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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

超現実性のゼロ年代、超虚構性のテン年代 ――藤田直哉『虚構内存在』について

 藤田直哉『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(2013)は、筒井康隆の必要性を証明しながら二つの理論「超虚構理論」「虚構内存在」を描画し、2010年代における新たなる生の次元を開拓している。教育と進歩がもたらした破壊と、メディアが作る「現実」によって現実認識が相対化される現在、敗戦とともに出発した筒井康隆の問題意識は再び注目に値するというのだ。先に結論を言えば、それは現実と虚構を統合するにあたって想定される二つの態度、すなわち「超現実性」と「超虚構性」の微妙だが決定的な差異である。

 

 まず重要なのは、戦後史のなかで筒井康隆が「武器としての笑い」と「楽器としての笑い」を峻別したことである。第二次世界大戦を経験した日本SF第一世代である彼は、40~50年代における廃墟のなかでの「笑い」を、卒業論文「シュール・リアリズム芸術の創作心理学的立場よりの判断」で追究していた。60年代におけるラディカリズムと大衆的熱狂を経た70年代、筒井はその「笑い」を政治性(≒超現実的な武器)としてではなく、単なる面白さ(≒超虚構的な楽器)として試みている。それは饒舌によって政治的問題を回避したあげくレトリックの宿命として陳腐化を迎えることではなく、新しい言語感覚の創造を目指すことにあったと言えよう。80年代におけるポストモダニズムの知的カーニバルのなかでも、90年代における断筆宣言のなかでも、筒井康隆にとって「楽器としての笑い」は人類の宿命的課題だったのである。

 二つの笑いの峻別は、そのままジークムント・フロイトフリードリヒ・フォン・シラーの対比を意味するだろう。筒井康隆は現代SFの特質を虚構と現実という問題意識に見出し、あらゆる美における道徳的合目的性をシラー美学的悟性の名のもとに統合している。想像力を圧迫する自然主義(=現実性)の技法も想像力を解放するSF(=虚構性)の技法も、パラドックスに満ちたシラーの語彙「現象における自由」「美しい仮象」「美的国家」を円環の接点にして内的宇宙に包摂されるというわけだ。現実と虚構の二項対立を超えてあるような位相を想定する彼の理論は、言わば、フロイト的文化・芸術論由来のシュール・リアリズム論(=超現実性)からシラー的美学から来るSF論(=超虚構性)への移行のうちに現れたのである。

 こうした「超虚構性」の位相においてこそ、虚構内存在の存在論は説明されることになる。筒井康隆は「存在(=現実性)を記号(=虚構性)にする」のではなく「記号(=虚構性)を存在(=現実性)にする」ことを目論み、明らかに「世界内存在」を意識した概念「虚構内存在」を立ち上げ、さらに虚構内存在との感情移入による共同存在を説こうとしている。虚構内存在は世界内存在とは異なり、日常性の前衛性を……ただし「超現実的な日常性」ではなく「超虚構的な日常性」を肯定しようとするものである。いささか乱暴に要約してしまえば、それは「超現実性」においては「存在(=現実性)を記号(=虚構性)にする」ことが目論まれてしまうこと、言い換えれば、そこには倫理の介在する余地がありえないことを危惧していたのかもしれない。

 以上のような区別は、おそらく内的宇宙の神話における「集合的無意識」と「文化的無意識」の違いと結びつくものと考えてよい。筒井康隆はカール・グスタフ・ユングを摂取し、夢のうちに多元宇宙と役割演技を読み込むと、意味を更新し生起させる「準拠枠」を集合的無意識(→超現実性)ではなく文化的無意識(→超虚構性)に求めた。個人的無意識と集合的無意識の「あいだ」にある文化的無意識こそが、政治的反抗さえ管理する絶望的な権力の場であり、ルートヴィヒ・ビンスワンガー的現存在分析の対象となる言語生成の場なのである。メタフィクション的虚構意識が大衆化し、虚構内存在がネット内存在として一般化している現在、藤田直哉は上記の区別にこそ虚構内存在の倫理を打ち立てようとしている。いわゆるゼロ年代思想において唱えられた「ゴースト」「集合的無意識」と、筒井康隆の唱える「虚構内存在」「文化的無意識」の微妙だが決定的な差異に彼は拘るのだ。それはさらに、生の意味と意義をめぐる小松左京筒井康隆の微妙だが決定的な差異、つまり滅亡観の差異や「人工実存」と「虚構内存在」の差異でもあるだろう。

 

 もちろん、私は藤田直哉(が解釈した筒井康隆)の立場に全面的に賛成できるわけではない。たとえば「笑い」は「機械化した良識」に抵抗するものとされているが、個人的には「笑い」より「機械化した良識」を擁護すべき場合もあるだろうと思う。そもそも、本当に「武器としての笑い」と「楽器としての笑い」は峻別できるか、超虚構性と超現実性を内的宇宙に包摂するような円環の接点もあるのではないか。だとすれば集合的無意識に基づくゴースト論と文化的無意識に基づく虚構内存在論は……ゼロ年代思想と藤田直哉の思想は、どこかで「合意」に至ってしまうのではないか。そのような疑問がないわけではない。むしろ私自身は「機械化していない良識」が果たして可能なのか、そしてそれがもし可能ならどのような様態においてかを問うていく必要を感じる。

 しかし逆説的だが、そのような「合意」の可能性(和解の可能性、ではない)こそが藤田直哉の特質であり魅力ではないだろうか。帯文の惹句「10年代本格批評の誕生!」が与える印象とは裏腹に、どちらかといえば本書はゼロ年代思想のうちに留まりながら攪乱と内破を試みる、そのような文芸批評である。3・11という記号に抗いながら福島第一原発観光地化計画に疑問を投げかける序文は、まさしくゼロ年代やロスジェネという未解決の思想的問題に立ち止まろうとするものだ。文化的無意識が個人的無意識と集合的無意識の「あいだ」にあるごとく、彼もまた「あいだ」で思考する批評家なのである。