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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

軽さと重さ、あるいは衝動としての愛 ――坂上秋成『惜日のアリス』について

 もし小説に「正しい読み」があるのだとすれば、おそらく私は『惜日のアリス』を正しく読むことができていない。それどころか、おおよそ「作者の意図」とは真逆の解釈をしてしまったように思われる。しかし、「それがどれだけ気まずく悩ましい瞬間だとしても、沈黙は決して誠実に結びつかない」(p116)。

 

 この作品は、二つのパートに分けられている。映画館を舞台に主人公「わたし」と算法寺道明の関係を中心に描かれた第一部(1~5章)と、バー「アテンション」を舞台に主人公「私」とナルナ、および莉々花との関係を主軸に据えた第二部(7~12章)に。ここで注目すべきは、どちらのパートにおいても「わたし=私」が似た過ちを犯してしまうことである。すなわち、第一部で借金を背負っておばあさんの葬式を挙げたこと、第二部で算法寺道明に一方的な別れを告げたことだ。一言で言うなら、それらに共通しているのは「軽さから重さへの転位」である。彼女は自由で拘束力が弱い(軽い)関係性を、不自由で拘束力が強い(重い)関係性に変化させてしまうのだ。

 まず、第二部の関係性から見ていこう。バー「アテンション」のコミュニティは、要するに「軽い」。そしてそれは、彼らが法や契約といった面倒くさいものに縛られていないからだ。そこには誰でも、いつでも好きなときに出入りすることができる――その軽さは、たとえば旧守的世間に認められない実存の受け皿にもなる。「私たちは、鉢の中に集まり、共に時間を過ごしながら、状態が悪くなったらまた別の金魚鉢に移るの。その代わりに新しい金魚が入ってくる」(p209)。だが「私」は、算法寺道明が「アテンション」に参入するのをあからさまに拒む。そのとき彼女の中で「アテンション」は決定的に軽さを失い、同時期に店の常連は少しずつ顔を出さなくなっていく。

 このことは、「アテンション」で知り合ったナルナ(および莉々花)との家庭にもネガティブな影響を及ぼす。現在の日本という国家は、「私」とナルナのような関係を保証してはくれない。ナルナ自身も、そうした保証に支えられた息苦しい信頼を求めていないように思われる。その意味で、「アテンション」と同じくナルナ一家もまた「軽い」共同体である。「あなたの今の言葉は、私を楽しませようとするものではなく、私とあなたをどこかにはめ込むために紡がれたものね」(p149)。しかし「私」は、言葉の暴力を用いて算法寺とナルナの接近可能性を断ち切る。結果、ナルナの軽さは暗に否定され、彼女と莉々花は「私」を捨てて失踪するのだ。「ここは随分とあなたに優しい場所ね。だからこそ、あたしと莉々花は別のところに行かなくてはならなかったの」(p197)。

 以上を踏まえて第一部を鑑みると、「わたし」が第二部と似たような岐路に立たされていたことが分かる。映画館の主であるおばあさんが亡くなったとき、「わたし」は借金を背負って彼女の葬式を挙げるのだ。おばあさんが結局のところ一人の雇用主に過ぎないにもかかわらず、である。この借金は不穏な足枷になって、算法寺の崩壊の伏線として機能するだろう。つまり「わたし=私」は、本来なら自由で拘束力の低い関係性に、不自由で拘束力の強い関係性を――社会的に真っ当な承認を?――導入してしまう衝動の持ち主なのだ。「そうよ! そうよ! そうよ! ねえ、あたしはちゃんとしたいだけなの」(p149)。それが読み手の私に「私=わたし」への共感を許さず、終盤のナルナに対する感情移入や算法寺への同情を誘う読書体験をもたらした。

 とはいえ重要なのは、『惜日のアリス』が最終的には「わたし=私」の衝動を部分的に肯定していることである。バー「アテンション」の常連は彼女の働きかけを通して復活し、算法寺との緩やかな和解や成長した莉々花との再会によって作品は終わる。付け加えれば、おばあさんの葬式で泣き崩れる男がいる。そうであれば、この小説が「わたし=私」の行動に極めて両義的な評価を下していることは疑いを入れない。彼女は「軽さ」に耐えられず「重さ」を欲する、言い換えれば、交換可能性の自由に耐えられず交換不可能性の不自由な世界を望んでしまう。それはなぜなのか――その不合理な衝動は一体どこから来るのか? 章タイトルにその答えを探すと……「ひょっとしたら人はそれを愛と呼んできたのかもしれない」という一文が私の目に止まった。

 

 作者の坂上秋成氏は佐藤純一氏との対談(※)において、「疑似家族」が孕む「リスク」をテーマのひとつに並べている。だが私という読者には氏の語る「リスク」が半ば「メリット」のように聞こえ、「わたし=私」の振る舞いからは「リスク」自体よりむしろ「リスクがあるということにしたい」欲動を受け取った。真逆の解釈をしてしまった、というのはそういうことである。

 

(※)……NETOKARU「『惜日のアリス』刊行記念 坂上秋成×佐藤純一対談」 http://netokaru.com/?p=17506