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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

イデオロギーの空虚な本質 ――ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』感想

 スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留 ――カント、ヘーゲル、イデオロギー批判』(1993)は、カントからヘーゲルまでのドイツ観念論をラカン派精神分析の理論とともに解釈し、その解釈を現代のイデオロギー批判に適用したものである。当時の世界ではソ連・東欧の社会主義が解体し、ナショナリズムの暴走や民族紛争が多発していた。ジジェクはその状況を打破する手段として、ヘーゲルの言葉を借りて「否定的なもののもとへの滞留」を唱えている。それは一言で言えば、「自分自身を絶対的分裂のうちに見出す」(『精神現象学』)ことになるだろう。

 

 ジジェクが初めに主張するのは、主体と呼ばれるものが空虚であることだ。思考するのは「私」ではなく「他者」でもなく、〈モノ〉である。言わば主体は暗黒であり、関節が外れているのだ。たとえば不等価交換の剰余を経て貨幣を資本に転化するのは主体によってだが、このとき、媒介者としての主体は実体化されるとともに抹消されるだろう。主体の限界づけはその超越に先立っているのであり、知は絶えず〈現実的なもの〉に開かれているのである。それを見抜いたのが、イマヌエル・カントからゲオルク・ヘーゲルまでのドイツ観念論ということになる。

 ここで重要なのは、コギト(考える私)には性的差異があるということだ。カントが普遍のなかに刻んだ〈崇高〉という亀裂には、言わばユダヤ教的なものとキリスト教的なものがあり、それぞれ「上昇的綜合」と「下降的綜合」によって縫い合わされる。これらの差異は、ラカンが「男性的形式」「女性的形式」と呼んだものに等しい。彼において、存在(男性的コギト)は先行する思考(女性的コギト)を抹消することで成立し、そこで主体は大文字の他者に性急な同一化を果たすだろう――そこでは自己意識としてのコギトは、眼差しとしての〈モノ〉になる。

 カントが根源的〈悪〉と名指すものは、この〈モノ〉の位相と関わっている。〈現実的なもの〉は幻想に先行し、幻想の残滓として絶えず現れる。同様に根源的〈悪〉は善に先行し、また善の残滓として絶えず現れるだろう。それは表象不可能なものであり、非‐間主観的な〈他者〉である。カントが否定判断と無限判断を区別することで思考しようとした対象は、まさにそのようなものだと言ってよい。〈モノ〉の位相においては、我々が現実と信じていたものは幻想に反転し、〈善〉だと信じていたものは〈悪〉に反転する。そのとき想像的な恐怖もまた、象徴的な至福に反転するのである。

 この観点から、ヘーゲルにおける本質の論理をイデオロギーの理論として読み解く道が拓ける。彼において同一性は差異を、差異は矛盾を形成する。また形式/本質の対立は形式/質料の対立に、形式/質料の対立は形式/内容の対立に発展していく。そして形式的根拠は実在的根拠に、実在的根拠は完全な根拠に進歩するだろう。ここで注意すべきは、これらの論理がいずれも空虚な主体(空虚な同一性、空虚な本質、空虚な根拠)によって駆動されていること、そしてその論理は全てトートロジカルに、自分自身へ回帰してしまうことだ。不充足な根拠律が明らかにするのは、条件と根拠は常に交換可能だということなのである――そうした生成のループは絶対的に静止しえないものになり、可能性は、実在性との関わりにおいて実在性に回帰する。

 ラカン派精神分析を踏まえてドイツ観念論を分析したジジェクの主張は、しかし、きわめて明快である。それは自身を〈モノ〉の位相に留めること、女性的コギトに留めることになるだろう。このことは善悪を超えた根源的〈悪〉のもとで思考し、イデオロギーの本質が空虚な自分自身であることを見抜くことを意味している。私は私が空虚であると認めることによって、初めて私を癒すことができる。ナショナリズムの暴走や民族紛争の多発を、私自身として受け止めること。それこそが「否定的なもののもとへの滞留」になるのだと理解される。

 

 ジジェクの功績は映画やオペラを軽快に引用しながら、ドイツ観念論のもとでラカン派精神分析を見事に図式化したことにある。もちろん、そこに理論的な問題がないわけではない。彼のイデオロギー批判はどのようなイデオロギーに対しても当て嵌まる、彼の理論は単一主体モデルでしかない、云々……といった批判は、本書を読みながら私も感じていたことだ。しかし同時に感じたのは、そのようなジジェクの議論が未だに有効だということでもある。たとえば通俗的なローティ主義者の言説において、ジジェクのローティ批判は完全に忘れ去られているようだ。そしてそれに関しては、私はむしろジジェクを擁護するだろう。

 イデオロギーの本質は空虚だ、という話はやはりそれ自体が空虚ではある。だが偽りの充満に錯覚させられたイデオロギーが跋扈する状況に対しては、やはり我々は、イデオロギーの本質は空虚だと言ってみるべきなのかもしれない。