鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

梯子としての哲学 ――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について

 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』は「語りうるものについては明晰に語りうるし、語りえぬものについては沈黙しなければならない」と述べている。これは思考可能なものと思考不可能なもの、というより表現可能な思考と表現不可能な思考の間に境界線を引いた上で、前者については明晰に語ると同時に後者については沈黙する営みである。そこで確認すべきは、言語を世界の像として捉えるウィトゲンシュタインの思考である。

 

 ウィトゲンシュタインにとっての世界とは事実の総体であり、事実とは成立している事態のことである。これは、事態には成立しているものもあれば成立していないものもあるということだ。たとえば「彼女は駅前の喫茶店にいた」という事態は、成立している(=実際に駅前の喫茶店にいた)こともあれば成立していない(=実際は駅前の喫茶店にいなかった)こともある。このうち成立している事態、すなわち事実の総体が世界と呼ばれることになるだろう。

 一方でウィトゲンシュタインにとっての思考とは事実の論理的図像であり、かつ有意義な命題のことである。そして、有意義な命題とは真と偽のどちらにもなりうるような命題である。たとえば「彼女は駅前の喫茶店にいた」という命題は真になる(=実際に駅前の喫茶店にいた)こともあれば偽になる(=実際は駅前の喫茶店にいなかった)こともある。こうした真と偽のどちらにもなりうる命題、すなわち有意義な命題は事実の論理的図像と名指されるだろう。ここで重要なのは、有意義な命題は事実と何らかの関係を持っているということなのだ。

 かように思考と事実を関係させているもの、それが「論理」である。

 ひるがえって無意義な命題とは真か偽のどちらかにしかなりえない命題、あるいは真と偽のどちらにもなりえない命題である。たとえば「彼女は駅前の喫茶店にいたか、またはいなかった」「彼女は駅前の喫茶店にいたし、いなかった」といった命題は真と偽のどちらかにしかなりえない。そして「彼女は駅前の喫茶店にいるべきではなかった」「駅前の喫茶店にいる彼女は美しかった」といった命題は真と偽のどちらにもなりえない。こうした真か偽のどちらかにしかなりえない命題、あるいは真と偽のどちらにもなりえない命題、すなわち無意義な命題は事実の論理的図像とは名指されないだろう。ここで指摘すべきは、無意義な命題は事実とは何の関係も持っていないということなのだ。

 ウィトゲンシュタインにとって「明晰に語りうるもの」とは有意義な命題のことであり、他方で「沈黙しなければならないもの」とは無意義な命題のことである。これは、彼にとっての表現可能な思考が事実と何らかの関係を持ったものであり、表現不可能な思考が事実とは何の関係も持っていないものであるということだ。おおよそ前者は科学と呼ばれるものになり、後者は哲学と名指されるものになるだろう。たとえば倫理に関する命題(~すべきである)や美学に関する命題(~は美しい)は、それが語られるや否や直ちに無意義となるほかないようなものである。

 このことは、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』自体もまた例外ではない。たとえば「たとえば『彼女は駅前の喫茶店にいた』という事態は、成立している(=実際に駅前の喫茶店にいた)こともあれば成立していない(=実際は駅前の喫茶店にいなかった)こともある」という命題は事実とは何の関係も持っておらず、それが語られるや否や直ちに無意義となるほかないようなものである。したがって彼の哲学をひととおり理解する者は、あたかも昇りきった梯子を放り捨てるように彼の哲学を放り捨てるだろう。そして梯子はこれきり必要ない。ウィトゲンシュタインが本書によって全哲学を解決したと考えたのは、以上のような事情によるものである。