鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

象徴交換の死、死の象徴交換 ――ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』について

 ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』(1976)はタイトルが示すとおり、象徴交換の概念と死の概念について説明するものである。象徴交換とは、何らかの商品を現実的な物質として交換することではなく、言わば象徴的な記号として交換することを意味している。そして現代における死は、大量消費社会において交換されうる象徴的な記号のひとつであるとともに、かかる大量消費社会そのものに反乱を起こしうる可能性になりつつあるだろう。結論を先に述べてしまえば、象徴交換の死は「死の象徴交換」においてこそ可能なのである。
 ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』は最初に、従来の通俗的共産主義と通俗的資本主義に共通する生産中心主義の理論を批判している。生産中心主義の理論とは、商品の価値を使用価値と付加価値に区別した上で、付加価値の発生を生産過程から説明しようとする理論のことである。すなわちある商品が高価であるのは、まずその商品自体が大きな有用性を備えているからであり、次にその商品が大きな労働力のもとで生産されているからであると。しかしこの理論においては、大量消費社会におけるブランド品の価格を釈明することができない。あるブランド品が高価であるのは、そのブランド品が大きな有用性を備えているからでもなければ、そのブランド品が大きな労働力のもとで生産されているからでもないのだ。
 ここでジャン・ボードリヤールは、付加価値の発生を生産過程からではなく交換過程から説明するとともに、その交換を現実的物質の交換ではなく象徴的記号(=シミュラークル)の交換として位置付けている。ある商品が高い付加価値を持っているのは、その商品が大きな労働力のもとで生産されていたからではなく、ただ単にその商品がそのような価格で売買されているからであると。しかも私たちがある商品を買うのは、その商品自体が現実的な有用性を備えている物質だからではなく、ただ単にその商品がそのような価格で売買される商品だからなのであると。あるブランド品は単にブランド品であるという理由で高価なのであり、また単に高価であるという理由でブランド品なのである。既にこのことは、マルクスの価値形態論において述べていた。
 要するに本書『象徴交換と死』は、私たちが交換しているものは実は現実的物質ではなく象徴的記号であるということ、そしてその象徴的記号の価値は実際の有用性や生産性とは何の関係もないということを唱えてみせる。商品の価値は、他の商品の価値との差異において取り決められるに過ぎない。あるブランド品は他のブランド品との競争的な関係や協調的な関係のなかで、絶えず変化し続ける様式(=モード)と規則(=コード)に従いながら、自身の価格を高くしてみせたり安くしてみせたりするだけなのである。既にこのことはソシュール記号論において、記号表現(=シニフィアン)が記号内容(=シニフィエ)とは何の関係もなく、他の記号表現との差異において恣意的に規定されるという形で述べられていた。

 物質生産の理論ではなく象徴交換の理論のもとでこそ、私たちは正しい経済思想を構築することができるだろう。かつて生産中心主義の発想に支配された共産主義者たちは、西洋近代的な生産概念のもとで全世界・全時代を把握しようとしたため、その認識と実践を誤ってしまったと言えよう。また生産中心主義に支配された資本主義者たちは、西洋近代的な生産概念のもとで非西洋・前近代を嘲笑してきたために、今まさに世界から手痛いしっぺ返しを食らっている(「同時多発テロを起こしたのは彼らだが望んだのは我々だ」というのはボードリヤールの言葉である……)。実際には交換様式のもとで全世界・全時代を普遍的に把握すること、そしてそこから大量消費社会に抵抗する術を探ることが肝要なのである。
 世界が現在のような近代社会として完成される以前から、象徴的な記号の交換は存在していたと言えよう。すなわち世界が帝国のもとで成立していた時代において、帝国社会が国民住民を支配する代わりに保護するのも象徴交換であり、あるいは世界が氏族社会のもとで乱立していた時代において、氏族の内外において互いに贈与と返礼が繰り返されたのも象徴交換のである。特に重要なのは、あらゆる歴史を通じて行なわれてきたのは「死の象徴交換」ということになるだろう。たとえば呪術や宗教や革命における象徴的記号として、私たちは自分たちの「死」を交換してきたのであり、そしてそのような「死の象徴交換」だけが「象徴交換の死」を……そのときそのときの倫理的な均衡と動揺をもたらす契機だったのである。