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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

加害としての被害、悪意としての善意 ――山城むつみ『連続する問題』を読んだ

 ……被害の事実を誇張することで自身の加害の事実を「なかった」ことにする姑息な被害者意識、加害者としての自己を他者に投影した上で他者を攻撃する臆病な雄々しさに身を委ねてはならない。確固たる加害者を自己に発見する勇気を、まずは、自己のうちに育てよ(山城むつみ『連続する問題』)。

 

 山城むつみ『連続する問題』(2013)は、中野重治小林秀雄ヒョードルドストエフスキーなどに依拠しながら、過去の歴史から現在の我々に至る「連続する問題」を問おうとしている。それは「近代日本の視野における朝鮮の位置づけをめぐって構造的に生じる奇妙な盲目性」の問題、すなわち、日本が韓国・北朝鮮を対等な他者として扱ってこなかったという問題である。そして、このことは過去の歴史から現在の我々に至る「連続する問題」であるのみならず、保守的言説から革新的言説に至る「連続する問題」なのである。どういうことか?

 山城は「謝罪」をめぐって、日本の植民地問題と北朝鮮拉致問題に言及している。北朝鮮は植民地問題に関しては被害者だが拉致問題に関しては加害者であり、日本は拉致問題に関しては被害者だが植民地問題に関しては加害者である。そして北朝鮮拉致問題について実質上の「謝罪」など行っていないように、日本もまた植民地問題について実質上の「謝罪」など行なっていない。なぜなら、北朝鮮が拉致実行当時から現在に至るまで本質的に何も変わっていないように、日本は植民地支配当時から現在に至るまで本質的に何も変わっていないからだ。これは日本国憲法象徴天皇制を批判しようが、戦前・戦後の保守主義者を批判しようが解決することではない。というのも日本の革新主義者が象徴天皇制保守主義者を批判しようとするとき、彼ら自身は戦前・戦後において本質的に何も変わっていないからである。

 保守においても革新においても全く変わっていない本質とは、自分を「善=被害者」に置きつつ相手を「悪=加害者」に置くような態度である。ある種の保守主義者は戦前の日本について「善を為そうとしていた」と主張し、ある種の革新主義者は戦前の日本について「悪を為そうとしていた」と主張している。いずれにせよ、自分たちは善人であり被害者であると言っているだけだ。当初の北朝鮮が善を為そうとしていたかもしれないように、当初のソビエト連邦が善を為そうとしていたかもしれないように、戦前の日本もまた善を為そうとしていたのかもしれないではないか。そしてそのように善を為そうとしていたはずの日本人が、大震災の折に朝鮮人を虐殺したのかもしれないではないか。善を為そうとしているうちに悪を為してしまう人間の問題、被害者として振る舞っているうちに加害者になってしまう人間の問題、それを山城は問うのである。(注)

 あるものを「善=被害者」に置きつつ別のものを「悪=加害者」に置くような構造において、おおよそ我々は、全く異なる善悪や被害加害の価値判断を持った「他者」の存在を忘れてしまっている。たとえば子供が「他者」であることを忘れたとき、母親は「子供のために=善を為そうとして」子供を殺害することができるだろう。あるいは後進国が「他者」であることを忘れたとき、先進国は「後進国のために=善を為そうとして」後進国を爆撃することができるだろう。あるいは女が「他者」であることを忘れたとき、男は「女のために=善を為そうとして」女を殴打することができるだろう。そして以上のごとき全ての事象に関して、私たちは逆のことも言いうるのである。ここで必要なのは、比喩的に言えば、一方的なサプリメント投与によって相手を変えるような医学ではなく、相互的なカウンセリングによって自他を変えるような医学なのだ。

 数少ない例外を除けば、右派だろうと左派だろうと反動だろうと革新だろうと保守だろうとリベラルだろうと、大した差異はないと言ってよい。彼らは……いや我々は、要するに「我々は善人であり被害者だ、彼らは悪人であり加害者だ」と言ってきただけ、本質的な謝罪も変化もせずに戦前から今日までを生き延びてきただけ、そうして「他者」を「他者」と認めずに内ゲバを繰り返してきただけなのだ。具体的には、韓国のことも北朝鮮のことも対等な隣国として認めずに内ゲバを繰り返してきただけなのだ。山城むつみ『連続する問題』は政治に対して重い言葉を投げかけている。そしてそれは、あくまで文学の言葉なのである。

 

(注)もうひとつ、全く変わっていない本質がある。それは憲法の本質である。ある種の保守主義者は日本国憲法に対して「再軍備」「天皇制」の復古を主張し、ある種の革新主義者は日本国憲法に対して全く逆のことを主張している。いずれにせよ、戦後憲法は戦前憲法とは違ったものだと言っているだけだ。しかし、戦後の日本は軍隊を持っているし天皇制を持っているのではなかったか、あまつさえ戦後憲法には昭和天皇による公布の詔があるのではなかったか。何も変わってなどいないのではないか。真っ当な保守は、そもそも軍隊を持ち天皇を利用するような「新しい」状況そのものに抗えばいいし、真っ当な革新もまた、そもそも軍隊を持ち天皇を利用するような「古い」状況そのものに抗えばいいのだ。大日本帝国憲法から日本国憲法に変えられたにせよ変えたにせよ、我々は本質的には何も変わっていないし謝罪もしていない。

 

(なお「朝鮮人」という表記は山城氏に従った)