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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

インターネットに善はあるか? ――TVアニメ『ガッチャマンクラウズ』について

 TVアニメ『ガッチャマン クラウズ』(2013)は、言わずと知れた『科学忍者隊ガッチャマン』の長編TVシリーズ最新作である。しかし、本作は『科学忍者隊ガッチャマン』『科学忍者隊ガッチャマンⅡ』『科学忍者隊ガッチャマンF』の三部作(1972~1980)とは世界観も物語観も大きく異なり、主人公の属性も男子青年から女子高生に変えられている。このことは、1870年代から2010年代までに起こった日本社会の変化と無関係ではないだろう。事実、監督の中村健治は製作にあたって次のような問題設定を掲げていた。

「世界は今、2つの新たな局面に差し掛かっています。1つ目は、有史以来初めて、僕らの心がネットにより可視化された事。可視化された心が起こす様々な問題や騒動をどう捉えていいか解らず、個人も社会もただただ戸惑っています。2つ目は、拡大した僕らの世界はあらゆる分野が細かく専門化され、1人の人間ではその全容を理解する事が不可能になっている事。それでも僕らは、1人の優秀なリーダーが全てを抱えてくれると盲信しています。この2つの事象は偶然なのでしょうか? 可視化された僕らの心は、何か良い事にも使えるのではないでしょうか? その事を考え、『GATCHAMAN CROWDS』という作品を描きたいと思います」

 こうした課題意識が、本作の世界観や物語観に多大な影響を与えていることは疑い得ない。たとえば、本作のヒロインである爾乃美家累は「世界の時計をアップロードする」ためにSNS「GALAX」と人工知能「総裁X」を開発している。それらは、細かく専門化された諸分野に対して可視化された我々の心をマッチングさせるサービス、ただ1人のリーダーがその全容を把握すること抜きで社会を運営する機能になるだろう。その思想は、開発者である累が「1人のリーダー(LORD)は要らない」という考えから「LOAD GALAX」と名乗っていることにも現れている。累は、単に総裁Xから「情報を読み出す者=LOADする者」に過ぎないというわけだ。

 もちろん、爾乃美家累の思想はいくつかの問題を孕んでいると言えよう。たとえば、累は特殊能力「CROWDS」を選良集団「HUNDRED」のみに与えることにより、明らかにHUNDREDの全容を把握するリーダーになってしまうのである。累が「1人のリーダーは(LORD)は要らない」と考えている以上、このような立場は意識的にせよ無意識的にせよ自己矛盾以外のなにものでもないはずだ。それゆえ物語後半のトラブルは、HUNDREDを巡る累の曖昧な態度から発生している。とはいえこの矛盾は、最終回の累が全てのGALAXユーザーにCROWDSを与えてしまうことで解決する、その程度の問題でしかないだろう。

 より根本的な問題は、ネットによって可視化された我々の心が何か悪い事にも使えてしまうということである。このことを象徴するベルク・カッツェは、累にCROWDSを与えつつ挑発を繰り返し、途中から累に成りすますと「総裁X」を奪い取って人間社会に混乱と暴動を与えていた。カッツェの「生命を挑発し混乱させ、相争わせる事に特化した能力」は、我々の心が持つ醜い側面を代表しているかのようだ。物語後半のトラブルは累の曖昧な態度から発生したが、それを作品終盤に至るまで増大させていたのは他ならぬカッツェの悪意だろう。そしてこの両義性は、エピローグにおいても解決することのない深刻な問題なのである。

 では、どうすればいいか。ここで重要なのは、我々の心から醜い側面だけを除去することなど決してできない以上、ネットによる心の悪用だけを規制することもまた決してできはしないということである。おそらく、ネット規制は善の側面も悪の側面も封じ込めるような帰結しかもたらさない。だからこそ、TVアニメ『ガッチャマン クラウズ』の主人公でありガッチャマンの一ノ瀬はじめは、ベルク・カッツェを殺害してしまうのではなく共存していくことを選び取ったのである。ある意味で本作は、我々の善の象徴である一ノ瀬はじめと悪の象徴であるベルク・カッツェの折衝を描いた、そのような作品であるように思われる。

 

 ところで、ここで次のような疑問が浮かぶ向きもあるかもしれない。ただ1人の優秀なリーダーというものが不要になってしまった世界では、もはや「ガッチャマン」のようなヒーローさえ不要になってしまうのか。

 むろん、答えはNOである。ネットにより可視化された我々の心は、経験的な権力問題に介入して「1人のリーダー」を下支えすることは可能だろうが、観念的な権威課題に介入して「1人のヒーロー」を下支えすることは難しいだろう。実際、作中における我々の心は一ノ瀬はじめとベルク・カッツェの善悪二元論には介入できなかったのである。ここで我々は、TVアニメ『ガッチャマン クラウズ』が日本の政治家を描きながらも、日本の象徴者については全く言及しなかったことを思い起こしてよい。以上を鑑みれば、本作におけるガッチャマンを日本的象徴者の隠喩として読み込むことも容易に思われる。そして日本的象徴者とは、要するに天皇と呼ばれる者たちのことである。