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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

現在と過去、そして病 ――TVアニメ『中二病でも恋がしたい!』論

 TVアニメ『中二病でも恋がしたい!』は、むかし中二病を患っていた主人公・富樫勇太が、今も中二病のヒロイン・小鳥遊立花と結ばれるまでを描く恋愛劇である。そしてまた、主人公と同じく元・中二病の丹生谷森夏と、ヒロインと同じく現・中二病の凸守早苗との関係を描く青春劇であるとも言えるだろう。改めて解説するまでもなく、中二病とは主に中学生がこじらせる自意識過剰の俗称であり、多くの人間にとって消し去りたい恥の歴史である。この作品は、直視できない過去を持つ者(勇太および丹生谷)と、その過去を改めて想起させる者(六花および凸守)の二項から構成されているのだ。

 とはいえ、勇太と六花の対関係は、丹生谷と凸守のそれとは決定的に異なっている点がある。一言で言えば、それは勇太に「中二病」なる忘却したい記憶があるように、六花にも「父の死」なる忘却したい記憶があることだ。そもそも彼女の中二病の原因は、幼くして経験した父の死が受け入れ難かったことにあるのである。勇太は六花と絆を深めていくうちにその事実を知り、物語後半のある局面において、六花に「中二病」を卒業するよう告げる。要するに彼は、「父の死」という過去を直視し受け入れろ、という残酷な命令を下すのだ。

 だが、この命令は彼らにひとつの捻れをもたらすものである。なぜなら、六花に「父の死」を受け入れろと言う勇太自身は、己の「中二病」から目を背け続けているからだ。それどころか、主に六花の中二病が勇太にかつての自己を思い出させていた以上、六花が中二病を卒業し過去と向き合うことは、そのまま勇太が過去を葬り去ってしまうこととイコールなのである。そのため、彼らの関係はもはや対称性・平等性を失うことを余儀なくされ、実際、六花は勇太ではなく祖父母のもとで暮らすことを決意してしまう。『中二病でも恋がしたい!』の物語が厄介なのは、この捻れのためだ。 

 

 では、この捻れを正すにはいったいどうすればよいのか。それを教えるのが五月七日くみんと凸守であり、そして丹生谷である。

 たとえば、くみんは現・中二病でも元・中二病でもない中立の立場から、幾度となく中二病を擁護し、抹消された六花の中二病(邪王心眼)を継承してみせ、最後には、六花を中二病に誘惑したのは他ならぬ勇太だったという真相を告げるだろう。そして凸守は現・中二病として、六花が中二病を卒業し「父の死」に妥協することを懸命に拒み続ける。彼女たちはともに、勇太の過去こそが六花の現在を支えていたと訴えるのだ。それは勇太にとって、自身の命令が孕んでいた欺瞞を突きつける倫理的警鐘である。

 また丹生谷は、元・中二病として六花や勇太の態度を「ムキになっている」と形容しつつ、「中二病」を卒業したところでまた別の病に陥るだけだ、といった旨のことを語って聞かせる。そこで彼女が言っているのは、つまるところ過去を忘却したり直視したりすること自体の下らなさ、過去を現在から切り離す態度自体の下らなさなのだ。作品の末尾に挿入されたナレーションが述べているように、人は生きている限り「病」から逃れることなどできないのだから。

 もともと丹生谷が凸守にとる態度は、勇太が六花に示す行動とは大きく隔たっていたことに注意しよう。彼女は己の歴史を封じるために、むしろ自分が中二病(モリサマー)だったことを凸守に対して証明しなければならなかったのだ。というのも、凸守こそ意図せず丹生谷の秘密(マビノギオン)に同調したひとりであり、しかも、その凸守は彼女の正体を決して認めようとしないからである。それゆえ、勇太が単に過去を現在から切除していればよかったのに比べて、丹生谷は過去と現在の連続性を主張する必要に駆られている。おそらくは、この条件が丹生谷に先の言葉、すなわち人が「病」から治癒することはないという真理を言わせたのかもしれない。したがって最終回の勇太がなすべきことは、丹生谷と凸守の関係に倣い、自己の歴史(ダークフレイムマスター)を六花に向けて証明する作業になるだろう。

 丹生谷が教えるように、重要なのは、過去を現在から腑分けして処理した気になることではない。「現在と過去」は、偽の二分法に過ぎないのだ。現在とは将来における過去であり、過去とは当時において現在なのだから。我々がやるべきは、現在と過去を調和させた上で目の前の問題を解決すること、己という「病」を生き抜くことだ。だからこそ、六花はリアリティの檻(小鳥遊家)のなかで諦めるのではなく、中二病のファンタジー(不可視境界線)のなかで父の亡霊に想いを伝えなければならなかったのである。