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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

第151回芥川賞受賞作、柴崎友香『春の庭』について

 柴崎友香『春の庭』はその印象に反して難解な小説である。そしてそれは、柴崎が明確な主題のもとで本作を執筆しているにもかかわらず、決してその全容を明らかにしようとはしないからである。
 柴崎友香の多くの小説は「期待の地平」(ヤウス)を裏切ることで成立しており、本作もまた例外ではない。たとえば本作には様々な話題が登場するが、それらのうちいずれかが深く掘り下げられることはなく、また伏線らしい伏線の殆どは放置されたままで終えられることになる。読者に何かしらの期待をさせておいて肩透かしを食らわせる。柴崎がそうした物語を好むのは、もとより現実がそのようなものであり、彼女が現実の魅力の前で謙虚な作家のひとりだからであろう。言わば本作は、作り物の悲劇で悪酔いするような展開を避けているのだ。
 読者の期待を裏切ろうとする『春の庭』の努力は、物語のレベルだけではなく描写のレベルにも及んでいる。たとえば本作の書き出しには「アパートは、上から見ると“「”の形になっている」という一文が登場している。小説とは読者に感情移入をさせるべきものであり、描写とは読者に感情移入をさせるための唯一の武器である……などという狭く古い小説観の持ち主にとっては不可解な一文だが、むしろ本作はこうした微妙な逸脱を繰り返すことによって、私たちが自分自身の小説観を見つめ直すための契機を与えてくれもするだろう。
 かかる本作の工夫は素人の書き手でも可能なように感じられるが、実は相当な力量の作家でなければ不可能なものである。実際に小説を書いてみれば誰でも分かることだが、私たちは常に容易く物語の構造に甘えてしまうし、また簡単に感情移入の構図に甘えてしまうだろう。そして目の肥えた読者の期待も予想も裏切らない、ただ安心させるためだけの通俗小説を安心しながら書き上げてしまうのだ。その作り物の悲劇(あるいは喜劇)では、決して捉えることができない現実の不可思議な魅力……それを捉えられる者もまた優れた作家であるというのに。
 では、ここで柴崎友香は何を把握しようとしているのか。ひとつ目は視点を巡る手法において人物の多面性・混交性を描くことであり、またそれを通じて時間の複雑性・流動性を炙り出すことである。
 柴崎友香『春の庭』は終盤において、主人公である太郎の姉が「わたし=語り手」として唐突に登場する。本作は最初から姉の視点で語られていたと考えるべきだろうか、あるいは最初のうちは三人称・全知の視点で語られており、終盤において姉の視点に割り込まれたと考えるべきだろうか。私自身は、それについてはどうでもよいと考えている。またこのような手法が文学史的に見て新しいものであるのか、あるいは古いものであるのかもどうでもよいことだと思っている。重要なのは、その手法が作品にいかなる効果をもたらしているかである。
 柴崎友香はこれまでにも多く、西方と東方の距離感を作品の題材として採用してきたことで知られる。本作『春の庭』においても、もともと主人公である太郎とその姉は西方出身の人間であり、また西という女性の名は彼女が西から来た人物であることを仄めかしている。このことと先述の手法は深く関わっていると言ってよい。三人称・全知の視点で語られている太郎は東の人であり東の言葉を話すが、姉の視点で語られている太郎は西の人に戻り西の言葉を話すだろう。視点の手法は、東西で分かたれた人物の多面性を際立たせている。
 ひとりの人間は決してひとつの人格だけを持っているのではなく、時と場所と場合に応じて多くの側面を伺わせるものであり、特に方言を話すか標準語を話すかで大きく印象が異なるものである。柴崎友香は明らかにそのことを示している。さらに本作では途中、伝聞のなかで微妙に視点が移行していく手法も採用されている。私たちが言葉を交わすなかで自分の経験と他人の経験を混交させていく感覚、そうして自分の人格と他人の人格を微妙に溶け合わせるような感覚、かかるモーメントを本作はさりげなく描き出そうとしているのだ。
 こうした多面性・混交性は現在の人間関係だけではなく、過去の人間や土地との関係においても存在するものである。事実『春の庭』においては、太郎を始めとする様々な人物が「土に何かを埋める」行為を繰り返し、そのたびに土地と人間の関係は更新されていくことになるだろう。ここでは過去は現在と切り離された固定的なものではなく、足下に堆積している土地の歴史のごときものとして、言わば現在と繋がっている流動的なものとしてあるわけだ。かような形で時間の複雑性・流動性を炙り出すこともまた、柴崎友香の小説が多く行なってきたことである。

 

 柴崎友香の小説における多様な飛躍と逸脱は、その優れた観察眼に支えられていると言ってよい。今回は主人公である太郎を、その名が示すとおり『彼岸過迄』の敬太郎のごとき立場に置いたこと、すなわちある種の「探偵」のごとき視角として設定したことにあるだろう。さる論者の言うように『彼岸過迄』は『吾輩は猫である』と同じく、ひとりの傍観者のもとで複数のエピソードを断片的に組み合わせ、ユーモアある写生に徹底した原点回帰的作品である。柴崎友香が本作において試みているのは、漱石的な「写生」としての作品である。

 

(太郎および西という名の由来については作者のインタビューを参照した)