鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

バッドエンド症候群を超えて ――虚淵玄論(小説『Fate/Zero』について)

はじめに

 なぜ、私たちは時として自他の不幸を望んでしまうのか。どうすれば、自他の幸福を望むことができるようになるのか。

 虚淵玄は、株式会社ニトロプラスの取締役かつシナリオライターである。同社のデビュー作『Phantom』を手がけたのち『吸血殲鬼ヴェドゴニア』『鬼哭街』『沙耶の唄』そして『続・殺戮のジャンゴ』といったゲームシナリオを担当した。『白貌の伝道師』『アイゼンフリューゲル』といった小説や『リベリオン』の二次創作、さらに『ブラック・ラグーン』のノベライズなど活躍は多岐に渡っている。特に『ブラスレイター』『魔法少女まどか☆マギカ』『PSYCHO-PASS』『翠星のガルガンティア』といったTVアニメ作品の脚本・構成・原案などは若いファンの記憶にも新しいはずだ。かくいう私も、そうした未熟な視聴者のひとりである。

 虚淵玄を語る上で欠かせないのは、いわゆるバッドエンド症候群の存在である。「心温まる話を書きたい」はずなのに物語を突き詰めると悲惨な結末に陥らざるを得ず、その傾向に彼自身が苦悩して断筆も考えていたことは既に有名な話である。

「物事というのは、まぁ総じて放っておけば悪い方向に転がっていく。どう転んだところで宇宙が冷めていくことは止められない。“理に敵った展開”だけを積み上げて構築された世界は、どうあってもエントロビーの支配から逃れられないのである。故に、物語にハッピーエンドをもたらすという行為は、条理をねじ曲げ、黒を白と言い張って、宇宙の法則に逆行する途方もない力を要求されるのだ。そこまでして人間賛歌を謳い上げる高潔な魂があってこそ、はじめて物語を救済できる。ハッピーエンドへの誘導は、それほどの力業と体力勝負を作者に要求するのである」

 重要なのは、そんな彼がTYPE-MOONとの共同プロジェクト『Fate/Zero』の執筆によって立ち直る契機を得たことだろう。ある意味で『Fate/Zero』がなければ、『魔法少女まどか☆マギカ』も『PSYCHO-PASS』も『翠星のガルガンティア』も今のような形では存在しなかったかもしれないのだ。ならば私たちは、まず『Fate/Zero』における虚淵玄の「転回」を探らなければならない。

 

衛宮切嗣言峰綺礼 ――小説『Fate/Zero』という転回

 虚淵玄Fate/Zero』は、TYPE-MOON奈須きのこがシナリオを担当したPCゲーム『Fate/stay night』のスピンオフである。ファンディスク『Fate/hollow ataraxia』のサブシナリオだったはずが、虚淵の希望により長編小説化、コミックマーケットの先行発売および同人ショップの委託販売が行なわれた。現在では星海社から刊行されているほか、コミカライズや更なるスピンオフ漫画、そしてTVアニメ版や派生のソーシャルゲームも発表されている。おおむね奈須の世界観を継承しながら、本編としての『stay night』では断片的にしか語られない十年前の過去の出来事、すなわち「第四次聖杯戦争」を詳細に描く内容であることが本作の特徴と言えよう。

 最初に『Fate/Zero』における「第四次聖杯戦争」を概観しておこう。あらゆる願望を叶える聖杯をめぐって、日本の冬木市では七組の魔術師(マスター)と使い魔(サーヴァント)による戦争が断続的に催されている。四度目の聖杯戦争は一九九〇年代の初秋、参加したマスターは衛宮切嗣、遠坂時臣、言峰綺礼、ウェイバー・ベルベット、ケイネス・エルメロイ・アーチボルト、間桐雁夜、そして雨生龍之介である。彼らが召喚したサーヴァントは、それぞれ順にセイバーのアルトリア、アーチャーのギルガメッシュ、アサシンのハサン、ライダーのイスカンダル、ランサーのディルムッド、バーサーカーのランスロット、そしてキャスターのジル・ド・レェであった。

 ここで押さえておくべきは、著者の虚淵玄が抱えている問題意識を仮託されたメインキャラクターの存在である。それこそが、衛宮切嗣言峰綺礼に他ならない。

 彼らと作家の共通点は、幸福に対する途方もない距離感にある。衛宮切嗣は「幸福であることに苦痛を感じてしまう」男であり、言峰綺礼は「人が幸福と感じる事柄を幸福と感じられない」男なのだ。これらの人物造形は、虚淵玄の「ヒトの幸福という概念にどうしようもなく噓くささを感じ、心血を注いで愛したキャラを悲劇の縁に突き落とすことでしか決着をつけられなくなった」という独白と見事に類似している。おそらく彼が本作の執筆を自発的に長大化させたとき、その作家論的主題は、自身の問題意識を託した二人の男を邂逅させることになったのだろう。言うなれば両者は、作者のバッドエンド症候群を治癒すべく聖杯戦争に参加しているのである。

 だが本稿において注意すべきは、衛宮切嗣の目指す「奇跡による世界の救済」と言峰綺礼の目指す「愉悦による意識の転回」が真っ向から衝突していることだ。

 衛宮切嗣が聖杯に願おうとしたのは、「戦いの根絶」と「恒久的な平和の実現」である。かつて「正義の味方」に憧れた理想主義者としての彼は「多数を救うために小数を切り捨てる」自身の在り方に絶望し、そのような正義を必要としない世界を聖杯の奇跡に求めていたわけだ。こうした態度には幼少期、親しい少女であるシャーレイを殺さなかったせいで村全体が壊滅したというトラウマが横たわっている。早期に「指先を心と切り離したまま動かす」暗殺者の素質を身に着けた彼は……実の父である衛宮矩賢を殺し、育ての親であるナタリアを殺し、妻であるアイリスフィールの犠牲を受け入れるなど……次々とシリアスな現実に直面していったのである。

 他方で言峰綺礼は、聖杯に求めようとする自分の願いを最後まで見極めることができていない。生まれついて人から外れた悲喜や美醜の基準を持つ彼は、同時に強すぎる道徳観や倫理観を持っていたため、その破綻ないし歪曲した人格を矯正すべく修行や試練を己に課してきたわけだ。こうした混乱は第四次聖杯戦争時、遠坂時臣のサーヴァントであるアーチャーの指導によって昇華されていく。自身が娯楽とするものを正直に求めるようになった彼は……実の父である言峰璃正に対する殺意を認め、師匠である遠坂時臣を裏切って殺し、間桐雁夜の人生を弄んで時臣の妻である葵を襲わせるなど……次々とグロテスクな現実を創造していったのである。

 彼らの差異は、そのままハッピーエンドへの誘導をめぐる虚淵玄の葛藤とシンクロしている。彼は「私は往生際悪く、人々に希望と勇気を与える物語を作りたい」と語るときは衛宮切嗣の側に立っており、また「青白い馬に跨って病原菌を撒き散らす側に転身した方がいいのかもしれない」と語るときは言峰綺礼の側に立っているのだ。エントロピーの認識を変えることなくその支配から逃れるためには、両者いずれかの立場が勝利しなければならないだろう。すなわち世界を救済するために奇跡を起こすのか、あるいは意識を転回するために娯楽を認めるのか。切嗣が綺礼に恐怖し綺礼が切嗣に執着した瞬間、本作は言わば虚淵玄の内面劇に生成したのである。

 あと少しばかり、詳しく論じておこう。

 虚淵玄の内面劇、という性質は『Fate/Zero』という作品に遍く行き渡ったものだと解釈できる。たとえば衛宮切嗣とセイバーが根本的に相容れないとき、そこには抽象的な正義と具体的な美徳、すなわち「勝つためには手段を選ばない」反英雄的な外道と「勝つためには正々堂々と戦いたい」英雄的な騎士道の対立が描かれている。ただし無私無欲をもって全体を救済しようとする点では、マスターである切嗣とセイバーは似た正義の持ち主である。むしろ注意が必要なのは、そのセイバーとライダーが問答する際には相異なる王としての在り方、すなわち自己犠牲的な他者の救済とエゴイスティックな他者の指導が対立させられていることだ。

 私たちが理解しなければならないのは、虚淵玄がこの二分法において常に後者をマシな立場に置いていることだ。殺人鬼である雨生龍之介を倒すときには有効な衛宮切嗣の態度は、ケイネスを陰惨に殺す際にはその危険性を曝け出してしまう。同様に、キャスターを倒すときには動じなかったセイバーの矜持もまた、バーサーカーと向き合うに当たっては大きく揺らいでしまうだろう。そんな切嗣とセイバーがまともなコミュニケーションさえ取れなかったのに比べて、ライダーとウェイバー・ベルベットは、互いのエゴを尊重し合う良好な関係を築き上げているのである。つまり無私に支えられた救済的正義とエゴに支えられた指導的美徳とでは、残酷なまでに後者が優遇されているのだ。

 同じようなことは、間桐雁夜と遠坂時臣の対決についても指摘することができる。幼馴染の娘である間桐桜を普通の人間として救うべく聖杯戦争に臨んだ雁夜は、凡庸な無私に支えられた救済的正義に身を置こうとしている(つもりだ)。他方で実の娘である桜を優秀な魔術師として導くべく間桐蔵賢に託した時臣は、家長のエゴに支えられた指導的美徳に身を置こうとしているわけだ。そしてやはり、より陰鬱な最期を迎えたのは遠坂時臣ではなく間桐雁夜だったと言わなければならない。ここでは、抽象的で全体的な救済が要求する欲望の抑圧と、具体的で個別的な指導が要求する快楽の解放とが大きく隔てられているのである。

 

 最終的に『Fate/Zero』自体は奇跡による救済を否定し、愉悦による転回を肯定する物語になった。聖杯は切嗣の夢想を叶えず、むしろ綺礼の爛れた本性に報いることで彼に解答を与えるだろう。それは、結局のところ「心血を注いで愛したキャラを悲劇の縁に突き落とす」のは、条理や法則などではなく作家の精神だったということである。

 そもそも条理を設置しているのは作家本人なのだから、当然の話ではある。

 英語圏のインタビューにおいて、虚淵玄は過去に「創作活動が自らの思想の表明でなければならない」「世に問うに値する思想のないままに物語を紡ぐことが不誠実な行為ではないのか」といった固定観念に縛られていたこと、そして、本作の執筆を通して「筆を執るという行為そのものの快楽性」を再確認したことを打ち明けている。この事実は、倫理や道徳に囚われていた言峰綺礼が苦悩していたこと、さらに、アーチャーの指導によって娯楽を是認していったことと正確に合致している。同インタビューでは、本作のテーマのひとつが「生真面目に苦悩していた若き日の綺礼が、いかにして『stay night』のラスボスにまで大成していくか」だと語られてさえいるのだ。

 問題は世界が予め不幸であることではなく、我々が自他の不幸を欲望し快楽することができるということにある。すなわち、問うべきは「物事が、放っておけば総じて悪い方向へ転がっていく」原因ではなく「我々が、放っておくべき物事も悪い方向へ転がそうとしうる」動機にこそあるのだ。虚淵玄が「筆を執るという行為そのものの快楽性」を再確認したあと、次に作家として探究すべきはこの課題であったように思われる。実際、言峰綺礼聖杯戦争の与えた結末に満足せず「こんな怪異な解答を導き出した方程式が、どこかに必ず明快な理としてあるはずだ(略)この命を費やし、私はそれを理解しなければ」等と述べているのだから。

 であれば、次に私たちは『魔法少女まどか☆マギカ』『PSYCHO-PASS』『翠星のガルガンティア』といった諸作品に、虚淵玄の「探究」を読み込まなければならない。なぜ私たちは時として自他の不幸を望んでしまうのか、どうすれば自他の幸福を望むことができるようになるのか、その探究を。

 

(続く)