鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

奇跡と救済、愉悦と転回 ――虚淵玄論2(『魔法少女まどか☆マギカ』について)

はじめに

 劇場で『叛逆の物語』を見終えたとき、ようやく私はTV版の結末に感じたモヤモヤを晴らすことができた。足りないパズルのピースがやっと埋まってスッキリした、この物語を私はずっと待っていたのだ、と。

 TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)は、シャフト制作のオリジナル作品である。プロデュースを岩上敦宏など、監督を新房昭之、キャラクター原案を蒼樹うめ、音楽を梶浦由記、異空間設計を劇団イヌカレー、そしてシリーズ構成および全話脚本を虚淵玄が担当した。途中に東日本大震災の影響で放送を延期されながら、絶大な話題と売上を記録しており、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞、東京アニメアワードテレビ部門優秀作品賞などを受賞し、その経済効果も日本経済新聞が報じている。2012年には総集編の劇場版二部作『始まりの物語』『永遠の物語』が、2013年には新編である『叛逆の物語』が公開された。

 新房は虚淵を脚本家というより作家として扱い、細かな修正を除いて物語に手を入れることはなかった。そんな虚淵は蒼樹のキャラクター造形を念頭に置き、黒田洋介のシリーズ構成を継承しながら、新房が魔法少女モノのアニメに対して抱く拘りを意識して本作のテーマを決定している。それは御都合主義を描けない自分の世界観が、いかにして御都合主義的な魔法少女モノの世界観に到達できるか、すなわち「少女の祈りを良しとするか否か」という葛藤の過程にあったという。また、そこには自身が参加したTVアニメ『ブラスレイター』のテーマ、要するに諸悪の根源を打倒したり和解したりするのではなく折衝することも加味されているらしい。

 こうした虚淵の言葉は、繰り返せば、かつて語っていたバッドエンド症候群をそのまま示唆するものである。「心温まる話を書きたい」はずなのに物語を突き詰めると悲惨な結末に陥らざるを得ない彼は、エントロピーの認識を変えることなくその支配から逃れる方法、ハッピーエンドへの誘導を小説『Fate/Zero』で模索していた。そこでは「奇跡による世界の救済」と「愉悦による意識の転回」との対立が、衛宮切嗣言峰綺礼の衝突に託されていただろう。結果として選ばれたのは言峰綺礼の態度であり、それにより「世界が予め不幸なのではなく、私たちこそが自他の不幸を欲望し快楽していた」という全く新しい問題提起も導かれたはずである。

 

TV版と鹿目まどか ――奇跡による世界の救済

 しかし、そうしたバッドエンド症候群からの「転回」に対して、TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』はむしろ反省的な主題に貫かれている。それは小説『Fate/Zero』において見出したが却下してしまった第一の解決、すなわち、衛宮切嗣的な「奇跡による世界の救済」にもういちど回帰するものになっているのだ。どういうことか。

 最初にTVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の舞台を概観しておこう。キュゥべえことインキュベーターと呼ばれる地球外生命体は、宇宙の熱的死を避けるべく、熱力学第二法則に縛られない人間の感情エネルギーに目をつけた。彼らとの契約で少女たちは自身の希望を叶えて魔法少女になり、また希望から絶望への相転移により魔女になることで、そのエネルギーを搾取されている。そんななか最強の魔女「ワルプルギスの夜」に友人の魔法少女である鹿目まどかを殺され、彼女を守るべく時間遡行の魔法少女になった暁美ほむらだけが、ただひとりキュゥべえの目論見に気付いてしまった。以降の彼女は、鹿目まどかが魔法少女にならない未来を模索して数多の並行世界を経験している。

 ここでキュゥべえの姿勢に代表されているのは、虚淵玄が「条理」や「宇宙の法則」と呼んでいたものである。「物事というのは、まぁ総じて放っておけば悪い方向に転がっていく。どう転んだところで宇宙が冷めていくことは止められない。“理に適った展開”だけでは、どうあってもエントロピーの支配から逃れられないのである」という言葉のとおり、キュゥべえは熱的死や熱力学第二法則といった理論から魔法少女が殺される必要性を説いている。小説『Fate/Zero』と関連付けるならば、宇宙のために地球の少女を死なせるその態度は、たとえば過去編で残酷に描かれた「多数の為に少数を切り捨てる」正義の在り方にも酷似しているだろう。

 最終的に主人公の鹿目まどかが希望したのは、そのような条理をねじ曲げて宇宙の法則に逆行する途方もない力業である。「過去、現在、未来、全宇宙に存在する全ての魔女を生まれる前に自分の手で消し去る」ために因果を組み替えて神になること。それは自身が概念的存在として人々から忘却されることと引き換えに、あらゆる魔法少女が絶望する直前に安堵の消滅を迎え、その魂が鹿目まどかの「円環の理」へと転送される世界、魔女の代わりに魔獣を倒すことでキュゥべえの目的さえ満たす世界を創造することになるだろう。小説『Fate/Zero』と比較するならば、衛宮切嗣においては否定された無私無欲な救済的奇跡を彼女は起こしたのである。

 ここで確認すべきは、鹿目まどかの奇跡による救済が、暁美ほむらというヒロインの助成によって説明されることだ。そもそも鹿目まどかの因果と魔力は、暁美ほむらがあらゆる並行世界で鹿目まどかを中心に動いたがゆえに、世界を救済するための奇跡が起こせるほど強力になっていた。あたかも全ての魔法少女に救いを与えた鹿目まどか自身と合致するかのように、彼女の御都合主義は、全ての並行世界の相対性と平等性を信じる俯瞰的な立場から了解することが可能だ。そうした希望と絶望をめぐる全体的かつ抽象的な価値判断は、個別的かつ具体的な愛から考える暁美ほむらとは大きく隔たっているのであり、そして作品は愛を退けたのである。

 もう少し、詳しく追っておく。

 自己犠牲と救済的奇跡の重視、という性質は美樹さやか佐倉杏子の和解についても指摘することができる。たしかに初めのうち、他人のために魔法を使う美樹さやかと自分のために魔法を使う佐倉杏子はかなり険悪な雰囲気に包まれている。ところが後半、美樹さやかが幼馴染の上条恭介を救うべく魔法少女になったように、佐倉杏子もまた父親を救うべく魔法少女になっていたことが明らかになるのだ。そして絶望して魔女になった美樹さやか佐倉杏子が心中する場面の美しさは、両者がいずれもウブな無私に支えられた他者の救済に身を置こうとしていること、それを本作が否定しないことを決定的に強調するものである。こうした事態は、たとえば凡庸な無私を志す間桐雁夜と家長のエゴを担う遠坂時臣には決してありえなかった。

 

劇場版と暁美ほむら ――愉悦による意識の転回

 しかし、本当にそれだけでいいのだろうか。もちろん虚淵自身はTV版のラストをハッピーエンドとして描いていたが、監督である新房は、必ずしもその結末には納得していなかったようだ。もともと虚淵は、劇場版『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』でさえ鹿目まどかの救済を肯定する予定だったらしく、話題と売上を重視するプロデューサーの意向によって却下されている。そこで後半の展開に思い悩んでいたところ、新房の「鹿目まどか暁美ほむらの対決」という言葉によって着想を得て、全く新しいラストを描くに至っているのである。それは小説『Fate/Zero』で見出した第二の解決、すなわち言峰綺礼的な「愉悦による意識の転回」と改めて向き合うものになった。

 そう、TV版の結末だけでいいわけはない。まだ足りないのだ。

 まずは劇場版『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』の、いささか複雑すぎる展開を整理しておこう。結局のところ、暁美ほむら鹿目まどかが失われた世界において絶望し魔女と化してしまった。それゆえ結界を創って自他の記憶を改竄し、魔法少女たちを巻き込んだ夢の世界へ逃避するとともに、現実では鹿目まどかこと「円環の理」との接触を眠りながら待つ身に堕ちたのである。そこには「円環の理」を観測して支配するべく、暁美ほむらの穢れたソウルジェムを遮断フィールドに隔離し、監視下に置こうとするインキュベーターの企みも絡んでいた。鹿目まどか暁美ほむらを助けるために、仲間である美樹さやか百江なぎさに記憶を託して夢の世界へと侵入していた。

 ここでキュゥべえ鹿目まどかにの対峙に代表されているのは、TV版に引き続き「条理」と「奇跡」の二項対立である。条理をねじ曲げて宇宙の法則に逆行する力業に見えた鹿目まどかの希望は、実際にはエントロピーの認識そのものを変えたわけではなく、理に適ったキュゥべえ的展開から逃れることはできなかったのである。

 最終的にヒロインの暁美ほむらが理解したのは、そのような黒を白と言い張る快楽性だったと言ってよい。絶望こそが鹿目まどかと再会する希望であるという倒錯した意識のもとで、人間である鹿目まどかと「円環の理」である鹿目まどかを引き裂いて因果律を汲み直し、神を貶め、蝕み、踏みにじって悪魔になること。それは美樹さやか百江なぎさといった円環の被救済者らが復活し、鹿目まどかだけが普通の人間に戻って生活している世界、あまりの状況に地球から逃れようとしたインキュベーターさえ利用してしまう世界を捏造することになるだろう。小説『Fate/Zero』と同じように、言峰綺礼において肯定されたエゴイスティックな転回的娯楽を彼女は手に入れたのである。

 ここで注目すべきは、暁美ほむらの欲望による転回が、鹿目まどかという主人公への愛によって説明されることだ。もともと暁美ほむらにとっては、最後の並行宇宙で鹿目まどかを守れれば「鹿目まどか」を守ったことになるのであり、それゆえ他の並行宇宙における鹿目まどかについては苦悩する必要がなかったのである。あたかも鹿目まどかひとりへの愛を求めた暁美ほむら自身と合致するかのように、彼女の御都合主義は、ひとつの並行宇宙の絶対性と特権性を信じる没入的な立場から了解することが可能だ。そうした愛をめぐる個別的かつ具体的な価値判断は、全体的かつ抽象的な希望と絶望から考える鹿目まどかとは大きく異なっており、そして作品は愛を選択したのである。

 もう少し、詳しく論じてみる。

 無私無欲な奇跡的救済からエゴイスティックな愉悦的転回へ、という『叛逆の物語』のシフトチェンジは美樹さやかに大きな動揺をもたらしている。たしかに彼女は鹿目まどかの希望を踏みにじった暁美ほむらに憤りを示しており、そこでは無私と奇跡的救済の立場に添っている。ところが彼女は愛すべき上条恭介と再会して涙を流しており、そこではエゴと愉悦的転回の立場を暗に認めてもいるのだ。いみじくも佐倉杏子が批判したように、美樹さやかは上条恭介への欲望も快楽も抑圧して戦っていたはずだ。そんな彼女に対して「円環の理」が与えた救済とは、意地悪に言えば欲望の再抑圧に他ならず、暁美ほむらのような解放ではなかったのである。

 

 虚淵玄インキュベーターを諸悪の根源や原子力に形容した上で、打倒したり和解したりするのではなく折衝することを『ブラスレイター』以来の主題に挙げている。しかし感情を持たないインキュベーターも原子力も、予め不幸がプログラムされた(?)世界の条理と宇宙の法則を体現しているだけであり、ことさら諸悪を為しているわけではない。むしろ諸悪を為して悪魔になりうるのは、自他の不幸さえも愉悦し娯楽しうる私たち、絶望さえも希望しうる人間たちが抱えた精神なのである。したがって折衝しなければならない相手はキュゥべえではなく、むしろ暁美ほむらだと言うべきだろう。まさしく『叛逆の物語』の結末では、秩序を優先する人間的な鹿目まどかと、欲望を優先する悪魔的な暁美ほむらとの敵対が早々と暗示されている。

 劇場版三作目になって、ようやく虚淵玄の優れた内面劇と呼ぶに相応しい舞台が整ったと私は考える者である。もし新編に続いて完結編が発表されるとすれば、虚淵玄は再び「奇跡による世界の救済」と「愉悦による意識の転回」の衝突を描き、さらに洗練された結論を提示してくれるだろう。であれば私は一人の『まどマギ』のファンとして、それを期待しないわけにはいかないのである。

 

追補 ――魔法少女とフェミニズム

 既に多くの論者によって指摘されているのは、本作の設定がアニメ・マンガ的なものの戯画として読みうることである。そのように考えれば、キュゥべえと契約して魔法少女になった者の魂がソウルジェムに宿り、肉体は不死身のゾンビになっているという設定の構造的必然性も見えてくるだろう。アニメ・マンガのキャラクターが本質的には傷つかない仮構の身体を持っているように、彼女たちの肉体もまた記号的なリアリティの表象に過ぎないのである。以上の解釈は、発案者の岩上が魔法少女モノをロボットモノと並べてアニメの特権的なジャンルに置き、本作のコンセプトを「アイドル(=キャラクター化された人間)がシリアスな物語を演じる」イメージで語ったこととも合致する。

 たとえば美樹さやかが上条恭介をめぐって志筑仁美と三角関係に陥った際、魔法少女としての身体を理由に告白できないでいるが、これも人間的である上条恭介とキャラクター的である美樹さやかという落差から了解できる。まさに上条恭介が生身の人間よろしく不可逆の傷を腕に負っていたのに対し、美樹さやかは、痛覚さえも遮断できる虚構的肉体の持ち主になってしまったのだから。それゆえ暁美ほむら鹿目まどかを魔法少女にさせまいと決意するとき、それは、彼女という人間をキャラクター化させない(アイドル化させない)という価値を孕んでいるのである。本稿では示唆に留めておくが、そこにはジェンダー論的ないしフェミニズム的に極めて意義深いものがあると考えてよい。

 

虚淵玄らの言葉は各種インタビューおよび単行本あとがきに準拠した)

 前回 http://sunakago.hateblo.jp/entry/2013/11/04/100040