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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

黒瀬陽平『情報社会の情念』について

 黒瀬陽平『情報社会の情念 ――クリエイティブの条件を問う』(2013)は、私にとっては今ひとつピンと来ない美術批評だ。タイトル通り、情報社会におけるクリエイティブの条件を「情念」などの概念から説明する本書は、しかし著者が警戒する「情報社会の球体」に回収されてしまっているのではないか。

 

 本書では「運営の思想」と「制作の思想」が対比され、両者はそれぞれ「必然」と「偶然」に対応している。しかし、このような対比は適切なのだろうか。たしかにビッグデータの時代とも言われる現代においては、データマイニングを駆使したパーソナライゼーションやプラットフォームの運営・設計が、閉塞空間の演出や良質な作品の産出などを左右している。とはいえ、そのことは直ちに個人の創造性を脅かすものではないだろう。たとえばソーシャルゲームにおいてもニコニコ動画ボーカロイド文化においても、現実には作者の作家性が存在していることは明らかである。全てが必然的に計算され、作品が自動生成されるかのようなこのユートピア的かつディストピア的な状態を、著者である黒瀬陽平は「情報社会の球体」と名指して否定的に捉えている。だが実際に作品が自動生成されているわけではない以上、私たちはこの球体なるものをディストピアとして否定するには慎重であらねばならない。

 他方で黒瀬陽平は、クリエイティブに「制作」されたコンテンツがもたらす偶然的な遭遇、すなわち愛すべき他者・外部とのコミュニケーションを肯定的に捉えている。にもかかわらず、偶然や他者・外部といった概念についての説明はほんのわずかである。そもそも偶然性は必然性と隔てられて存在するのか、あるいは他者・外部は自己・内部と隔てられて成立するのか。そうした疑問が、たとえばTVアニメ『らき☆すた』や特撮番組『仮面ライダーディケイド』の解釈によって払拭されることはない。むしろそれらの作品が現実に行なっているのは、コンテンツによるプラットフォームの「相対化」ではなく「再強化」ではないだろうか。本書を貫く主題は「ビッグデータの時代に、なぜぼくたちはものを作るのか」「クリエイターは不要なのか?」といった問いになっているが、その根拠と必要性(=nécessité)が説得的に示されれば、却ってクリエイターの存在は因果と必然性(=nécessité)に回収されてしまうだろう。

 運営の思想(=必然性)と制作の思想(=偶然性)の区別が不充分であるために、黒瀬陽平『情報社会の情念』の議論はいささか混乱したものになっていると私は考える。それは端的に、寺山修司岡本太郎論に現れている。

 本書では、制作の思想に関わるものが「負の拡張現実」「キャラクターの呼び声」と名指されている。拡張現実には仮想現実とは異なる両義性、言わば「正=生のポジティブな力」と「負=死のネガティブな力」の両方が備わっており、後者は歴史的な勝者ではなく敗者(=満たされない霊)の情念を掬い上げることに役立つ。現実と虚構を遭遇させ、プラットフォームの創発性をコンテンツの創造性に転位すること、運営の思想を制作の思想に交差させることがクリエイティブの第一条件になるというのだ。そこで本当は見たくないもの、ヴァールブルグ的な情念定型(=イメージのダイモン)としてのキャラクターの呼び声(=マンガのおばけ、キャラクターのおばけ)を掬い上げることがクリエイティブの第二条件になるらしい。著者である黒瀬陽平は第一条件を寺山修司論(『人力飛行機ソロモン』『ノック』)として、第二条件を岡本太郎論(『太陽の塔』『明日の神話』)および冨樫義博論(『ハンター×ハンター』)としてまとめている。

 しかし、第一条件(負の拡張現実)と第二条件(キャラクターの呼び声)の関係は曖昧なものに留まっている。寺山修司が「負の拡張現実」によって掬い上げた「情念」と、岡本太郎が「負の拡張現実」によって掬い上げた「情念定型」はやはり別物ではないか。拡張現実に歴史的な敗者の情念を掬い上げる力があるとしても、その情念が、絶えずヴァールブルグ的な情念定型として掬い上げられるとは限らないように思われる。黒瀬陽平は現実と虚構、運営の思想と制作の思想、プラットフォームの創発性とコンテンツの創造性を次々と対比させていくが、なぜか寺山修司論は岡本太郎論の側へ回収されている。それは彼らの論争に現れている差異が、先述のような対比では捉えられないものだったからではないだろうか。少なくとも私自身は、そこで言われている寺山の言葉(「本質よりも行為が先立つべきだ」「前衛の体系化を急ぐべきではない」)や岡本太郎への疑義が、椹木野衣が言うところの「悪い場所」に居直るようなものなどではないと思うのである。

 では、寺山修司(情念)と岡本太郎(情念定型)を隔てる適切な対比とはなにか。ここから先は、読者である私自身の課題である。

 

補足

 黒瀬陽平は、2011年3月11日に起きた東日本大震災を序文でも本文でも特別視しており、たとえば冨樫義博論において震災以後というコンセプトを強く打ち出して記述している。とはいえ『らき☆すた』や『仮面ライダーディケイド』が肯定的に扱われる本書の枠組は、基本的に、震災以前や震災以後といった区分には影響を受けないものではないだろうか。ましてや寺山修司岡本太郎などが召喚されるならば、その問題意識は「ビッグデータの時代」という狭いものではありえないはずだろう。そもそも黒瀬の『ハンター×ハンター』論は、震災以前から伏線を張られていた物語を震災以後の表現とする強引なものが含まれるが、そのような強引さが可能なのは初めから彼の美学が震災に影響されていないからである。私自身は、黒瀬陽平が「おわりに――両義性の女神」で記したような経験がどのようなものか知らない、だが、それが本来なら震災とは別の言葉で語られるべき経験だったことくらいは分かる。

 彼がそれを正しい言葉で語れるようになるのを、その著作を私は待つことにしたい。