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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

空間性と時間性 ――マルティン・ハイデガー『存在と時間』とその批判(完成版)

はじめに
 マルティン・ハイデガー存在と時間』はタイトルが示すとおり、存在と時間の関係について語ろうとしたものである。その第一部は「現存在を時間性へ向けて解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」ものである。彼は経験的な「存在者」と超越的な「存在」を区別した上で、経験的地平である空間と超越的地平である時間を区別しようとしていた。そして彼は経験論的かつ超越論的な人間存在(=現存在)を想定し、その空間性と時間性について述べようとしていたのである。

 

目次
1.現存在と空間性
2.現存在と時間
3.ハイデガー批判

 

1.現存在と空間性 ――第一編について
 マルティン・ハイデガー存在と時間』第一部第一編は、現存在の準備的な基礎分析を行なおうとするものである。ここで語られているのは、現存在と経験論的空間性の関係についてである。
 まず第一章は「現存在の準備的分析の課題の提示」を行なおうとするものである。ハイデガーは自身の哲学を、経験論的かつ超越論的な人間存在(=現存在)を想定するところから開始している。また第二章は「現存在の根本的構成としての世界=内=存在一般」を提示しようとするものである。彼は現存在が、ひとつの客体的存在者として世界から構成されていると同時に、ひとりの主体的存在として世界を構成しているという事実に注目しているのだ。
 ハイデガーは第三章で「世界の世界性」を描写するにあたり、A「環境性と世界性一般の分析」B「世界性の分析を、デカルトにおける世界の解釈と比較対照する」C「環境世界の「身の回り」的性格と現存在の空間性」という三つの段落を設定している。現存在は世界性を第一に環境性として構成し・第二に物質性として構成し・第三に空間性として構成するだろう。そして構成が段階を重ねるごとに、世界は近景・中景・遠景へと拡大していくのである。
 次に第四章は「共同存在と自己存在としての世界=内=存在、世間」を説明しようとするものである。現存在は他の人間存在とともに世界を構成しているのであり、決して独りきりで世界を構成しているわけではない……このように構築された世界を、ハイデガーは世間と呼ぶのである。ここで注意すべきは、彼自身は決して世間の日常なるものを肯定しているわけではないということ、経験的地平の空間に居直ることをよしとしているわけではないということである。
 ハイデガーは第五章で「内=存在そのもの」を分析するにあたり、A「現の実存論的構成」B「現の日常的存在と現存在の堕落」という二つの段落を設定している。世間の日常は主体的存在としての現存在たちによって構成されていると同時に、現存在を客体的存在者として構成している。そして世間の日常における現存在は堕落した存在……非本来的で不完全な存在者でしかありえない。彼は明らかに、経験的地平からの脱却を呼びかけるのである。
 そこで第六章は「現存在の存在としての関心」を主張しようとするものである。現存在は世界を構成したり世界から構成されたりするだけではなく、そのような構造を支える超越的地平に関心を持つことができる。言い換えれば、世間の日常を脱却して本来の自己や完全な自己を考えることができるだろう。なぜ・どのようにして人間存在は超越的地平に関心を抱くことができるのか、そしてこの超越的地平に対する関心とは、具体的には何に対する関心なのか。

 

2.時間性 ――第二編について
 マルティン・ハイデガー存在と時間』第一部第二編は、現存在と超越論的時間性の関係について語ろうとするものである。ここで行なわれているのは、現存在の本格的な応用分析である。
 まず第一章は「現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」を提示しようとするものである。また第二章は「本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」を提示しようとするものである。人間存在(=現存在)は、自分がいつか必ず独り「死」に至ることを理解し覚悟できる稀有な存在者である。「死」へ臨むことを覚悟することによって、現存在は世間とも日常とも他の人間たちともと断絶され、完全な自己あるいは本来の自己を考えることが可能になるだろう。
 次に、第三章は「現存在の本来的な全体存在可能と、関心の存在論的意味としての時間性」を描写しようとするものである。ハイデガーは、現存在が完全な自己あるいは本来の自己を考えるためには、自分がいつか必ず独り「死」に至ることを覚悟することが必要だと説いた。言い換えればハイデガーは、現存在が超越的地平に関心を抱いた上で超越的な存在を論じるためには、人生の始点と終点……時間性を構想しなければならないと説いたのである
 ハイデガーは時間性を描写するにあたり、第四章「時間性と日常性」第五章「時間性と歴史性」第六章「時間性と、通俗的時間概念の根源としての内時性」という三つの段落を設定している。第一に、現存在が構想しなければならない時間性は、他の人間との世間から断絶されるために要請されるものである以上、他の人間たちと共有できる客体的・社会的な時間性であってはならない。他の人間たちとは断絶された主体的・個人的な時間性を獲得すべきなのである。
 第二に、現存在が構想しなければならない時間性は、自分がいつか必ず独り「死」に至ることを覚悟するために要請された以上、始点も終点もなく発展もない日常的・平面的な時間性であってはならない。始点と終点があり発展がある歴史的・立体的な時間性を獲得すべきなのである。ここで警戒すべきはこの第三の点、すなわち経験的地平としての世間の日常から離脱したハイデガーが、超越的地平に至る時間性として「民族」「運命」を主張したことである。

 

3.ハイデガー批判
 マルティン・ハイデガー存在と時間』の序論は「存在の意味への問いの提示」を行なおうとするものである。
 彼の哲学は、何かが存在するとはどういうことかを問おうとするものだった。まず第一章は「存在の問いの必然性、構造および優位」を提示しようとするものである。彼は超越的な哲学としての存在問題を、他の全ての経験的諸学問に先立って必要なものだと考えていた。というのも、全ての諸科学が経験的な存在者について探究するものであるのに対し、哲学は存在者を規定する超越的な存在について探究するものだからである。その探究でも、彼は存在者より存在を優先して取り扱うべきだと考えていた。
 あくまで超越的地平を追究しようとしたこと、しかもそれを身近な経験的地平の考察から始めたハイデガーの粘り強さは今なお称賛に値する。
 しかし本書には三つ、単数形をめぐる問題が見受けられる。ひとつ目は超越的な存在を常に単数形で扱ったことであり、ふたつ目は、自己の本来性や全体性を常に単数形で扱ったことである。なぜ全ての存在者が一種類の存在によって規定されなければならないのか、なぜ私の在り方が一種類の本来性や全体性によって規定されなければならないのか、このことについてハイデガーが答えてくれることはあまりに少ない。そしてみっつ目は、超越的地平への入口である現存在の死を常に単数形で扱ったことである。
 そしてそれが『存在と時間』の最終的な躓きの石になっているのである。本書が超越的地平に至る時間性として称揚した「民族」「運命」とは、いったい誰にとっての民族であり運命なのか。のちのハイデガーは、アーリア人至上主義と反ユダヤ主義を掲げるナチスに接近したことで知られる。存在を単数化し・本来性と全体性を単数化し・現存在の死を単数化したとき、彼が説く歴史性・民族性・運命性もまた、排他的な単数性へと染め上げられたのではないだろうか。
 たしかにマルティン・ハイデガー存在と時間』は重要な書物である。だがそれは彼の躓きを乗り越えようと努力する限りにおいてである。