鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

ヘイトスピーチ、ポルノグラフィ、カミングアウト ――ジュディス・バトラー『触発する言葉』について

 ジュディス・バトラーは『触発する言葉』のなかで、言葉が人を傷つけることについて考察している。ここで具体例として挙げられるのは、ヘイトスピーチとポルノグラフィとカミングアウトの問題である。まず、ヘイトスピーチを取り巻く米国の議論から見ていこう。
 たとえば中傷発言や炎上行為といったヘイトスピーチを擁護する人間は……ヘイトスピーチは単なる言葉に他ならず、それは実際の「傷つける」行為とは区別されると主張している。他方で中傷発言や炎上行為といったヘイトスピーチを批判する人間は……ヘイトスピーチは単なる言葉ではありえず、それは実際の「傷つける」行為とは区別されないと主張しているのだ。もし後者の立場が正しければ、たとえ「表現の自由」が近代国民国家の枠組によって保証されているとしても、私たちはヘイトスピーチを法的に規制すべきだと考えることができる。
 おそらく良識的な「リベラル左派」と呼ばれる人間なら、こうした意見はそこまで呑み込みにくいものではないだろう。では、ポルノグラフィを取り巻く次のような議論はどうだろうか?
 たとえばポルノグラフィを擁護する人間は……ポルノグラフィは単なる表現に他ならず、それは実際の「犯す」「辱める」行為とは区別されると主張している。他方でポルノグラフィを批判する人間は……ポルノグラフィは単なる表現ではありえず、それは実際の「犯す」「辱める」行為とは区別されないと主張するのだ。もし後者の立場が正しければ、たとえ「表現の自由」が近代国民国家の枠組によって保証されているとしても、私たちはポルノグラフィを法的に規制すべきだと考えることができる。そう、この議論はヘイトスピーチのそれと全く同じ形式のものなのである。
 おそらく良識的な「リベラル左派」と呼ばれる人間なら、前半のヘイトスピーチの規制について同意することはできても、後半のポルノグラフィの規制に同意することは難しいかもしれない。あるいは貴方はラディカル・フェミニストとして、ヘイトスピーチの規制とポルノグラフィの規制に両方とも同意し、曖昧な「リベラル左派」の潜在的な性差別主義を非難するかもしれない。しかしそれなら、カミングアウトを取り巻く次のような議論はどうだろう?
 これは2011年までの有名な話だが、米軍の内部では同性愛のカミングアウト(同性愛の自己宣告)が禁じられていた。同性愛のカミングアウトを擁護する多くの人間は……同性愛のカミングアウトは単なる表現に他ならず、それは実際の同性愛行為とは区別されると主張していた。他方で同性愛のカミングアウトを批判する米軍の人間は……同性愛のカミングアウトは単なる表現ではありえず、それは実際の同性愛行為とは区別されないと主張しているのだ。のみならず、同性愛のカミングアウトは米軍の内部に同性愛を「伝染させる」ものであると。
 どのような「リベラル左派」やラディカル・フェミニストであろうと、このような暴論に同意するわけがないことは明らかである。しかし同時に、以上のヘイトスピーチとポルノグラフィとカミングアウトを取り巻く議論は、明らかに全く同一の形式によって展開されているのだ。要するに擁護派は「それは単なる表現である」と言い、批判派は「それは単なる表現ではない」と言っているのである……表現を巡る議論は規制するしない以前に、そもそも単なる表現か否かを問う必要があるわけだ。いったい、ここで論理的に首尾一貫した立場を持つことはできるのか?
 ジュディス・バトラーの立場は……あらゆる言葉は単なる言葉ではありえず、それが実際の行為と区別されないことを認めるものである。それゆえに、バトラーは表現の規制に関しては「基本的に」慎重である。むしろ言語が行為と区別されないがゆえに、私たちは言語によって人種差別主義者のヘイトスピーチと戦い、性差別主義者のカミングアウト規制と戦うことができるのである。具体的実践によって。もし言語の規制に同意するならば、私たちはあらゆる言語と行為の自由を権力に委託してしまいかねない……それはたぶん望ましい事柄ではないはずだ。

 

初著『ジェンダー・トラブル』について
 ジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル』において、生物的性と文化的性と性的欲望が相互浸透を起こしていることを分析し、そして構造主義精神分析異性愛中心主義を再生産していることを暴露した。これは生来的で固定的な性的アイデンティティを想定する立場に批判を加え、女であることを基盤にしてきたフェミニズムに再考を促すものであった。バトラーのフェミニズムにとって重要なのは、構造主義的・精神分析的な異性愛中心主義を攪乱するための身体行為、すなわちジェンダーの秩序をトラブルに陥れるための具体的実践なのである。

 

(この記事はシリーズ「現代フェミニズムの地平」第6回として書かれました)