鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

Antiseptic氏に応答する。――『魔法少女まどか☆マギカ』試論

 先日『まどマギ』についてツイートしていたところ、Antiseptic氏からリプライを頂いた。そこでは氏のブログ『消毒しましょ!』の記事「少女たちは何を間違えたのか」のURL( http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20110226/p2 )とともに、私の『まどマギ』解釈への反論が述べられていた。私のツイートの文章も含めて、ここに再現しておきたい。

 私「『魔法少女まどか☆マギカ』が悲劇的なのは、鹿目まどかが世界を救うに至る絶対的な根拠がなにもないところにある。初期のイベント次第では、まどかがさやかの立場に、さやかがまどかの立場になっていた。ほむらのループが必然的な最適解を物語にもたらす一方、その偶然性は残り続けるのだ」
 Antiseptic氏「(二文目について)ならん(記事URL)」
 Antiseptic氏「(三文目について)“ほむらのループが”“物語にもたら”したのはシステムの完全性。だからこそ“最適解”はその破壊(deus ex machina)」でしか得られなかった」
 私「(前者に対し)ブログ記事は以前読んだことがあります。杏子が“自分で秘密を明かした”という解釈は、とても斬新で記憶に残っていました。一方で、私はさやか&杏子とまどかの間になにか本質的な差異があったとはあまり考えていません。それについてはブログで書こうと思います」
 私「(後者に対し)ふむ……。このあたり、もう少し詳しく伺ってみたいところです」
 Antiseptic氏「“本質”←エヴァ論みたいに少女たちの“たんなる保守的で穏当な物語ではないか”とかゆーのは無しの方向でお願いしたいwww」
 私「読んで下さっていたのですか! ありがとうございます。今のところ、『まどマギ』やその周辺批評にそういった類の批判をするつもりは全くありません」

 リプライのやり取りは『まどマギ』について言えばここで終わった。今回は私の『まどマギ』解釈をもう少し詳しく書きつつ、氏のブログ記事を自分なりに吟味してみることで、ひとまずの応答としたい。
 なぜ、鹿目まどかが世界を救うに至る絶対的な根拠はなにもないと言ったのか。それは、彼女が巨大な力を得るきっかけとなったものが暁美ほむらの「犠牲」だった、という作中説明に依っている。ほむらがまどかに「犠牲」を払うのはまどかへの情緒によるものだが、では彼女の情緒の発端とはなんなのか。それは初めの世界で、たんに暁美ほむら鹿目まどかのクラスに「転校」したから、窮地に陥ったほむらを、たまたま「先に」魔法少女になっていたまどかが助けたからなのだ。転校による出会いはまさに偶然の賜物だし、別のループ世界では、まどかより先にさやかが魔法少女になった以上、この順番は絶対ではない。ほむらがどれだけ世界をループさせても、前者(転校)が偶然であることは決して揺らがない。後者(変身の順番)について言えば、まさにほむらが世界をループさせる行為こそがそうした偶然性、書き換え可能性を浮き彫りにしてしまうのだ。
 『魔法少女まどか☆マギカ』は、初めの世界でほむらが転校した学校に「たまたま」鹿目まどかがいて、「たまたま」その鹿目まどかに救われるところから始まる。それが「たまたま」美樹さやかだった世界を想像してみよう。また、上条を好きになったのが「たまたま」鹿目まどかの方だ、という世界を思い描くことは難しいが、不可能ではない。なぜならさやかを苦しめたものの一つに、「たまたま」同時に上条を好きだった志筑仁美がいたのだから。転校、変身、恋愛といった物語の要素から決して消えることのない偶然性こそが、『まどマギ』が悲劇であることに拍車をかけている。
 こうした読みから、私は鹿目まどかが「万能の神になれるかもしれない」ことに絶対的な根拠はないのだ、と考えてみた。よって、「さやかの犠牲が報われず、まどかの犠牲がひとまず報われることに、実は確たる必然性はない」。以上のようなことを考え始めたのは、脚本家である虚淵玄の手がけたゲーム沙耶の唄を知ったという面が大きい。詳しい言及はしないが、二人の純粋な愛の必要条件に郁紀の「交通事故(による後遺症)」という偶然がある以上、耕司が郁紀に、郁紀が耕司になっていたかもしれないのだ、ということだ。
 これはAntiseptic氏の『まどマギ』解釈とはやはり異なるだろう。氏はまどかが「万能の神になれるかもしれない」ことについて、「天然の鹿目まどかにはそのような葛藤(注――さやかや杏子を苦しめた葛藤、“自分の持つ利己心に自覚的ではなかったこと”をめぐる葛藤を指す)がない」という理由を挙げている。一方で私の『まどマギ』解釈は、さやか&杏子とまどかの間にある性格的な差異を重要視しない。まどかが世界を救うに至ったのは「たまたま」であり、彼女自身は他の少女たちとなんら変わるところのない凡人なのだ。むしろそうしたどこにでもいる凡人が、自身を犠牲にして残酷なシステムを変えたことに注目したい。なぜならその場合、鹿目まどかのように「どこにでもいる」「たまたま」なこの私たちもまた、彼女がそうしたごとく自身を犠牲にするような局面がいつか来るかも分からない、ということを示すからだ。
 ところで、私は以前『まどマギ』について「一人の少女を犠牲にすることで世界が救われる物語で良いのか?」的なことを書いたことはある。だが今にしてみれば、それはあまりにまどかの主体性を無視した考えではないか。もちろんその是非は問われるべきだし、少し前までの私は「犠牲」論そのものを拒んでいたはずだ。しかし、それは(前回記事からすれば)避けて通れないに違いない。作品ラストに掲げられた「忘れないで。いつもどこかで誰かがあなたのために戦っていることを。あなたが彼女を忘れない限り、あなたは一人じゃない」という英文メッセージは、この私もまた別の誰かにとっての「彼女」になりうると想像することを通して、たんなる責任転嫁のニュアンスを免れる。

 さやか&杏子と鹿目まどかの性格的な差異を重要視しないこの立場から、改めて『消毒しましょ!』の記事「少女たちは何を間違えたのか」を読んでみたい。たとえば「天然の鹿目まどか」と「自分の持つ利己心に自覚的ではなかったことを共通の誤りとするさやか&杏子」、といったAntiseptic氏による区別も、実のところ私はするつもりがない。さやかや杏子は、魔法少女になったあとの様々な経緯から「たまたま」「自分の持つ利己心に自覚的ではなかったこと」に事後的に気付いただけで、まどかがそれに気付かずにすんだのは、「たまたま」彼女がそれより先に「概念」になってしまったからではないか。ここでの杏子をめぐる解釈は確定していないため避けるが、たとえばさやかは、志筑仁美が上条を好きではなかったらもう少し別の結末を迎えたかもしれない。この偶然性、書き換え可能性について、もう少しポジティブな面から追っていこう。
 氏は結論部で次のように書いている。「他人のために何かをすることは利他的に見えて実は身勝手な利己的行為そのもの、“私は貴方のためにここまでしたのに”と心の中で叫ぶとき、運命は暗転する。何故なら、それは自己欺瞞に過ぎないからだ」。一方で私の立場を明らかにすれば、「他人のために何かをすること」が利己的なのか利他的なのか、自己欺瞞に過ぎないのかどうかは、事後的にいつでも変わりうるのだということを主張してみたい。「私は貴方のためにここまでしたのに」と叫んだ人が、あとから「私は貴方が幸せならばそれでいい」と呟き直すチャンスはいつでもある。まさに、最終回のさやかが言った「そうだよ。私はただ、もう一度、アイツの演奏が聴きたかっただけなんだ。あのヴァイオリンを、もっともっと大勢の人に聴いてほしかった」という台詞がそうではないか。まどかがさやかや杏子を含む全ての魔法少女たちに示した新たな世界とは、そうしたチャンスに恵まれた世界だ。
 氏はさやかをこう評する。「彼の身体を魔法で直した暁には“それ以上のことを言って欲し”かった自分を“嫌な子だ”と否定し“本当の気持ち”を抑圧してしまった彼女は間違った願いを唱え、必然的に不幸となった」。では、それならさやかは氏の言うとおり上条の腕を直すのではなく、上条を手に入れる願いを唱えればよかったのか。しかしそうした場合、今度は彼の腕を直すことが「本当の気持ち」にならないとも限らない。氏は「志筑仁美の問いかけは遅すぎたのだ」と書くが、そもそも私たちは常にすでに「遅れて」本当の気持ちに気付く(捏造する)存在なのではないか。今この状況との差異によって、事後的に、人工的な抑圧とともに。だとすれば、彼女が不幸になったのは「本当の気持ち」に向き合えなかったからではなく、むしろ「本当の気持ち」の事後的な書き換え可能性に気付けなかったからだとも考えられる。

 以上の文章を以て、私の『まどマギ』解釈とAntiseptic氏の『まどマギ』解釈がどのように違うのかを(私の側からではあるが)を一部示せたと思う。他にも異なる箇所はあるが、いったんここで応答とさせていただきたい。