鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

対話の欠乏、内省の肥大。 ――大澤信亮『新世紀神曲』感想

 

「そういう話がしたいなら評論を書けばいいんじゃないかしら?」――菖蒲みずき

 

 大澤信亮『新世紀神曲』(新潮社、2013)の表題作は、批評としては少し型破りなスタイルを採用している。最近の現代日本小説の主要登場人物を使って、ある種の対話篇を書こうとしているのだ。平野啓一郎『決壊』の沢野崇、鹿嶋田真希『ゼロの王国』の吉田カズヤ、阿部和重『ピストルズ』の菖蒲みずき、古川日出男『聖家族』の狗塚カナリア、町田康『宿屋めぐり』の鋤名彦名、舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』のディスコ・ウェンズデイ……以上の人物が謎めいた空間に集められ議論を交わすというアイデアはたしかに魅力的である。こうした文章を書くこと自体、「これは批評なのか?」「そもそも批評とはなにか?」という問いを読者に投げかける効果がある。現在の狭く息苦しい批評観に風穴を空ける試みだけでも、著者の大澤信亮は賞賛されてしかるべきだろう。

 しかし「新世紀神曲」は、その魅力を台無しにしてしまう大きな問題を孕んでいる。主人公の名探偵・犬神修羅の存在である。

 先に言っておけば、対話篇そのものの分量は「新世紀神曲」全体の三分の一程度しかない。まず著者オリジナルキャラクターの犬神を巡る物語が長々と綴られ、ようやく対話篇が始まったかと思えば、早々に「メタレベル」である夏目漱石吾輩は猫である』の猫による退屈な独白と神秘的なエンディングへ横滑りしていく。そしてそこでは、著者が託したであろう問題意識(「この世界という壮大な殺人事件への怒り」など)が特に吟味されないまま書き連ねられているだけだ。つまり大澤は、複数の立場がぶつかり合うはずのダイアローグから単一のモノローグに後退してしまうのである。ならば、わざわざ批評において物語形式を採用する必然性はないと言わなければならない。「新世紀神曲」は「これは批評なのか? これが批評なのだ」という自問自答には成功しているが、「なぜ物語形式なのか?」という問いは予め放棄している。

 このモノローグへの後退傾向が、肝心の対話篇のエンターテインメント性をも少なからず損なっているように思われる。複数の主要登場人物によるダイアローグが、絶えず犬神という「メタレベル」によって整理され単一のモノローグに落とし込まれてしまうからだ。彼らは自分自身や犬神をよく知らないが、犬神は自分自身や彼らをよく知っている……そうしたアドバンテージや「密室」「声」といった舞台装置によって、彼らのお喋りは著者が設定し犬神が指導するテーマを追従するばかりだ。それでは、著者および犬神の問題意識自体が批判され吟味される機会は致命的に失われてしまう他ない。どうして「この世界という殺人事件」「愛せないという罪」などという病んだ認識そのものを覆してはならないのだろうか。「新世紀神曲」は平野・鹿島田・阿部・古川・町田・舞城の小説を手厳しく批判しているが、その刃を己に向けていない。

 簡単に言えば、大澤信亮の批評は他人に対しては厳しいくせに自分にだけは甘いのである。もし犬神修羅を出さず他小説同士の対話篇のみで作品を構築しようとすれば、「新世紀神曲」の試みはもっと輝いたはずだ。

 他の論考を読むと、「新世紀神曲」の問題点が大澤の根本に関わる重大なものであることが分かる。たとえば「復活の批評」は、宇野常寛雨宮処凛赤木智弘山城むつみ鎌田哲哉大塚英志福田和也福嶋亮大安藤礼二佐々木中といった現代の論客を軒並み批判し、特に東浩紀柄谷行人を槍玉に挙げ、彼らの問題点が内省の欠如にあったと述べる意欲的な論争文だ。要するに、内省こそがポストモダンにおける「神的なもの」に通じる道であり批評の起源であるというわけだ。しかしながら、その分析からは東や柄谷が内省から脱した理由がポッカリと抜け落ちている。自己言及こそが罠だったという『存在論的、郵便的』の苦い結論を、大澤は「とはいえそれはパターンや紋切り型で片付けて済む問題ではない」と一蹴しているのみだ。つまり、大澤の東批判や柄谷批判は批判として成立していない。単に大澤は、自己言及の罠(モノローグの閉塞性)に対して開き直っているだけなのである。彼の宣言する「複数的な超越論性」に「新世紀神曲」が至っていないのは既に述べたとおりだ。

 次なる「出日本記」では、大澤の内省(モノローグに対する居直り)が危うい形で露呈しているように見える。彼はそこで、やはり東浩紀平野啓一郎古川日出男、そして高橋源一郎などを批判している。だが自身の「触発する悪 ――男性暴力×女性暴力」に寄せられた批判に対しては、「主に女性たちから「ミソジニー」とレッテルを貼られて叩かれた」と突き返すばかりだ。それは論争を好むタイプの批評家がとる身振りとしては、断じてフェアなものではありえないだろう。大澤自身は「出日本記」において「残酷な形で露呈している」「重大な態度の変更」が本書にあったと述べているが、彼の心を揺さぶっているのは好意的な読者と友人と旅先の人々と死んだ者たちだけである(受け入れられる批判は、間接的な「自分の褒める作品を貶した学長たち」くらいだ)。結局のところ彼は自分にとって都合がいい他者、言わば自己の鏡像にしか向き合っていない。そんなモノローグに閉じた状態で、いったいどのような「重大な態度の変更」があるというのか。私には分からない。それどころか「新世紀神曲」の冗長と閉塞は、「宮沢賢治の暴力」と比べて衰弱しているようにさえ感じられる。

 それでもなお内省にこそ批評の原理があると言うのであれば、たとえば女性蔑視を批判されたとき、あるいは「復活の批評」でサブカル蔑視を批判されたとき、立ち止まって自己を問うてみるべきだ。でなければ、いつまでも「議論を開かれた場で行なうこと」などできないだろう。

 

補足

 もう少し、具体的なことを書いておく。大澤は本書で「生きている」書き手の多くに手厳しい批判を加えているが、「死してすでに歴史と化した存在」の多くについては無謬に正しい者として取り扱っている。デリダ、カント、小林秀雄石川啄木フロイト、イエス、ブッダ等々……なぜ以上の者たちには、生きている者たちと同じように鋭い刃を向けないのか。デリダやカントやフロイトが言っているから正しい、小林秀雄石川啄木が言っているから正しい、イエスやブッダが言っているから正しい、というのはファンや信者の態度であって批評家の態度とは呼びがたいように感じられる。とはいえ「ラカンがどうの、デリダがどうのと云う議論は、どうでもいい」などと書いている以上、その態度はファンや信者とさえ呼べない「もたれかかり」なのだが(この文に限らず大澤は「どうでもいい」を多用するが、「どうでもいい」なら最初から書くべきではない)。

 さらに細かいところを。大澤は「というのも、私が書いていることを本当に理解した人は、神様のように生きることを目指すはずだから」と書いている。これは端的に間違いである。というか、大澤は「大澤の文章を本当に理解したが、全く同意しない」という読者の存在を想定していない。私には、そのような読者の声こそ著者にとっては傾聴にふさわしいもののように思われるのだが。なぜ想定できないのか、それは内省に閉じ籠っているからではないだろうか。また、大澤は「妄想めいて聞こえることは承知している。しかし、論理的かつ倫理的に考えると、こうならざるを得ない」とも書いている。これも端的に間違いである。彼の論理は批判に対して雑であり、その倫理は世界に対して病んでいるというというのが今まで私の言ってきたことだ。妄想めいて聞こえることを承知しているならば、その論理と倫理の誤りを点検するのが正道ではないだろうか。

 あとそろそろ、神秘的宗教系エンディングでお茶を濁すのもやめた方がいいと思う。

 

「彼らがそこから抜け出そうとしたことの意味は考えられているのか」――犬神修羅