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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

バールーフ・デ・スピノザ『エチカ』について

 バールーフ・デ・スピノザの『エチカ』は、タイトルが示すとおり倫理について論じた書物である。
 本書は全五部から構成されており、それぞれの部は「神について」「精神の本性および起源について」「感情の起源および本性について」「人間の隷属あるいは感情の力について」「知性の能力あるいは人間の自由について」と題されている。おおよそスピノザは神と精神と感情について独自の定義と定理を与え、この感情の力能と知性の能力をめぐって驚くべき議論を展開した上で、人間が隷属ではなく自由に向かうための倫理を説いたことになるだろう。
 初めに確認しなければならないのは、スピノザの哲学(第1・2部)が「神」を能産的自然として定義していること、そしてこの能産的自然だけを無限の実体として描写していることである。すなわちスピノザにとって神とは世界そのもののことであり、この世界だけが本当に存在するものだということになるだろう――ゆえにこの神(=世界)は他の存在によって限定されることがない。こうした無限の実体は無限に多くの属性を有しており、このうち延長の属性の様態が事物と呼ばれるもの、そして思惟の属性の様態が観念と呼ばれるものである。要するにスピノザにおいて事物と観念とは、神(=世界)の同じ部分が別々の仕方で表現されたものに他ならない――たとえば人間は、延長の属性において表現されれば「身体」という事物になり、思惟の属性において表現されれば「精神」という観念になるわけだ。
 本書が倫理について論じた書物である以上、明らかに神についての論述は倫理的判断の基準をめぐる立場を表明しており、そして精神についての論述は倫理的判断の主体をめぐる態度の決定している。ここでスピノザが述べているのは、この世界の外部に倫理的判断の基準を立ててはならないということであり、この身体の外部に倫理的判断の主体を置いてはならないということだろう。それゆえ『エチカ』の記述は、何らかの神のもとでこの世界を否認したり、何らかの精神のもとでこの身体を軽蔑したりする倫理とは遠く隔たっている。実際に第3・4・5部において、倫理的判断の基準は世界の部分である人間の存在論的本質に求められ、倫理的判断の主体は身体的かつ精神的な感情から探究されていくだろう。
 続いて指摘しなければならないのは、スピノザの哲学(第3・4部)が「感情」を欲望と喜びと悲しみに区別したこと、そしてそれらの基盤に自己保存の衝動(コナトゥス)を設定したことである。スピノザにとって自己保存の衝動とは、身体的かつ精神的な自己利益を追求しようとするものである――欲望はこの衝動を意識することで、喜びや愛情は衝動が達成されることで、そして悲しみや憎悪は衝動が達成されないことでそれぞれ経験されるだろう。ここにスピノザの倫理がある。というのも「理性」は、自己保存の衝動(コナトゥス)に関して能動的な感情を善であると認識し、逆に受動的な感情を悪であると認識するからである。つまるところスピノザにおいて善悪の問題とは、身体的かつ精神的な自己利益を認識し追求しようとするか否かであり、この意味において能動的な喜びや欲望の感情を称揚するものなのだ。
 したがってスピノザ倫理学(第5部)は、人間の「自由」が徳であり至福であり知であると結論するだろう。おおよそスピノザにとって自由とは、受動的な感情を抑制しながら能動的な感情を多く獲得することである――それは同時に身体的かつ精神的な自己利益を追求する徳でもある。改めて言うまでもなく、人間は能動的な喜びや欲望の感情が大きくなるにつれて至福へと接近し、また知的になるにつれて受動的な感情が小さくなるのであるから、有徳な自由が幸福主義と主知主義にあることは明らかである。バールーフ・デ・スピノザの『エチカ』は、完全な幸福とは無限なる神(=世界)の実在を充分に知覚することであり、そしてこの充分な知覚こそが受動的感情を抑制してくれるのだと結論している。