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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

マルティン・ハイデガー『存在と時間』についてのノートその1

不正確なノートその1

 マルティン・ハイデガー存在と時間』は「存在者」と「存在」を区別した。存在者が経験的な領野において人や物として個別的かつ具体的に存在しているのに対し、存在は超越論的な観念の領野において人や物を統合的かつ抽象的に規定しているわけだ。ここで注目すべきは、ハイデガーの哲学が、存在者の領野と存在の領野を接続し循環させる存在者として「現存在=人間存在」を定位したことである。現存在は経験的な領野において個別的かつ具体的な存在者として存在しながら、存在の呼び声を聴き、超越論的な領野において統合的かつ抽象的な存在について思考しているのである。世界=内=存在とは、現存在が世界の内部において経験的に所属しつつ、同時に世界そのものを超越論的に構成していることを意味している。

 

不明瞭なノートその2

 マルティン・ハイデガー存在と時間』は「存在」の意味に関する問題、すなわち私たち人間はどのような意味で「存在」という言葉を使っているのか、という問題を提示している。存在の問題が近代において反復されなければならないのは、それが適切な形で解かれたことも適切な形で問われたこともないからである。ハイデガーによれば、超越論的かつ観念的な存在の問題(哲学)は、経験的かつ物質的な存在者の問題(科学)と区別されなければならない。そして、あらゆる問題のなかでも存在の問題は存在者の問題に先行して解かれなければならず、存在の問題のなかでも存在は存在者に先行して問われなければならないのである。ところで存在の意味を解釈するためには、最初の作業として私たち人間がどのように存在しているのか分析しなければならず、最後の作業として存在の問題の歴史を解体しなければならない。前者が第一部「現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」に、後者が第二部「時節性の問題組織を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体する」に該当するだろう。本書は現象学的方法、すなわち私たち人間が存在との間に有している関係から遡行して、全ての存在者が存在との間に有している関係を明らかにする方法を採用するわけである。

 ハイデガーは「存在」の意味に関する問題の準備として、現存在、すなわち私たち人間に対して基礎的な分析を加えている。その主題は繰り返せば、私たち人間がどのように存在しているのかという分析である。人間を超越論的かつ経験的な現存在として分析する存在論は、人間を単なる経験的な存在者として分析する人間学や心理学や生物学とは少しく異なる。私たち自身がどのように存在しているのか分析するということは、あらゆる文明的先入観を退けた裸の私たち自身を解釈するということであり、あらゆる文明的先入観を退けた裸の世界概念を獲得するということなのである。ここで確認すべきは、現存在の根本的構成が「世界=内=存在」であるということ、すなわち私たち人間が人間であるためには世界の内部に存在していなければならないということである。世界=内=存在について素描するためには、私たち人間がどのような形で世界の「内部に存在している」のか示す必要があるだろう。また私たち人間がどのような形で世界の「内部に存在している」のかを示すためには、まず私たち人間がどのような形で「世界」を認識しているのかを示す必要があるだろう。

 私たち人間がどのような形で「世界」を認識しているのかを示すためには、私たち人間にとって環境や実体や空間がどのようなものか示さなければならないだろう。はじめに世界から派生するものは環境(身の廻り)である。私たちの環境おいて出会う他の存在者たちは、私たちの環境に適合されることを通じて世界の内部に存在していると言うことができる。往々にして他の存在者たちは標識や記号であり、私たちの趣向な意義に合ったものとして存在しているのである。こうした環境から発生するものが実体である。世界は私たちの実体によって規定されたものであると同時に、私たちの存在の問題を基礎的に規定するものだと考えられる。それは他の哲学にとって世界が主観的あるいは客観的に存在しているのに対し、ハイデガーの哲学にとって世界が主観的かつ客観的に存在している、ということである。そうして実体から派生するものが空間である。世界の内部において道具としてある他の存在者たちが私たちの空間を構成し、世界=内=存在が空間を統整することにより現存在もまた空間を構成していくのである。