鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

個人主義は今や保守的である? ――平野啓一郎『ドーン』感想

 平野啓一郎『ドーン』(2009)は一言で言えば、個人主義と分人主義の対立と和解を描いた作品である。個人主義とは、私たちの精神に単一の「主体」を想定する人間観であり、分人主義とは、そのような「主体」を想定しない人間観である。前者の場合、表層的な複数の「自我」は深層的な主体に従属するものとして解釈されるが、後者の場合、表層的な複数の「自我」はそれぞれ自立したものとして理解される。それゆえ、個人主義が私たちの精神を分割できない(individual)ものと捉えるのに対し、分人主義は私たちの精神を分割できる(dividual)ものと捉えるのだ。

 

 近未来のアメリカにおける大統領選挙は、二つの争点を抱えている。ひとつ目は、第2のイラク戦争とも呼ばれる東アフリカ戦争を「介入」として肯定するか、「侵略」として否定するか。ふたつ目は、先ほどの個人主義と分人主義のうち個人主義を称揚するか、分人主義を寛容するか。共和党の大統領候補ローレン・キッチンズは、「介入」の正義を訴える米国右派であると同時に、個人主義の伝統を守ろうとする保守的な人間として描かれる。民主党の大統領候補グレイソン・ネイラーは、「侵略」の不正義を訴える米国左派であると同時に、分人主義の自由を庇おうとするリベラルな人間として描かれる。

 この対立は、本作に二つの深刻な物語を与えている。一方には、選挙以前に共和党が推進した有人火星探査プロジェクト《ドーン DAWN》のクルーたちがいる。「分人」の維持が不可能になる閉鎖空間において、彼らは個人という牢獄に束縛されるのだ。そこで勃発するのが精神の病であり、レイシズムの憎悪であり、セクシュアリティの問題である、というのはいかにも示唆的である。他方には、選挙において民主党のPRを担当したウォーレン・ガードナーがいる。「個人」の維持が不可能になった近未来において、彼は分人という概念に翻弄されるのだ。そこで描写される生物兵器「ニンジャ」、分人の構築を促す技術「可塑整形」、そして主体の代わりに精神を管理するデータベース「散影」といったSF的ガジェットは、あまりにリアルである。

 個人主義の(古すぎるがゆえの)歪みと、分人主義の(新しすぎるがゆえの)歪み。この両方を一身に引き受ける存在こそ、主人公の佐野明日人に他ならない。

 佐野明日人は、プロジェクト《ドーン DAWN》のクルーのひとりだった。そこで公的には、共和党的な価値観(介入の正義・個人主義)に賛同しなければならない。軍事企業デヴォン社CEOのカーボン・タールにスカウトされ、クルーとしての誇り高き顔を保つように求められるだろう。しかし、彼は《ドーン DAWN》のクルーである前に佐野今日子の夫であり、亡き息子・太陽の父である。むしろ私的には、民主党的な価値観(侵略の不正義・分人主義)を受容しなければならないのだ。リリアン・レインやディーン・エアーズといった第三者を介して、分人としての自分や妻を愛してみること、あるいは添加現実(AR)として復活した、幽霊としての息子を肯定してやること。つまり佐野明日人は、個人であることと分人であることの間で板挟みに遭っているわけだ。

 では、どうすればいいのか。『ドーン』の物語は、決して片方を選びもう片方を捨てるような安易なものにはなっていない。それは、(古すぎる)個人主義の束縛に分人的軽さを与え、(新しすぎる)分人主義の翻弄に個人的重さを与えるような、和解と調停の結末になっているだろう。佐野明日人は、公的には自身の恥ずべき顔を公表してスカウトを断るとともに(個人→分人)、私的には、あくまでも個人としての妻を愛そうと対話を試みるのだ(分人→個人)。それと関連するかのごとく、大統領選挙は民主党のネイラーが勝利を収め、幽霊としての息子・太陽は別れを告げるのである。

 

 平野啓一郎は『ドーン』で、情報化社会がもたらす人間観の変貌をかなりストレートに表現している。そしてその人間観(分人主義)は、今まさに私たちが直面しているものでさえあるだろう。もちろん、ウォーレン・ガードナーの労苦を見る限り、その変化は無条件に喜ぶべきものではない。だが、前提としてそれを受け入れたところにしか佐野明日人の希望も愛もありえなかったのだということは、強く確認されていいはずだ。個人主義は今や(悪い意味で)保守的であり、精神的病理や民族的・性差的憎悪の問題に対して後手に回ることしかできていないのではないか……この問いは、きわめてアクチュアルなもののように思われる。