鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

【告知】 『アニバタ』『Fani通』に奇稿します。【夏コミ】【サンシャインクリエイション】

 こんにちは、籠原スナヲです。

 

 たつざわさん編集の『アニバタ vol.9 特集:けいおん!たまこラブストーリー』に拙稿を掲載して頂きました。

 また、Fani通編集部の『Fani通2013下半期』に拙稿を掲載して頂きました。

 どちらも、公式サイトはもうしばらくお待ちください。

 

 お買い求めの際は、ぜひお読み頂ければと思います。

通過儀礼の恋人たち ――山田尚子論2(『たまこまーけっと』『たまこラブストーリー』について)

 山田尚子京都アニメーション所属の監督、演出、アニメータである。TVアニメ『けいおん!』と『けいおん!!』(原作:かきふらい)、およびその劇場版である『映画けいおん!』で初の監督を務めた。さらにオリジナルTVアニメ『たまこまーけっと』、およびその劇場版である『たまこラブストーリー』を監督しており、いずれの作品も高い評価を得ていると言うことができる。私の考えでは、おそらく今後の国内アニメーションについて語るとき、彼女と彼女の創造した作品は決して欠かすことのできないものになるだろう。

 本稿の狙いは『けいおん』『たまこま』両シリーズを通して見ることで、彼女とそのスタッフが掲げている世界観とテーマに肉薄することである。先に結論から言ってしまえば、それは日常性の停滞と更新の対比であり、空気感の共有と切断の対立ということになるだろう。

 

 

2 北白川たま子と大路もち蔵 ――TVアニメ『たまこま』と劇場版『たまこラ』

 次に『たまこま』シリーズについて検討していこう。山田尚子らのTVアニメ『たまこまーけっと』本編は全12話で放映された。おおよそ物語は、人語を解する鳥として南の国の王家に仕えるデラ・モチマッヅィの漂流と、うさぎ山商店街の餅屋「たまや」の長女である北白川たまことの交流を描く。そののちに、南の国に帰ったデラ・モチマッヅィたちを描く劇場版『南の島のデラちゃん』と、うさぎ山商店街に留まった北白川たまこたちを描く劇場版『たまこラブストーリー』が同時公開された。これらは全て、原作なしのオリジナルである。

 最初に注目すべきは、原作モノだった『けいおん』シリーズとオリジナルである『たまこま』シリーズの差異である。前者においては、先立って原作版『けいおん!』が日常性の停滞や空気感の共有を構築しており、アニメ版『けいおん』はその世界観をズラすことに本質が置かれていたはずだ。しかし後者においては、そのような前提条件はそもそも存在していない。それゆえ山田尚子とそのスタッフは、原作版のような停滞性・共有性を自分たちの手で成立させたうえで、アニメ版のような更新性・切断性をも描かなければならなかったのである。

 日常と空気の停滞性に関して言うべきは、あたかも原作版『けいおん!』の後日談がそうだったように、TVアニメ『たまこまーけっと』の後日談が大きく2つに分裂していることである。平沢唯中野梓が別れたあとも作品が続いたように、デラ・モチマッヅィ北白川たまこが別れたあとも作品は続く。たとえばデラは南の国でチョイ・モチマッヅィやメチャ・モチマッヅィと暮らし、たまこはうさぎ山商店街で様々な人々と暮らしていくだろう。ここにあるのは、原作版『けいおん!』のような日常性と空気感を描こうとする意志である。

 他方でその更新性について言うべきは、本シリーズが物語の舞台を学園のみならず商店街や南の国にまで拡大しており、登場人物もより老若男女入り混じったものにしていることである。平沢唯中野梓と比べると、北白川たまことその友人たちが未来将来について想いを馳せる必要性、そして異性同性について心を悩ませる必然性は大きく増していると言えよう。ここにあるのは、アニメ版『けいおん!』以上に成長や別離の問題意識を成立させようとする意志、日常を更新し終わらせるとともに空気を切断し改めていこうとする意志である。

 日常性を停滞させるものと更新するものの著しい対比、それが『けいおん』シリーズを参照したときの『たまこま』シリーズの特徴なのだ。

 さらに本作では、こうした更新性と停滞性の対比はそのまま「外来的なもの」と「日本的なもの」の二項対立として描かれている。そもそも『映画けいおん!』からして、青春の終わりと別れに対する「喪=卒業旅行」の舞台はロンドンに、すなわち外来的な場所に設定されていたはずだ。おそらく山田尚子たちの世界観・価値観には、言わば「外来的な更新」と「日本的な停滞」との二分法が存在しており、それが『たまこま』シリーズでは遺憾なく発揮されているのである。もし本作に往年の人情コメディを想起させる部分があるとすれば、それは以上のような事情によるものである。

 まずTVアニメ『たまこまーけっと』においては、まさに「南の国」が日常を更新させるものとして表象され、他方で「うさぎ山商店街」が日常を停滞させるものとして表象されているだろう。たとえば、南の国から来たデラには「王子の妃候補を探す」という明確なゴール設定があるが、商店街に暮らす老若男女の営みには総合的な目的意識など存在していないわけだ。あるいは、商店街にある2つの餅屋「RICECAKE Oh! ZEE」と「たまや」の対比も同様である。前者の主人・大路吾平は洋風で革新的な餅屋を志向しているが、後者の主人・北白川豆大は和風で保守的な餅屋を貫いている。

 ここで興味深いのは、メインヒロイン・北白川たまこが日常の更新性(外来性)と停滞性(日本性)の双方に引き裂かれているということだ。作品前半では、北白川たまこは停滞性(日本性)に結び付けられている。というのも彼女のホクロや花の匂いは亡き母親を連想させるものであり、その母親の痕跡こそが「たまや」を和風で保守的な餅屋に留めていたからだ。しかし作品後半では、北白川たまこは更新性(外来性)に延長されてしまう。なぜなら「南の国」の鳥占官チョイ・モチマッヅィが来日したことで、先のホクロや花の匂いは「王子の妃候補であること」の証拠になってしまうからだ。

 最終的に北白川たまこは、日常の停滞性(日本性)と更新性(外来性)のいずれか選ぶのかという問題に直面するだろう。それはTVアニメ『たまこまーけっと』では、うさぎ山商店街に残って「たまや」の長女として家業を継ぐのか、あるいは南の国に赴いて王子メチャ・モチマッヅィと結婚するのか、という選択として表出されている。この点で私たちは、彼女を悩ませる首筋のホクロが、山田尚子の身体的特徴を投影したものであることを意識してみても構わない。停滞と更新のジレンマを抱えているのは物語内のヒロインだけではなく、物語外のクリエイターでもあるのだ。

 

 ただし本作はチョイの宣告が偽りだったと明かすことで、結局のところ北白川たまこの決断を曖昧なものにしてしまっている。のみならず、TV版の物語はデラ・モチマッヅィの帰国が失敗したところで切り上げられており、全体として別離と成長の問題意識は棚上げにされてしまっているだろう。あくまでTVアニメ『けいおん!!』が完結した作品であるのと比べてみれば、いささかTVアニメ『たまこまーけっと』の結末は中途半端と言わざるを得ない。だからこそ、のちに公開された劇場版2作は重要なのだ――筆者はそう考える者である。

 特に『たまこラブストーリー』が描き切ったのは、タイトルが示すとおり王道のラブストーリー的枠組である。

 もともとTV版の時点において、本シリーズの恋愛的要素は出揃っていたと言うことができる。たとえば「RICECAKE Oh! ZEE」の長男である大路もち蔵は、「たまや」の長女である北白川たまこに片想いをしており、その告白は2人の同級生・常盤みどりの思惑によって妨害されている。ここには既に、北白川たまこの日常を更新させる者(大路もち蔵)と停滞させる者(常盤みどり)の対比が、言ってしまえば女にとっての異性的なものと同性的なものの二項対立として表現されている。しかしこの関係が区切りを迎えるには、おおよそ劇場版を待たなければならなかったのだ。

 本作は青春の終焉と別離のテーマを強化するために、三年生である彼らに進路決定の悩みを与えている。実家を継ぐことのみ考えている北白川たまこも、進学の折に上京しようと決意している大路もち蔵(更新性)と、ただ漠然と進学を考えている常盤みどり(停滞性)との間で、やはり微妙な心理の変化を被っているだろう。付け加えれば、同じく同級生である朝霧史織が留学のためにホームステイの予定を立て、他方で牧野かんなが実家の仕事にならって進学先を決定するとき、こうした二項対立は再び外来性と日本性の二分法に重ねられているのだ。

 以上のごとき構図は、実のところ北白川たまこの家族たちが先立って経験したものである。かつて北白川豆大が北白川ひなこに恋をしてラブソングを贈り、北白川ひなこもまた豆大に恋をしてラブソングを贈り返すことで、彼らは現在の北白川たまこの父母になったのである。あるいは北白川たまこの妹・北白川あんこは、好きな男の子・柚季が引っ越す際には走って追いかけただろう。ラブストーリー的枠組とそれに伴う青春の終わりや別れの気配は、本作では徹底されていたのだ。周囲について補足しておけば、商店街の面々がそれぞれ抱いている愛情も、そして南の国の王子メチャに対するチョイの恋心も描かれていたはずである。

 最終的に北白川たまこは、日常の停滞性(日本性)と更新性(外来性)のうち後者を選ぶことになった。それは要するに、家族や商店街における日常が弛まぬ更新の産物であることを知ったがゆえであり、自分自身の日常もまた絶えず更新されていくことを認めるがゆえの選択である。映画『たまこラブストーリー』において表出されたのは、生まれる前の記録を残したカセットテープと幼い記憶を呼び起こす教室の風景、そして未来への不安を感じさせる祖父の事故や現在を急がせる友人の言葉だった。広がりを持った時間の感覚に後押しされる形で、彼女は決断を果たしたのである。

 それはある意味において、TV版と劇場版を共に監督した山田尚子の決断でもあっただろう。彼女は『たまこラブストーリー』について「たまこの内面を映画で掘り下げたいと思いました」「自分のことも大事にできるたまこを描きたいと思いました」と述べ、ラブストーリー的枠組について「ラブストーリーは全てが「挑戦」でした」「たまこの恋を描く、という覚悟なんだと思いました」と言っている。まさしく彼女はヒロインの、ひいては自分自身の内面を掘り下げていくとともに、作家としてより高みへ登ることができたのである。

 

山田尚子の言葉は『たまこラブストーリー』公式サイトより引用した)

 

イニシエーション・ラヴァーズ ――山田尚子論(『けいおん』について)

 山田尚子京都アニメーション所属の監督、演出、アニメータである。TVアニメ『けいおん!』と『けいおん!!』(原作:かきふらい)、およびその劇場版である『映画けいおん!』で初の監督を務めた。さらにオリジナルTVアニメ『たまこまーけっと』、およびその劇場版である『たまこラブストーリー』を監督しており、いずれの作品も高い評価を得ていると言うことができる。私の考えでは、おそらく今後の国内アニメーションについて語るとき、彼女と彼女の創造した作品は決して欠かすことのできないものになるだろう。

 本稿の狙いは『けいおん』『たまこま』両シリーズを通して見ることで、彼女とそのスタッフが掲げている世界観とテーマに肉薄することである。先に結論から言ってしまえば、それは日常性の永続と更新の対比であり、空気感の共有と切断の対立ということになるだろう。

 

1 平沢唯中野梓 ――原作『けいおん!』とアニメ版『けいおん!

 初めに『けいおん』シリーズについて概観していこう。かきふらいの4コマ漫画『けいおん!』本編は全4巻が刊行された。おおよそ、前半2巻では主人公・平沢唯たちの高校1~2年生次が描かれており、後半2巻では彼女たちの高校3年生次から卒業までが描かれている。そののちに、卒業した平沢唯たちの大学生活を描く『けいおん!college』と、彼女らの後輩・中野梓たちの高校生活を描く『けいおん!highschool』、これらが各1巻ずつ刊行されたことは記憶に新しい。本編全4巻と続編全2巻、それが『けいおん』の原作版と呼ばれるものである。

 タイトルが示すとおり、本作のジャンルは学園を舞台にした音楽・軽音楽モノということになるだろう。とはいえ『けいおん!』の世界観には、音楽の活動を通した主人公たちのサクセスストーリーや、異性の登場によるラブストーリーのような分かりやすい目的意識はない。かきふらいが狙ったのは、あくまで部活動を通じた少女たちの曖昧な日常性を切り取ることであり、そこに流れる美しい空気感を浮き彫りにすることだったと見なしてよい。こうした傾向は同時代の他作品にも広く見られるものであり、かきふらいの作風がそれを意識していることは疑い得ない。

 このうちTVアニメ『けいおん!』(第1期)は原作本編の前半2巻を、そして『けいおん!!』(第2期)は後半2巻を映像化したものだ。ここで確認すべきは、全14話である『けいおん!』に比べて、全27話である『けいおん!!』は約2倍の分量を有しているということだ。さらに指摘が必要なのは、『映画けいおん!』(劇場版)においては、原作版における『college』や『highshool』のような後日談は物語られなかったということである。あくまで『映画けいおん!』は『けいおん!!』の終盤を補完する内容に留まっている。

 卒業前エピソードの拡大と卒業後エピソードの消滅、それが原作版と比較したときのアニメ版の特徴なのだ。

 結果として山田尚子とそのスタッフは、おおよそ2つの変更を『けいおん!』に加えている。まず1~2年生次を描く第1期の物語は、平沢唯たちが秋の学園祭ライブで成功するところで結末を迎え、残ったエピソードは第2期『けいおん!!』で用いられることになった。こうしたクライマックス自体の変更は、地味ながらもバンド活動の成果というモチーフを強く印象付け、少女たちの成長や結束といったテーマを明瞭なものにしたのである。このことは本作に、ある種のサクセスストーリー的枠組を再導入する効果をもたらしただろう。

 そして3年生次から卒業までを描く第2期の物語は、先述の残りエピソードの他にオリジナルのエピソードを多く含むものになっており、特に22話以降についてはほとんど独自の展開を見せている。そこでは高校の卒業というモチーフが大きく盛り上げられ、青春の終焉や別離というテーマが深く掘り下げることになったのである。しかも、その問題意識は劇場版における卒業旅行にまで引き継がれている。おそらく山田尚子たちの作家性は、タイミングの問題や企業としての意向などをいったん捨象すれば、こうした変更から読み込むことが可能だろう。

 具体的な変更点について見ていこう。第1期および第2期に渡って、サブヒロインたる山中さわ子の同窓生たちは様々な形で登場し、またメインヒロインたる秋山澪田井中律らの同窓生も描かれることになった。田井中律について付け加えれば、彼女の弟である田井中聡の存在が明かされてもいるだろう。これらは要するに、かつて共有した青春を終えて離ればなれになった者たちに焦点を合わせ、そしてこれから青春を終えるだろう者たちを暗に仄めかすものである。青春の始まりと終わりがもたらす出会いと別れは、アニメ版では時間的な広がりをもって捉えられている。

 だからこそ第2期、平沢唯秋山澪田井中律琴吹紬真鍋和といったメインキャラクターの同級生が、全34人、詳細な名前や性格の特徴などで肉付けされていることは本質的なのである。彼女たちが桜が丘高校の3年2組として同じ時間を過ごせるのは、第2期と劇場版で描かれた1年間だけなのだ。私たちは『映画けいおん!』が、卒業旅行先のロンドンで多種多様なOGたち・旧友たちと再会を果たす作品であり、最後の登校日に3年2組の教室でライブを開く作品だったことを意識すべきだろう。それは青春の終わりと別れに対する「喪」としての映画だったのである。

 そしてアニメ版における最も大きな変更こそ、平沢唯中野梓の別離をよりシリアスなものにしたことに他ならない。

 思い返せば原作版では、平沢唯中野梓の間柄は親密ながらも比較的ドライでリアリスティックなものだった。彼女たちは卒業によってお互い離ればなれになったあとも再び会うことはなく、それぞれ後日談の大学生活編と高校生活編で新たな人間関係を築いていった。たとえば平沢唯は和田晶・林幸・吉田菖といった新入生らや吉井加奈・廣瀬千代といった先輩たちに出会い、中野梓は斉藤菫・奥田直といった後輩たちに出会うことが約束されている。平沢唯中野梓の間にあるのは、精神的に対等かつ対称的な先輩後輩の関係だと言うことができる。

 しかし繰り返し示すべきは、第1期の物語が先立って平沢唯の精神的成長を描き終えてしまったということ、そしてその上で後日談としての救済措置は採用されないということである。それゆえ平沢唯中野梓の間にあるのは、精神的に対等で対称的な先輩後輩の関係にはなりえないだろう――むしろ非対等で非対称的な、脆く危うい関係だと見なしても構わない。したがって山田尚子とそのスタッフが中心に据えたのは、いずれ平沢唯を失ってしまうことによって中野梓が覚えるウェットな感情と、そんな中野梓を残して旅立とうとする平沢唯のセンチメンタルな心理なのだ。

 もとより第1期のオリジナルエピソード「冬の日!」では、アルバイトの失敗やペットのトラブルから立ち直る面々を通じて、桜が丘高校軽音部の精神的支柱たる平沢唯の姿が強調されていた。そして第2期のオリジナルエピソード「整頓!」「期末試験!」等では、ペットのプレゼントや2人だけのユニット結成といった形で、かかる平沢唯中野梓の絆が前面に押し出されることになったのである。さらに映画『けいおん!』では、平沢唯に対する自身の愛情を恐れた中野梓が却って距離を置こうとするなど、半ば恋患いのそれとさえ解釈しうる描写がなされていたはずだ。

 つまりTVアニメ『けいおん』シリーズは、第1期においてある種のサクセスストーリー的枠組を再導入するとともに、第2期と劇場版においてある種のラブストーリー的枠組を復権していたのだ。それは部活動を通じた成長といった形で、また高校卒業を通じた青春の終焉や別離といった形で表出されている。言い換えれば、本作が焦点を合わせたのは、永遠に継続するかのような日常性を更新し終わらせていく営みであり、延々と共有されるかに見えた空気感を切断し改めていく試みである。それは我々の社会生活に存在する通過儀礼の姿であり、恋(乞ふること)の有様なのだ。

 

(つづく)

ボーカロイド良曲まとめ ――2014年3月&4月

①sleepless「xenosphere」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22997181

②niki「平面説」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23368297

③ピノキオP「絵の上手かった友達」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23298444

④ねこぼーろ「さよなら4月のドッペルさん」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23265517

⑤EZFG「ブラフライアー」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23135101

⑥電ポルP「ウルトラプラネット」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23380306

 

 

マルティン・ハイデガー『存在と時間』について(上)

 マルティン・ハイデガー存在と時間』は、超越論的な原理たる「存在」の意味に関する問いを提示している。ハイデガーは、存在の意味に関する問いを反復する必要性を感じているらしい。まず本書は、存在の意味に関する問いを形式的・構造的に整理している。あらゆる学問のなかでも、存在の意味に関する問いは他の問いよりも優先されるべきものである。そしてその問いのなかでも、超越論的な存在は経験論的な事物たる「存在者」より優先されるべきものである。

 存在の意味に関する問い、それが存在論だ。

 存在の意味を解釈するためには、超越論的な領野を解明しなければならない。そしてそのためには、超越論的かつ経験論的な現存在(=人間、すなわち原理を生成させうる事物)を存在論的に分析しなければならない。ハイデガーは、それによって存在論の歴史を解体しようと目論んでいる。この考究において用いられるのが、現象学的方法(≒主体が構成したものとして客体を捉える方法)である。

 

 ハイデガーは、現存在の分析論のテーマを提示している。超越論的かつ経験論的な現存在の〈主体的〉分析は、単に経験論的な人間学や心理学や生物学の〈客体的〉分析とは異なっている。彼は私たち現存在の主体的な在り方、すなわち実存を論じて「未開の」現存在を解釈しなければならない。それと同時に、彼は「自然の」世界概念を獲得しなければならないのである。

 最初に確認すべきは、いかなる未開的現存在も世界=内=存在(=世界の内側に存在するモノ)だということだ。ハイデガーは世界=内=存在としての現存在を、内=存在そのものを手引きに素描している。たとえば、内=存在の具体例のひとつとして示されているのが世界認識ということになるだろう。というのも現存在は、ある種の基礎的な状態において自然的世界を認識しているからである。

 では世界の認識を支える理念について見ていこう。私たち現存在は、おおよそ環境としての世界のなかで存在者に遭遇している。そこでは存在者は、絶えず環境世界に適合した形で存在しているわけだ。たとえば何らかの標識や記号として。存在者が私たちの趣向に合った形で・有意義な形で存在していること、それを通して示されているのが世界の認識なのである。たしかに、私たちの世界を規定しているのはres extensa(=物質)であるように思われている。しかし、その物質を存在論的に規定し基礎づけているのは私たちの環境に他ならない。ここでハイデガーは、世界を物質によって規定するデカルトの哲学とは異なっている。かくして物質的な道具としての存在者は、世界の内側において空間性を構成していく。それと同時に、世界=内=存在としての現存在もまた空間性を構築していくだろう。本書が物語っているのは、言わば経験論的な環境→物質→空間と連鎖していく世界概念の獲得過程である。

 ここで重要なのは、こうした世界概念の獲得が決して私ひとりの在り方ではないということだ。私という現存在は他者と共同して現存在であること、私たちが日常的・経験論的に共同存在であることを知っているのである。そしてそれは、私という日常的・経験論的な自己存在と世間との関係に現れている。

 日常的・経験論的な内=存在そのものについて、もう少し詳しく分析していこう。私たち現存在の主体的な在り方を構成しているのは、何らかの心境である。たとえば、心境の在り方のひとつには恐怖が挙げられる。あるいは、私たち現存在の主体的な在り方を構成しているのは何らかの了解である。この了解から派生したものが解意であり、さらにこの解意から派生した状態が言明と呼ばれるものである。ここでは、現存在の主体的な在り方は話や言語に結び付けられている。およそ日常的には、現存在の主体的な在り方は世間話や好奇心や曖昧さに帰結するものだろう。このことは現存在が経験論的な世界に頽落することを示すもの、すなわち現存在が存在者として世界に投げ入れられることを示すものである。

 

 以上のような日常的かつ経験論的な在り方の一方で、現存在の構造は根源的・全体的かつ超越論的な在り方を含んでいる。こうした現存在の構造を際立って示す根本的な心境は、恐怖ではなく不安と呼ばれる。また、現存在の超越論性を示すのは好奇心ではなく関心と呼ばれることになろう。まさしく、現存在の主体的な在り方を解釈しようとするのはこの関心に他ならない。このことは、なぜ私という現存在が存在の意味を問おうとするのか解意することで明らかとなる。超越論的な関心によってこそ、私たち現存在は世界を認識することと世界が実在することを結びつけ、何かを示すことと真理を語ることに繋がりを見出しうるのである。

愛せない男たちの肖像 ――石原慎太郎論(「完全な遊戯」について)

0 ――遊戯の位置

 石原慎太郎(1932~)は『太陽の季節』(新潮社、1956)で文学界新人賞芥川龍之介賞を受賞してから、『北壁』(三笠書房、1956)、『狂った果実』(新潮社、1956)、『日蝕の夏』(三笠書房、1956)、『理由なき復讐』(三笠書房、1956)、『若い獣』(新潮社、1957)などを次々と発表してきた。本稿で扱う「完全な遊戯」は『新潮』1957年10月号に掲載され、翌年1958年3月に単行本化された。2003年の文庫版では、他の「若い獣」「乾いた花」「鱶女」「ファンキー・ジャンプ」「狂った果実」といった短編を抑えて表題作に選ばれている。

 しかし、石原慎太郎「完全な遊戯」は決して文壇における評価が高かったわけではなかった。当時の文芸時評を紐解いてみれば、むしろ佐古純一郎や平野謙らによる強い否定を受けていたのである。

「もういいかげんにしたまえと叫びたいほどのものである。君たちはこういう小説が書けることに若さの特権を誇っているのかもしれないが、いったい人間というものを少しでも考えてみたことがあるのか。石原はどこかで自分の文学は人間復活の可能性の探求だとうそぶいていたが、作家としての良心を失っていないのなら、少しは自分の言葉に責任を持つがいいのだ」(佐古純一郎「文芸時評」『産経新聞』1957、9、14)

「『完全な遊戯』、この題名を思いついたとき、作者はニヤリとほくそえんだかもしれぬ。(中略)作者はすでに昨日の流行でしかないドライ派の青年どもをラッしきたって、残酷を残酷とも思わぬ彼らの完全に無目的な行動を描破したつもりらしい。私はこういう作品をマス・コミのセンセーショナリズムに毒された感覚の鈍磨以外のなにものでもない、と思う。美的節度などという問題はとうに踏みこえている。私はこの作者の『処刑の部屋』や『北壁』には感銘したものだが、あの無目的な情熱につかれた一種充実した美しさは、ここでは完全にすりへらされ、センセーショナリズムのワナに落ち込んだ作者の身ぶりだけがのこっているにすぎない」(平野謙文芸時評」『新潮』1957、10)

 重要なのは、こうした悪評にもかかわらず「完全な遊戯」が作家自身から優遇されてきたことである。たとえば、文壇から比較的高く評価された「処刑の部屋」(『新潮』1956、3)が単行本化さえされなかったことを考えれば、仮に出版社の都合などがあったとしても、幾度も表題作に選ばれている「完全な遊戯」が特権的な立場にあることが容易に了解できよう。おそらく石原本人は、周囲の否定的評価に反して「完全な遊戯」が優れた文学性を持つ作品であると考えており、そのことが本作を厚遇する結果に繋がっているのではないだろうか。

 では、その文学性とはどのようなものか。本稿は「狂気/理性」「無目的/目的」などを枠組に、この問いを推し進めるものである。

 

1 ――女について

 最初に「完全な遊戯」の登場人物を整理しておこう。精神疾患を抱え、精神病院から抜け出してきたらしい「女」と、そんな女を拉致・監禁しながら輪姦を繰り返し、売春宿へ放り出したかと思えば、最後には殺害してしまう「礼次」「武井」といった青年ら、そして彼らが途中から呼び寄せる「高木」「達」といった共犯者たち、さらに彼らが呼び寄せる三人の男たちである。本稿で注目したいのは、礼次と他の男たちとの間では女との関係が大きく異なることであり、それによって礼次が、明らかに武井とは別の恐れと憤りを感じていることである。

 まず確認すべきは、女が何をしたいのかが文中から全く読み取れないことである。一見、彼女は「藤沢の駅までいって、汽車で」「横浜」まで行こうとしており、そのたびにバスや汽車が来ないため「帰れない」「こまった」状況に陥っているらしい。そしてたしかに、女は「私帰るわ、帰して頂だい」とさえ語っているのだ。彼女は「大船の鎌倉病院(辺りでは著名な精神病院)」に入院していたが、「もう直った」「先生たちはもう、みんな直ったと言っていた」らしく、横浜へ帰るつもりだったようである。

 しかし、女が本当に横浜へ帰ろうとしているのかは分からず、そのことは武井や礼次によって正確に疑われている(「時間表が出てねえ訳あないんだがなあ。いつまでああやって立ってやがるつもりだろう」「あんな時間まであすこで何をしてたんだい?」「本当に横浜へ帰るつもりだったのか」)。おまけに途中から、女は「もう、帰らない、帰りたくないの」「でも、私、横浜には帰らない」とも語っているのだ。こうした曖昧さにおいては、彼女の「違う! もう治ったわ!」という言葉も素直に信用するわけにはいかない(「先刻もそうだったぜ、何だかこの女、普通じゃねえみてえだな」「ちえ、やっぱり一寸コレだったのか」「言っとくがな、その女てえな少しばかりここが変らしいんだ」「この前まで病院にいたんだと自分で言ってたぜ、けどもう直ったとよ、でも一寸な」)。

 女に明確な目的や明晰な理性があるのか、石原慎太郎は意図的に曖昧にしているかのようである(「「横浜には、家があるの」「え」「家がさ」「ええ、横浜に行こうとしていたのよ」答えにならぬ曖昧な女の言い方だった」)。事実「完全な遊戯」では、女の言葉が時折意識的に伏せられており、そのことが彼女の人間像を不明瞭かつ不完全なものにしている(「女は何か訳のわからぬことを叫んだ」「先刻から女は低い声で何か聞きとれぬことを言いながらじっとしたきりだった」「女が低く、うめくように何か言った」「女が何か叫んだ後」「そして時折訳のわからぬことを小さく叫びながら気を失った」「女が何か叫んで飛びすさった」「女は頭を振り何やら叫ぶと」「女が鼻声で何か言った」)。

 

2 ――武井たちについて

 以上のような女を、武井たち男は自分たちに都合よく「狂気」「無目的」として補完してしまう(「どんな風に変なんだ」「なに、常人と変わりゃしねえよ、唯、何をされても馬鹿に温和しいというだけさ」「好都合じゃねえか」)。彼らは、女の曖昧な態度を「色気違い」として解釈しているのだ(「大した女だぜこいつぁ、腰を使い出しやがった」「手強いぜ奴あ、あっちの方でもなかなか、仕舞にあの女凄い声を挙げやがった」「色気違いじゃねえのか、あの分じゃ」「野郎、静かにするように、股ぐらにほうきでも突っ込んどいてやろうか。大方それならこ奴あ嬉しそうにじっとしてるぜ」「悪? よせやい! こいつあ何より楽しい遊びだぜ、女にだって、なあおい」「そ奴あ、よく、最中に気が遠くなるからな。癖なんだ、心配することあねえ」「こいつあ馬鹿みてえに好きだぜ」「でも大した女だぜ。いざとなりゃまだやるぜこ奴あ」「いかに合意があるとは言えな」「話あつくと思うな。奴なら大した売れっ子になるぜ」)。

 彼らの解釈において、女の理性と目的意識は完全に忘却されていると言ってよい。彼らは自身の「遊戯」を「合意」のものとして正当化すべく、女に狂気の属性を当て嵌め、結果として横浜の家へ帰るという女の目的を否定し切ってしまう。そこでは彼や他の男たちが女を不気味に思うのは、あくまで彼女の狂気に対してだろう(「おい、この女どうも気味が悪いぜ。それに結構、俺たちの方が遊ばれているんじゃないだろうなあ」「朋輩たちは事情を知ってか気味悪がって近くに寄りつかないでいる」)。したがって武井が女に暴力を振るうのは、むしろ女が完全に狂気的ではなくなったとき、すなわち彼女が輪姦や拉致監禁に対して真っ当に抵抗しすぎたときなのだ(「「この野郎!」言って頭を押さえつけるその掌の下で」「「黙らねえか、良い加減に!」シートの背から殆ど全身を逆さにのり出した武井が、叫びながら女の眼の上から力一杯殴りつけた」「また武井が殴りつけるばしっという鈍い音が聞こえてくる」)。

 おそらく、こうした構図を受けて三島由紀夫は次のように述べているのだろう。彼は本作へ集中した文壇からの悪評に驚きつつ、

「感情の皆無がこの作品の機械のやうな正しい呼吸と韻律を成してゐる。相手は狂女であり、こちらには無頼の青年たちがゐる。一瞬の詠嘆の暇もなしに、行為は出会ひから殺人まで進む。しかも人物の間には、狂女のそこはかとない恋情を除いては、感情の交流は少しもないのである。(略)狂女は純粋な肉になり、かうした暴行にお誂へ向きの存在になり、青年たちに『完全な遊戯』を成就させるわけであるが、『完全な遊戯』を望んだ青年たちと、それを理想的に成就させた女との間には、何ら感情の交流はないのに、一種完璧な対応関係があつて、そこにこの小説の狙ひがあることに気づかなければ、ただの非人道的な物語としてしか読まれない」(「解説」『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』筑摩書房、1960)

 と述べている。

 三島は「そこはかとない恋情」を取り除くことで、女を「狂女(純粋な肉=暴行にお誂え向きの存在)」として解釈しつつ、武井たちの「完全な遊戯」を「感情の皆無(感情の交流は少しもない、何ら感情の交流はない)」「機械のような正しい呼吸と韻律」「一種完璧な対応関係」として読み解こうとしている。そして、

「この小説は、青年たちと女との、不気味な照応の虚しさを主眼にしてをり、おとなしい狂女が純粋な肉にすぎずその内部が空洞にすぎないことは、青年たちのがむしやらな行動の虚妄と無意味とを象徴してゐる。青年たちは谺のかへらぬ洞穴へ向つて叫び、水音のしない井戸へむかつて石を投ずるのと同じことで、最後にそのやうにして女は「片附け」られる。しかも最後まで、青年たちは自分の心の荒廃へ、まともに顔をつきあはせることがない。このやうな無倫理性は、『太陽の季節』のモラリストが、早晩到達しなければならぬものであつた。(中略)石原氏は、倫理の真空状態といふものを実験的に作つてみて、そこで一踊り踊つてみる必要があつた。その踊りは見事で、簡潔なテンポを持つてをり、今まで誰も踊つてみせなかつたやうな踊りなのであつた。『完全な遊戯』は、人々が見誤つたのも尤もで、小説といふよりは詩的な又音楽的な作品なのである。それは対立ではなく対比を扱つてゐる」(同右)

 と述べている。

 しかし、三島の読解は武井たちの眼から見えた「女と男たち」の姿について論じたものでしかないだろう。問題は、三島が捨て去った「そこはかとない恋情」が作中に描かれていることであり、その恋情の受け皿として、主人公である礼次が設定されていることなのではないか。実際には「完全な遊戯」には「感情の皆無(感情の交流は少しもない、何ら感情の交流はない)」「機械のような正しい呼吸と韻律」「一種完璧な対応関係」以外のものがある。であれば私たちは、礼次の眼から見える「女と男たち」の姿について考えなければならない。

 

3 ――礼次について

 女は、以上のような武井に対して激しい嫌悪を剥き出しにしている(「貴方、嫌い、嫌い!」「いやよ、貴方は嫌い、非道いわ」「いやっ、いやだ!」「向こうへ行って。嫌いよ貴方は」「馬鹿」「あの人は嫌い」)。それゆえ武井もまた、女には憎まれ口を叩く役割に徹することになるだろう(「泣いてるのか、そんな訳あねえだろう」「へっ、嫌いですまなかった」「何が。仕様がないじゃないか」「いやでも駄目さ、一つぐらい殴ったからってそう邪慳に言うなよ」「嫌いは分かったよ。顔でも洗うんだ、ふうてん奴」)。

 他方で女は、礼次に対しては三島が「そこはかとない恋情」と呼んだ感情を差し向けているようである(「帰って来てね」「礼次さんは」「礼次さん!」)。また、そのことに武井も嫉妬とも冷笑ともつかない言葉を返している(「じゃ同じこ奴にあ惚れたとでも言うのか」「何だおい、とんだ人情は止しにしてくれよ」「お前はどうも得してるぜ(略)こ奴の言うことなら聞くのか」「ちえ、とうとう見入られたぜ」「ほら見ろ、お前に惚れたとよ」)。そのやり取りにおいては、康子という女との事情も引き合いに出される(「でもお前、今夜は堤のパーティーに行く筈じゃなかったのか。お前だって康子にそう言ってたぜ、俺は行くぜ」「おうおう、一寸した亭主面で言うぜ。康子に聞かせてえや」)。それゆえ礼次もまた、女に対しては優しい声を掛ける役割を演じることになるだろう(「大丈夫かい?」「乗れよ、ものはついでだ、助けてやるよ(略)乗れよ、もうあんなことあしやしない」「な、おい、どうせだ、明日まで一緒に仲良くしようぜ。こ奴の言うことも聞いてやれよ」「お前、何処か体悪かったんじゃないのか」「もう一度仲良くしねえか」「お前にあ何だか一寸未練が出てきたぜ」「なるたけ楽なようにしといてやるからな」「ああ、帰って来るよ」「迎えに来たぜ」「本当だよ、だから俺の言うことは聞くな」「良いんだ、もう何処へも帰らなくていいさ」「俺に逢いたかったかってんだよ、俺はお前に逢いたかったぜ」「二人だけで仲良くしような」)。

 これら態度の差異は、武井たちが女を「狂気」「無目的」として補完してしまうのに対して、礼次が女を「理性」「目的」として補完しようとしているのと無関係ではない。たとえば、彼が女の曖昧な態度を「色気違い」扱いする箇所は武井に比べて驚くほど少ないことが分かる(「お前、まんざらこんなことが嫌いでもなさそうだな」のみである)。彼の解釈において、女の理性と目的意識は完全に忘却されているわけではない。このことは、彼が「遊戯」を「合意」のものとして正当化するつもりがないこと、女に狂気の属性を当て嵌め、結果として横浜の家へ帰るという女の目的を否定し切ってしまう気がないことを意味している(「着るんだよ着物を。そのままじゃ何処にも出れまい。横浜にも帰れねえぞ」「冗談じゃねえぜ。じゃ、どこへ行くんだ」「横浜は何処なんだ、こないだ帰ると言っていた横浜てえのあ」「帰れよ、お前はどうもまだ一人じゃ無理だ」「本当に、横浜へ帰らなくて良いんだな、帰りたくないんだな」)。

 そこでは礼次が女を不気味に思うのは、武井とは真逆に、むしろ彼女の「そこはかとない恋情」に対して、すなわち常人も抱きうる一般的感情に対してだろう(「礼次が引き込むように手をのばすと、女はゆっくりと自分でドアに手をかけ入って来た。そんな女の様子に、何故だか礼次は一寸の間、薄気味悪さを感じて仕方なかった」「礼次がかがみこむと女は自分から体を開いて待った。その瞬間、礼次は何かわからぬ、ぞっとしたものを感じたのだ」「入り込んで見下す礼次へ、女は何故か薄く笑いかけた。「よせやい。気味が悪いぜ」」)。したがって礼次が女に対して怒りを露わにするのも、却って女が理性的ではなくなったとき、要するに女が拉致監禁や輪姦に対して真っ当に抵抗しなさすぎるときなのだ(「女はただぼんやりと横から礼次を見つめている。最初の出逢いに窓から覗いた彼を見返したと同じような眼つきだった。ことの後だけに礼次は何故かその眼差しにいらいらしたものを感じてならない」「「もう帰らない」同じ調子で女は言う。礼次は急にかっとしたものを感じて怒鳴った「帰るんだ、横浜へ」)。

 このような細部は、三島由紀夫の読解だけではなく江藤淳の読解からも抜け落ちているかもしれないものである。江藤は、

「果たして『完璧』という観念に人間的なものがあるか。石原氏がここで試み、成功したのは、この観念のほとんど厳粛な空虚さを、抽象化された運動の継起のなかに象徴しようとすることである。『純粋行為』がとらえられればよい」(「『完全な遊戯』について」『石原慎太郎論』作品社、2004)

 と述べている。

 だが私たちは反対に、果たして石原慎太郎はここで「完全」「完璧」という観念を試みているのだろうか、と問わなければならない。文体的なことを無視すれば、たしかに、武井たち男はタイトル通り「完全」「遊び」を口にしている(「「いや、まだあるぜ。明日からもう一度、ひと足違いで俺たちがあの店へ女を迎えに行って、それで何もかも完全に終わりというわけさ」「その割にこの遊びは安く上ったな」横の灰皿で煙草をひねりながら武井が言った」)。しかし、礼次はそのような言葉を発してさえいない(「これでやっと終わらせやがった」と言うのみである)。

 思い返せば、冒頭の場面は本作の物語そのものを隠喩化した風景として読み込むことができる。たとえば打ち捨てられたリヤカーは、あからさまに、直後に打ち捨てられている女と類似している(「盗まれやしねえのかい」「ここらでそんな酔狂もあるまい」という言葉に引き寄せられるように、彼らは女を拉致監禁する酔狂に繰り出す)。そしてそうした冒頭で、礼次は道路の穴に車を躓かせる男、カード遊びに敗れた男として表象されているのである(「やくざな道路奴! 必ずどこかに穴がありやがる!」「馬鹿言え、あんなブリッジなんぞ気にもしてねえよ。俺あ早く帰って寝たいんだ」)。まさしく、やくざな道路には必ずどこかに穴があり、彼はその穴に躓いて「完全な遊戯」に失敗するだろう。これまで論じてきたことから察せられるように、その穴とは女の理性と狂気の曖昧な間隙あるいは目的意識の揺らぎ、言わば女の「そこはかとない恋情」と「色気違い」の振れ幅にあると言ってよい。

 

間奏 ――三島由紀夫を超えて

 以上のような武井たちと礼次の差異、両者に対する女の態度の違いを見なければ、私たちは「完全な遊戯」という物語の筋さえ追ったことにはならないだろう。にもかかわらず、三島由紀夫は「青年たち」という言い方で、平野謙は「ドライ派の青年ども」「残酷を残酷とも思わぬ彼ら」という言い方で、武井たちと礼次の区別には配慮していないように思われる。ましてや、石原慎太郎と他作家との比較優位さえ「君たち」という言い方で回避してしまった佐古純一郎は、問題外と断じる他ない。

 ここで批判しなければならないのは、晩年における三島の発言と、それを下敷きにしたいくつかの批評である。三島は、古林尚から「石原慎太郎が『完全な遊戯』を出したとき、三島さんが、これは一種の未来小説で今は問題にならないかもしれないけれど、十年か二十年先には問題になるだろう、と書いていたように記憶していますが」と問われ、

「あれは今でも新しい小説です。白痴の女をみんなで輪姦する話ですが、今のセックスの状態をあの頃彼は書いていますね。ぼくはよく書いていると思います。ところが文壇はもうメチャクチャにけなしたんですね。なんにもわからなかったんだと思いますよ。あの当時、皆、危機感を持っていなかった。そして自由だ解放だなんていうものの残り滓がまだ残っていて、人間を解放することが人間性を解放することだと思っていた。ぼくは、それは大きな間違いだと思う。人間性を完全にそうした形で解放したら、殺人が起こるか何が起こるかわからない」(「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』1970、12、12および1971、1、1)

 と述べている。それを受けて秋山大輔や中森明夫は、

「(三島由紀夫は)人間が思考を止めて、欲望のみで行動する時代の到来を石原の小説から眺めていたのかもしれない。現代の社会情勢。セックスの低年齢化や、性犯罪の多様化、ドメスティック・バイオレンスの横行を三島は予見していた、極論かもしれないが、『完全な遊戯』の評論は、的を得ているのかもしれない」(秋山大輔「三島由紀夫石原慎太郎」『三島由紀夫研究会メルマガ』2006、2、28)

「『完全な遊戯』は未来小説とも実験作とも称されたが、考えてみれば、この物語のなかで描かれている蛮行はいつでもどこでも現実に起こりうるものではなかったか。いや、二十一世紀の今日に生きる我々は、既に頻発する少女の拉致監禁事件や、あるいは一九八〇年代末の女子高生コンクリート詰め殺人事件として件の小説と酷似する事態が現実化していたことを知っている。(中略)『処刑の部屋』の非道なエピソードもまた、近年、世を騒がせた大学生サークルによるスーパーフリー事件としてすぐに誰もが想起するだろう。こんな衝撃的な事件とそっくりの物語を、はるか半世紀も前に執筆していたというのは、作家の想像力によるものか、(中略)いや、単に当時の若い“太陽族”作家が、おそらく自分の周りで起こる不良少年たちの蛮行をいささかデフォルメして書き留めたにすぎないのかもしれない。そう、ちょっとしたチンピラ話を一丁“小説”にでもでっち上げただけなのだと。そして、そう思わせるところが、石原慎太郎という作家の真の“才能”の恐ろしさでもある」(中森明夫「解説――石原慎太郎の墓碑銘」『石原慎太郎の文学9 短編集I』文藝春秋、2007)

 と書いている。

 このような貧しい紋切り型で作品を予言化してしまえるのは、彼らが「男が女を拉致監禁し輪姦して殺害する」という主要素以外を「完全な遊戯」から排除しているからである。言うまでもなく、女が「白痴」かどうかは不明瞭であり、また「人間が思考を止めて、欲望のみで行動する時代」あるいは「白痴の女をみんなで輪姦する」事態が「今のセックスの状態」「現代の社会情勢」と呼べるほど普遍化した時代などありはしない。さらに「完全な遊戯」は「セックスの低年齢化や、性犯罪の多様化、ドメスティック・バイオレンスの横行」など主要素としてさえ書いていないのである。その貧しさは、佐古純一郎の「いったい人間というものを少しでも考えてみたことがあるのか」「作家としての良心を失っていないのなら、少しは自分の言葉に責任を持つがいいのだ」という道徳的お説教とコインの裏表である。

 私たちはより地道かつ地味にテクスト自体を読み込み、作品の主題や作家の性質を明らかにすべきだろう。そしてそのとき、初めて作家・石原慎太郎は非人間的な予言者から人間的な文学者へと引きずり降ろされ、その文章は具体的な吟味と検証の対象になりうるのである。

 

4 ――遊戯と太陽

 1~3のことから推測しうるのは、石原慎太郎にとって「女」とは理性と狂気の境界を曖昧にしてしまうような存在であること、そして理性と狂気のどちらをもって女を補完するにせよ、それに対して「男」は恐れと怒りを覚えなければならないことである。

 文壇的なデビュー作『太陽の季節』と「完全な遊戯」の間には、あからさまな共通項が数多く含まれている。男は女を酔狂で犯し(礼次と武井は女を拉致監禁して犯し、竜哉は英子をナンパして犯す)、自分を愛し始めた女を金絡みで捨ててしまう(自分に「そこはかとない恋情」を持ち始めた女を礼次は売春宿に放り出し、自分に惹かれ付き纏い始めた英子を竜哉は五千円で兄の道久に売り飛ばす)。しかし、それは結局のところ上手くいかず(女は奇行のせいで売春宿から追い出され、英子は裏取引を知って道久に五千円を送りつける)、最終的には女は自分の所作によって死んでしまう(女は礼次によって突き落とされ、英子は竜哉の子を中絶する手術に失敗する)。唯一の違いは、女の死に対して涙を見せるかどうかである(礼次の感情は「身をのり出し、息をのんだままじいっと耳を澄ます彼の耳へ、重く鈍くものを叩きつける音が聞こえた、と思った」という文章の冗長さにしか現れていないが、竜哉は英子の「自分に対する命懸けの復讐」を感じ、遺影に香炉を投げつける)。

 竜哉の物語において、彼は直接的に英子から「何故貴方は、もっと素直に愛することが出来ないの」と問われており、その笑顔の幻影を夢中で殴りつけることしかできていなかった。私見では、石原慎太郎は「完全な遊戯」に至るまでこの問い(「素直に愛することが出来ない」)を抱えていたのではないだろうか。たとえば「処刑の部屋」における克己の物語も同じ問いのもとで読むことができるが、しかし満足な答えを得られたとは言い難いように思われる。そこでは金の問題(良治と竹島)と女の問題(ビールに睡眠薬を入れて犯し、弄んでいた顕子を最後には捨てたこと)がバラバラに展開され、さらに克己自身が「自分に対する復讐」によって「命」の危機に晒される(克己は割れたビール壜で腹を刺される)。そこでは「素直に愛することが出来ない男(主体)」への因果応報は描かれているが、問いそのものへの応答は記されていない。しかるに「完全な遊戯」においては、礼次と武井たちという複数の男から多面的に女を捉えることで、自分にとって「素直に愛することが出来ない女(客体)」とはどのようなものかを簡潔に描き切ったのではないだろうか。そのように考えれば、なるほど本作は――そのジェンダー論的な是非はひとまず置いておくとして――石原慎太郎にとってひとつの文学的達成点であり、優れた作家性の発露なのである。

ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』について ――現代フェミニズムの地平

 ジュディス・バトラー(1956~)は1990年に『ジェンダー・トラブル』を発表した。本書は副題が示すとおり、私たちの性的アイデンティティに何らかのトラブルを起こすための理論書、それを通じて従来のフェミニズムに再考を促すための哲学書だったと言えよう。フーコージェンダー論・セクシュアリティ論に影響された彼女は、生物的性と文化的性の二分法そのものを問いに付し、男女の固定化それ自体が権力の産物であることを浮き彫りにした。そこでバトラーが唱えるのは、異性愛中心主義に対するパフォーマティブな攪乱行為である。

 

 バトラーが攪乱しようとするのは、セックス(=生物的な性)やジェンダー(=文化的な性)やセクシュアリティ(=性的な欲望)としての主体である。従来のフェミニズム理論は「男/女」を固定的な主体として取り扱い、様々な政治的・文化的運動の基盤にしてきたと言えよう。そして、結果としてフェミニズムは「セックス/ジェンダーセクシュアリティ」の強制的秩序に取り込まれ、さらにその秩序を温存かつ隠蔽する役割も担ってしまったのである。

 たとえば現代の論争が不毛な循環を起こすのは、従来のフェミニストジェンダーを軽視していたことに起因している。彼ら彼女らの多くは、ジェンダーをセックスよりも下位に置く二元論的な立場、あるいはジェンダーをセックスの派生と見なす一元論的な立場を採用していた。そのような立場は、結局のところ私たちのアイデンティティをセックスに結びつけ男女を固定化し、私たちのセックスを特権化する「実体の形而上学」に帰結してしまうだけである。実際にはセックスの位相もまた言語を通じて構築され、そして権力を通じて意味付けられるものに他ならない以上、私たちはそれに対する攪乱戦略を立てなければならないのだ。

 バトラーは「セックス/ジェンダーセクシュアリティ」の主体を攪乱することで、性的禁忌が支えている精神分析理論、そして精神分析が再生産している異性愛中心主義に抵抗しようとする。まずレヴィ=ストロース構造主義は、男たちによる女の交換から近親相姦の禁忌を説明しようとするとき、それに先立って同性愛の禁忌を暗黙の前提にしてしまっている。同様にラカン、リヴィエール、フロイトらの精神分析は、男性性と女性性の区別を説明しようとするとき、やはり先立って異性愛の中心化を暗黙の了解にしてしまっているのである。

 ここで同性愛の禁忌は単なる性的禁忌ではなく、性的禁忌とされていること自体がタブーとされているかのような、言わば「ジェンダーのメランコリー(=禁忌の忘却)」状態にある。実際には私たちのジェンダーは複合的なものである以上、構造主義および精神分析のように何らかのアイデンティファイを図ろうとすれば、必ずどこかで理論的限界を迎えてしまうだろう。性的禁忌をめぐる異性愛の中心化は、それらについての現代的議論も含めて権力として作用しているのだ。

 バトラーは異性愛中心主義の権力に抵抗するために、おおよそ攪乱的な身体行為に注目している。しかしそれはクリステヴァのように、固定的な父権制の外部に母性的身体を置く政治であってはならない。またフーコーがエルキュリーヌに言及したように、固定的な男と女の外部に半陰陽インターセックス)を置き、男女の間に不当な非連続性を設ける政治であってはならない。あるいはウィティッグのように、固定的な男と女の外部にレズビアンを置いて身体性を軽視する政治、架空のセックスに逃避する政治であってはならないだろう。これらは全て異性愛中心主義の外部を目指すことによって、逆説的に異性愛中心主義を温存かつ隠蔽してしまうのである。

 バトラーが唱えるのは異性愛中心主義の内部に留まること、そして身体に対するジェンダーの書き込みを通じて、私たちの性的アイデンティティパフォーマティブに攪乱してしまうことである。たとえば同性愛行為における「男役/女役」の書き込み、あるいはトランスジェンダーにおける「男装/女装」の書き込みは、私たちのジェンダーが権力による構築物だったことを明るみに出す。それは男女の固定化と異性愛の中心化をパロディ的に反復する政治的・文化的営み、従来のフェミニズムジェンダー論には肯定することの難しかった営みなのだ。

 

バックナンバ

第1回 http://sunakago.hateblo.jp/entry/2013/05/21/064353

第2回 http://sunakago.hateblo.jp/entry/2013/06/28/082153

第3回 http://sunakago.hateblo.jp/entry/2013/08/22/215255

第4回 http://sunakago.hateblo.jp/entry/2013/10/21/005837