鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

ネット社会に「闇」はあるか? ――平野啓一郎『決壊』について

「しかし、彼がそこからどうしても逃れられないのは、彼の知る他者が、現実の他者と少しも矛盾しないように感ぜられることだった」

 

 平野啓一郎『決壊』(2008)の主眼は、その紹介文によれば「絶望的な事件を描いて読む者に〈幸福〉と〈哀しみ〉の意味を問う」ことにあるらしい。なるほど、本作の主人公である沢野崇は、幸福や悲哀の意味を問うに相応しい造形がなされている。彼は、そうした感情の意味が分かっていない――より正確に言えば、幸福や悲哀をリアルに感じることができない人間として描かれているのだ。「自分の活動が引き起こす現実を、つまりは、こんなものかと感じてしまうなら?」「俺の活動が、ある人間の中に、一種の快楽を引き起こす。そしてその喜びを、俺に向けて表現し、俺を価値ある人間として承認してくれる。いいかい、それは一体、何なんだろう?」

 そのように彼が考えてしまうのは、結局のところ、彼が状況に合わせて自分を使い分けるのが上手すぎる人間だからである。自分や他人を思いどおりにコントロールできる彼は、未来への期待も過去への後悔も強くは感じない。すなわち、幸福も悲哀もリアルなものとして受け取ることができない――あの〈現実〉や〈他者〉といったものを経験しえない人間なのである。「俺は、他人の欲望を解析するのが得意だよ。言動からね、すぐに分かってしまう。その結果、俺自身の欲望の見当もつく。それで立派な、愛されるべき人間として生きていけるよ。――それがある時、急に嫌になる」「俺はどうしても、他人との交わりの中で、その当事者になれない。間に立って、双方の言葉を調整してしまう。そうして、俺はやはり、愛すべき人間であり得る。さて、それが何なんだい?」

 それゆえに、彼は「本当の自分」というフィクションを信じることができない。そしてそれは、彼が誰にも打ち明けられない「秘密」や「疑念」を持つことができない、ということを意味するだろう。強いて言えば、秘密を持ち得ないという秘密、疑念を持ち得ないという疑念を抱えているのが沢野崇という男なのだ。かわりのきく複数の女性から「優しい」と言って愛され、友人から「スッキリしている」と言って好感を覚えられると同時に、かけがえのない家族から「怖い」と言って遠ざけられる、人形のような男。「僕はもうね、一人って数えられるのを止めてもらおうと思ってる。いつもね、沢野さんたちって複数形で呼んでもらおうかと思って。ははは! 冗談だよ」「一人の人間は一人の人間じゃないんだよ! 驚くべき発見じゃないか!」

 たとえば彼の「病」は、沢野良介や北崎友哉といった登場人物と比べるとハッキリしている。「地方都市で妻子と平凡な暮らしを送るサラリーマン」の良介は、「自分の人生への違和感」をネットの匿名日記に残すことができる。「いじめに苦しむ中学生」の北崎友哉も、「殺人の夢想」を孤独にネットに残すことができる。二人は、いずれもインターネットの世界に「本当の自分」を投げ入れられるという点では共通している。他方で沢野崇には、ネットに投げ入れられる自分などというものが最初から存在していない。むしろ彼は、沢野良介や北崎友哉を十全にコントロールして殺人事件を起こそうとする「悪魔」に近いだろう。沢野崇とハンドルネーム「666」を同一視してしまった沢野佳枝は、その意味では極めて正しい。事実、沢野崇と悪魔は、自己の同一性や必然性を保証するモノとしてキリスト教を挙げている面においても、幸福や平和といった原理に反発している面においても、自分が存在していないと主張する面においても似通っている。「なんで神が一者か知ってる? 信じる方が一人だからだよ!」「モイライは――運命の三女神は、高が大工の倅が神の子になることを断じて許さなかった!」「複数のアイデンティティの中で、支配的なものを善として確認しようとするなら、悪なる他者を外部に発見して、それと対立するというのが、一番確実な方法となるわけですよ」「平和が平和として感じられるためには、平和でない現実こそが不可欠となる。染みをどこにつけるか?」「いや、俺はつまりお前だ。お前の言った通り、俺はどこにも存在しない非存在だ」

 以上の観点から、私は平野啓一郎『決壊』の「殺人者は電子の闇に沈む――」という惹句に付け加えておきたいことがある。本作が問題にしているのは、ネット社会における心の闇などといったものではない。そうではなく、インターネットの世界にさえ心の闇を携えることが許されないような状態の人間や社会について作者は問うているのではないだろうか。「決壊」を引き起こす悪魔は、沢野良介や北崎友哉といった「健全な」人間を指しているのではない(そう、良介や友哉は驚くほど「健全」なのだ)。悪魔は、沢野崇のような「空虚な」人間にこそ重なり合うのである。そしてその空虚な人間性は、決して「エリート」や「気狂い」の専売特許ではない。

 

「これはしかし、俺だけの独創的な惨めさじゃないよ」

「人は神にはなれない。しかし、悪魔には、就職するように簡単になれるさ」