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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

批評とは何か? ――エドワード・サイード『知識人とは何か』『人文学と批評の使命』について

 エドワード・W・サイードは『知識人とは何か』(1994)と『人文学と批評の使命――デモクラシーのために』(2004)のなかで次のように問うている。知識人、あるいは人文学者や批評家とはどのような存在であり、彼らは民主主義においてどのような使命を背負っているのか。すなわち、知識人はどのような領域を代表(代理=表象)しなければならないのか、人文学者や批評家が代表(代理=表象)しうる圏域はどこからどこまでなのか。

 サイードにとって、知識人は国家と伝統から離脱した存在でなければならない。すなわち知識人は、なんらかの国家や伝統を特権化してはならないということだ。彼らは故郷としての国家を喪失した者になり、伝統に対して周辺的な存在になる。要するに彼らは、特定の立場を持たないという立場を保持することになるだろう。サイードは、こうした知識人の行為を知的亡命と呼んでいる。柄谷行人ならば、それをトランスクリティークと名指すかもしれない。

 それゆえ知識人は、専門家であるよりもむしろアマチュアである必要がある。つまるところ、知識人はひとつの専門知に閉じ込もってはならないということだ。往々にして専門家は、その固定的な在り方によって国家や伝統に依存してしまう。国家や伝統の権力に絡め取られれば、そこで真実を語ることは難しくなるだろう。アマチュアとしての知識人は、その流動的な在り方によって国家や伝統を離脱する。国家や伝統の権力を振り払えば、そこで真実を語ることは容易になるだろう。

 しかしアマチュアとしての知識人は、国家や伝統や専門家に対して「超越的」であるわけではない。むしろ彼らは超越性を拒絶することによって、諸国家や諸伝統そして諸専門知を「横断的」に移動することができるのである。そしてそれは、常に失敗してきた超越性への試みを退ける数少ない方法なのだ。

 

 サイードにとって、人文研究と実践の基盤は絶えず変化し続けている。国家や伝統の経済的・政治的状況が絶えず変化し続けているからだ。ここでサイードが提唱するのは、人文研究が文献学に回帰することになるだろう。まさに文献学とは、国家や伝統の変化そのものを相対化するような方法である。たとえばエーリッヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』はその好例と言えよう。そしてそのような方法が、作家と知識人に彼らの公的役割を示唆しうるのである。

 その公的役割とは、デモクラシーすなわち民主主義に対する貢献である。ここで言う民主主義とは、なんらかの特権化された立場を意味するのではない。むしろ私たちは、あらゆる立場を特権化・超越化しない態度を民主主義と呼ぶ。この実現不可能に見える夢こそ、我々に知的亡命を促す「超越論的動機」である。