルと「765プロダクション」全体を繋ぎ合わせるためには、彼女の存在が不可欠だったと言えよう。同時に春香もまた、ライバル的存在のアイドルグループ「ジュピター」の天ヶ瀬冬馬や幼いファン、そして過去の自身との対話から回復していく。結果クライマックスでは、春香(全体)と美希(個)を含む皆が万全の状態で一緒のステージへ立つ。むろん、彼女たちがより多忙となる来年に同じことはできないかもしれない。その意味でこの調和は儚いものだが、少なくとも美しい儚さではある。逆に言えば、この美しさを儚いものと捉える限りにおいて、『アイドルマスター』の結末は黒井崇男の哄笑から逃れうるだろう。それは「全体」でも「個」でもなく、その決断を絶えず遅延し続けようとする道の儚さである。