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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

議論しない哲学者 ――ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』感想

 ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ最後の共著であり、その思想の総決算とも呼ぶべき『哲学とは何か』(1991)は、タイトルが示すとおり、「そもそも、ドゥルーズとガタリは哲学をどのように捉えていたのか」について教えてくれる。一言で言うとすれば、彼らにとって哲学とは「概念(コンセプト)を創造すること」らしい。《こうして結局、かの問は、すなわち哲学についての問は、そこで概念と創造が互いに関係しあう特異点なのである》(23p)。ここで当然疑問に思うのは、ではその概念とはどのようなものか、ということだ。彼らの説明を順に追っていこう。

 

 ひとつの概念とは、それ自体が概念となりうるような不可分の合成要素群から構成された「集積点」のようなものである。それは物体や身体ではないし、論理学的な命題でもないとドゥルーズ+ガタリは言う。彼らが挙げているデカルトのコギト、すなわち「我思う、ゆえに我あり」の例を見てみよう。コギトは、「疑う」「思考する」「存在する」という三つの合成要素を持っている。これらの「疑う」「思考する」「存在する」はそれ自体がひとつの概念になりうるものであり、はっきりとは腑分けできないものなのだ。そしてコギトは物体や身体でもなければ、論理学的な命題でもない。

 概念は「内在平面」「概念的人物」「哲学地理」の三つに支えられている、ともドゥルーズ+ガタリは言う。たとえばデカルトはコギトを考える際、そもそも「疑う」「思考する」「存在する」がどのような概念かについては暗黙の前提としているだろう。この前提こそ、「内在平面」である。そしてデカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と考えるような人物像を、すなわちなんの知識にも頼らず、ただ疑い思考し存在するだけの「愚者」とでも形容すべき人物像をも新たに打ち立てている。この人物像こそ、「概念的人物」である。さらにこの概念的人物の創造は、デカルトが当時置かれていた地理的条件、具体的にはオランダと切り離して考えることができない。「哲学地理」が三つ目の支柱として現れるのは、そういう理由からだ。別の例も参照するならば、かのプラトンにとってのソクラテスとは概念的人物であり、それは当時のギリシャという哲学地理と密接に結び付いている、ということになるだろう。

 以上の立場から、ドゥルーズ+ガタリは哲学と科学を次のように区別してみせる。既に見たように哲学に関わるのは概念であり、それは内在平面と概念的人物(そして、哲学地理)に支えられている。他方で科学に関わるのは「機能(ファンクション)」であり、それは「準拠平面」と「観測者」に支えられるというのだ。これは、哲学者がそれぞれ異なる平面と人物像に依拠しているのに対し、科学者はみなで同じ平面と人物像に依拠しなければならないことを意味する。分かりやすく言えば、科学者によって前提となる観測者のイメージが別々であってはならない(そして、日本やアメリカといった地理的条件の差異が科学に影響を及ぼすべきではない)、ということだ。

 この区別は驚くべきものである。というのも、あらゆる哲学が別々の平面と人物に支えられている限り、他者の概念の正誤を判定することなど無意味であり、したがって哲学者どうしの議論は不毛にすぎないからだ。《わたしたちが、哲学書の多くについて、それは誤っているという言い方をしないのは、そう言ったところで何の意味もないからである。むしろわたしたちは、それは重要でも面白くもないという言い方をするだろう》(p145)《哲学は議論を嫌悪している》(54p)。ドゥルーズ+ガタリは、コギトの「思考する」と「存在する」の間に「時間」を導入した者としてカントを挙げている。だが、カントがデカルトより論理的に正しいというわけではない。単に二人は、互いに異なる内在平面と概念的人物を有しているのだ。こうして哲学は科学よりも芸術の類に近づいていく一方で、論理学などは科学に充当される(もちろん芸術に関わるのは「被知覚態(ペルセプト)」および「変様態(アフェクト)」であり、それらは「合成=創造平面」と「美的形象」に支えられているという説明はされているが、ここでは扱わない)。

 

 私が思い出すのは、國分功一郎『スピノザの方法』(2011)である。そこではデカルトの哲学が他者への説得を試みるのに対し、スピノザの哲学は他者への説得を試みないというテーゼが発見されていた。ドゥルーズ+ガタリもまた、他者への説得を試みない哲学者だと言うことができる。事実、彼らのうち議論を本格的に嫌っていたらしいジル・ドゥルーズこそ、スピノザに幾度となく言及した哲学者なのだ。《したがって、スピノザこそ哲学者たちのキリストであり、そしてもっとも偉大な哲学者たちでさえも、その使徒にすぎないと言ってよいだろう》(p107)。國分が書くように、重要なのは説き伏せ従わせることではなく、誘い導くことである。

 先に引用した『哲学とは何か』の言葉を使えば、良い哲学書は読み手を説得して「これは正しい」と思わせるより先に、誘惑して「これは重要だ、これは面白い」と思わせるものなのだ。そしてたしかに、『哲学とは何か』が私たちに提示する哲学観は「面白い」のである。