鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

鏡像と自己の奇妙な関係 ――ジャック・ラカンの初期論文集『二人であることの病い』について

 ジャック・ラカン『二人であることの病い』は、三つの症例報告と二つの論考から構成されている。ラカンは「症例エメ」と「パラノイア性犯罪の動機 ――パパン姉妹の犯罪」のなかで他者と自己の奇妙な関係について語り、のちにそれを「鏡像段階論」として整理し主張することになった。

 

 有名な「症例エメ」は次のような内容である。女優のZ夫人を襲撃して逮捕された某女性(=エメ)を分析した結果、彼女が「理想の自己像」を母親・同僚・実姉そして女優のZ夫人に投影していたことが分かる。つまり襲撃事件とは、エメにとっては自身の理想像と刺し違えるため行動に他ならなかったのである。

 人は他者に投影した「理想の自己像」という幻想によって、初めて自身の人生を構成することができる。あたかも、美しい鏡に移る自己像を見て初めて自分が確認できるように。だがエメは最初の理想像、すなわち母親に対する同一化(=愛)が完全な失敗に終わっていた。したがって理想の自己像である他者たち……母親・同僚C・実姉・そして女優のZ夫人に対して嫉妬と憎悪を抱いてしまったのである。「あの人のように幸せになりたい」という気持ちは、簡単に「あの人が私よりも幸せなのは不公平だ」「いや、あの人は私の幸せを横取りしている」という被害妄想に変貌してしまうわけだ。そして事実、エメは「Z夫人は私を中傷している」「Z夫人は私の息子を殺そうとしている」という妄執に憑かれていった……。

 このようなエメの状態を救済するには、〈鏡像と自己〉の閉じた関係に対して第三者の視点を導入してやること、すなわち社会から裁かれることが必要だったのだとラカンは述べている。それはたとえるなら、鏡に映る自己像に怯える赤ん坊をあやしながら、赤ん坊の両親が鏡のあちら側とこちら側を区別してやるようなものだろう。裏を返せばエメは、無意識的には、実はむしろ社会から裁かれて救済を手に入れるためにこそZ夫人襲撃事件を起こしたのである。罰せられるためにこそ悪いことをしようという強迫的な状態、それが「自罰パラノイア」という病に他ならない。実際に法的な手続きを追えたあとのエメは、まるで憑き物が落ちたかのように被害妄想を卒業してしまったのである。

 

 本書のタイトル『二人であることの病い』は、以上のような洞察から来ている。人は常に既に鏡像的他者との閉じた関係において生きるているのであり、だからこそ心を病んでしまうのだ……いや正確に言えば、人は「理想の自己像」との双数的関係から抜け出すためにこそ病を生み出さざるを得ないのである。