鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

鏡像と自己の奇妙な関係 ――ジャック・ラカンの初期論文集『二人であることの病い』について

 ジャック・ラカン『二人であることの病い』は、三つの症例報告と二つの論考から構成されている。ラカンは「症例エメ」と「パラノイア性犯罪の動機 ――パパン姉妹の犯罪」のなかで他者と自己の奇妙な関係について語り、のちにそれを「鏡像段階論」として整理し主張することになった。

 

 有名な「症例エメ」は次のような内容である。女優のZ夫人を襲撃して逮捕された某女性(=エメ)を分析した結果、彼女が「理想の自己像」を母親・同僚・実姉そして女優のZ夫人に投影していたことが分かる。つまり襲撃事件とは、エメにとっては自身の理想像と刺し違えるため行動に他ならなかったのである。

 人は他者に投影した「理想の自己像」という幻想によって、初めて自身の人生を構成することができる。あたかも、美しい鏡に移る自己像を見て初めて自分が確認できるように。だがエメは最初の理想像、すなわち母親に対する同一化(=愛)が完全な失敗に終わっていた。したがって理想の自己像である他者たち……母親・同僚C・実姉・そして女優のZ夫人に対して嫉妬と憎悪を抱いてしまったのである。「あの人のように幸せになりたい」という気持ちは、簡単に「あの人が私よりも幸せなのは不公平だ」「いや、あの人は私の幸せを横取りしている」という被害妄想に変貌してしまうわけだ。そして事実、エメは「Z夫人は私を中傷している」「Z夫人は私の息子を殺そうとしている」という妄執に憑かれていった……。

 このようなエメの状態を救済するには、〈鏡像と自己〉の閉じた関係に対して第三者の視点を導入してやること、すなわち社会から裁かれることが必要だったのだとラカンは述べている。それはたとえるなら、鏡に映る自己像に怯える赤ん坊をあやしながら、赤ん坊の両親が鏡のあちら側とこちら側を区別してやるようなものだろう。裏を返せばエメは、無意識的には、実はむしろ社会から裁かれて救済を手に入れるためにこそZ夫人襲撃事件を起こしたのである。罰せられるためにこそ悪いことをしようという強迫的な状態、それが「自罰パラノイア」という病に他ならない。実際に法的な手続きを追えたあとのエメは、まるで憑き物が落ちたかのように被害妄想を卒業してしまったのである。

 

 本書のタイトル『二人であることの病い』は、以上のような洞察から来ている。人は常に既に鏡像的他者との閉じた関係において生きるているのであり、だからこそ心を病んでしまうのだ……いや正確に言えば、人は「理想の自己像」との双数的関係から抜け出すためにこそ病を生み出さざるを得ないのである。

象徴交換の死、死の象徴交換 ――ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』について

 ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』(1976)はタイトルが示すとおり、象徴交換の概念と死の概念について説明するものである。象徴交換とは、何らかの商品を現実的な物質として交換することではなく、言わば象徴的な記号として交換することを意味している。そして現代における死は、大量消費社会において交換されうる象徴的な記号のひとつであるとともに、かかる大量消費社会そのものに反乱を起こしうる可能性になりつつあるだろう。結論を先に述べてしまえば、象徴交換の死は「死の象徴交換」においてこそ可能なのである。
 ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』は最初に、従来の通俗的共産主義と通俗的資本主義に共通する生産中心主義の理論を批判している。生産中心主義の理論とは、商品の価値を使用価値と付加価値に区別した上で、付加価値の発生を生産過程から説明しようとする理論のことである。すなわちある商品が高価であるのは、まずその商品自体が大きな有用性を備えているからであり、次にその商品が大きな労働力のもとで生産されているからであると。しかしこの理論においては、大量消費社会におけるブランド品の価格を釈明することができない。あるブランド品が高価であるのは、そのブランド品が大きな有用性を備えているからでもなければ、そのブランド品が大きな労働力のもとで生産されているからでもないのだ。
 ここでジャン・ボードリヤールは、付加価値の発生を生産過程からではなく交換過程から説明するとともに、その交換を現実的物質の交換ではなく象徴的記号(=シミュラークル)の交換として位置付けている。ある商品が高い付加価値を持っているのは、その商品が大きな労働力のもとで生産されていたからではなく、ただ単にその商品がそのような価格で売買されているからであると。しかも私たちがある商品を買うのは、その商品自体が現実的な有用性を備えている物質だからではなく、ただ単にその商品がそのような価格で売買される商品だからなのであると。あるブランド品は単にブランド品であるという理由で高価なのであり、また単に高価であるという理由でブランド品なのである。既にこのことは、マルクスの価値形態論において述べていた。
 要するに本書『象徴交換と死』は、私たちが交換しているものは実は現実的物質ではなく象徴的記号であるということ、そしてその象徴的記号の価値は実際の有用性や生産性とは何の関係もないということを唱えてみせる。商品の価値は、他の商品の価値との差異において取り決められるに過ぎない。あるブランド品は他のブランド品との競争的な関係や協調的な関係のなかで、絶えず変化し続ける様式(=モード)と規則(=コード)に従いながら、自身の価格を高くしてみせたり安くしてみせたりするだけなのである。既にこのことはソシュール記号論において、記号表現(=シニフィアン)が記号内容(=シニフィエ)とは何の関係もなく、他の記号表現との差異において恣意的に規定されるという形で述べられていた。

 物質生産の理論ではなく象徴交換の理論のもとでこそ、私たちは正しい経済思想を構築することができるだろう。かつて生産中心主義の発想に支配された共産主義者たちは、西洋近代的な生産概念のもとで全世界・全時代を把握しようとしたため、その認識と実践を誤ってしまったと言えよう。また生産中心主義に支配された資本主義者たちは、西洋近代的な生産概念のもとで非西洋・前近代を嘲笑してきたために、今まさに世界から手痛いしっぺ返しを食らっている(「同時多発テロを起こしたのは彼らだが望んだのは我々だ」というのはボードリヤールの言葉である……)。実際には交換様式のもとで全世界・全時代を普遍的に把握すること、そしてそこから大量消費社会に抵抗する術を探ることが肝要なのである。
 世界が現在のような近代社会として完成される以前から、象徴的な記号の交換は存在していたと言えよう。すなわち世界が帝国のもとで成立していた時代において、帝国社会が国民住民を支配する代わりに保護するのも象徴交換であり、あるいは世界が氏族社会のもとで乱立していた時代において、氏族の内外において互いに贈与と返礼が繰り返されたのも象徴交換のである。特に重要なのは、あらゆる歴史を通じて行なわれてきたのは「死の象徴交換」ということになるだろう。たとえば呪術や宗教や革命における象徴的記号として、私たちは自分たちの「死」を交換してきたのであり、そしてそのような「死の象徴交換」だけが「象徴交換の死」を……そのときそのときの倫理的な均衡と動揺をもたらす契機だったのである。

虚実の逆説、あるいは反転と崩壊 ――じん『カゲロウプロジェクト』(『メカクシティアクターズ』)論


【MV】daze【Lyrics Ver.】 - YouTube


http://www.nicovideo.jp/watch/sm18406343(チルドレンレコード)
 じん(=自然の敵P)のマルチメディアプロジェクト『カゲロウプロジェクト』は、物語前半において「虚構」と「現実」の逆説的な関係を提示したうえで、物語後半ではその逆説を反転し解体し尽くしている作品だと言える。虚構と現実の逆説的な関係とは「私たちが現実の他者と出会うためにはまず虚構の世界を経由しなければならない」というものである。そしてこの逆説の反転とは「私たちが虚構の他者と出会うためにはまず現実の世界を経由しなければならない」という事態を指し、逆説の解体とは「もはや現実と虚構が区別できない」という事態を指している。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13628080(人造エネミー)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14595248(メカクシコード)
 本作における虚構と現実の逆説的な関係は、まず如月伸太郎にとっての榎本貴音(=エネ)とメカクシ団の関係として描かれ、次にメカクシ団にとってのカゲロウデイズと自分たち自身の関係として示されているだろう。たとえば伸太郎はネットにおいて遭遇したエネ、すなわち決して死ぬことのない人造の少女に導かれることで、初めてメカクシ団に出会うことができる。またメカクシ団の構成員は8月15日にアクセスしたカゲロウデイズ、すなわち決して死ぬことのない仮想の世界を経験することで、初めて互いの絆を共有することができるわけだ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15751190(カゲロウデイズ)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17930619(如月アテンション)
 およそ物語を整理する限り、じんの『カゲロウプロジェクト』においては「現実の他者に出会うために直接的に現実の世界にアクセスする」という素朴な行動は許容されていないように思われる。たとえば如月伸太郎が愛する生身の少女は楯山文乃であるが、既に死んでしまっている彼女を単純に求めようとすれば、彼はそのあとを追い駆けて自殺するほかはない。またメカクシ団の鹿野修哉が愛した生身の女性は実の母親であるが、彼を虐待するような彼女を単純に求めようとすれば、彼はその傷に追い詰められて殺されるほかないのである。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20116702(夜咄ディセイブ)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20470051(ロスタイムメモリー)
 たしかに如月伸太郎にとってエネとの邂逅はおおむねハタ迷惑なものであり、鹿野修哉を含むメカクシ団の構成員にとって、カゲロウデイズでの経験は例外なくトラウマ的なものでさえある。しかし伸太郎が文乃の真実に辿り着くためにはエネという虚構内存在が必要不可欠であり、修哉が真実の愛情に巡り会うためにはカゲロウデイズという虚構の世界がなくてはならなかったのである。たとえばメカクシ団の如月桃と雨宮響也の関係がそうであるように、本作は、虚構を経由して繋がり合った者たちの結束を肯定的に描こうとしているのだ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20671920(アヤノの幸福理論)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21259575(オツキミリサイタル)
『カゲロウプロジェクト』における以上のような虚構と現実の逆説的な関係は、しかし榎本貴音(=エネ)の物語において反転させられ、さらに小桜茉莉の物語において解体させられるだろう。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21513190(夕景イエスタデイ)
 まず逆説の反転(「虚構の他者と出会うためにはまず現実の世界を経由しなければならない」)は、榎本貴音(=エネ)にとっては如月伸太郎と九ノ瀬遥(=コノハ)の関係として描かれている。リアルに生きる伸太郎はエネを通じてメカクシ団と出会うことになったが、裏返せば、ネットに生きるエネは伸太郎を通じて九ノ瀬遥(=コノハ)と出会うことになるわけだ。そして貴音が「目が冴える蛇」の策略によって虚構の存在(=エネ)へと堕落させられたように、遥もまた目が冴える蛇の企図によって、決して死ぬことのない仮構の身体(=コノハ)へと変貌させられていたのである。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16429826(ヘッドフォンアクター)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17397763(コノハの世界事情)
 次に逆説の解体(「もはや現実の他者・世界と虚構の他者・世界が区別できない」)は、小桜茉莉にとっては、そのままこの現実とカゲロウデイズの関係として示されていると言えよう。目が冴える蛇によってメカクシ団の構成員を皆殺しにされたあと、茉莉の力はこの現実そのものをカゲロウデイズと同化させ、8月15日を永久にループする世界に仕立て上げてしまっている。決して死ぬことができない虚構の世界・虚構の存在と、常に死ぬことが可能である現実の世界・現実の存在は、ここでは完全に区別することができなくなっているのだ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16846374(想像フォレスト)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21720819(アウターサイエンス)
 本作は虚構と現実の逆説的な関係(=如月伸太郎、メカクシ団)を提示した上で、その反転(=榎本貴音)や解体(=小桜茉莉)の危険性を指摘しつつ、いかにそれを克服しうるかを課題としているように思われる。当然ながら、エネはコノハと出会うことで満足しているわけではないし、小桜茉莉もまた現実とカゲロウデイズを混交して満足しているわけではない。じんは『カゲロウプロジェクト』の音楽編ではこの解決を示すことはなかったが、小説編および漫画編において、今なおこの反転と解体の危機を乗り越えようとしている。既に完結したTVアニメ編を思い返しながら、私はひとりのカゲプロファンとして小説編と漫画編の完成を待つこととしたい。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21737751サマータイムレコード)


【MV】 days【オリジナル】 - YouTube

TVアニメ『ラブライブ!』第2期について

 TVアニメ『ラブライブ!』は単なる虚構ではないと感じた。おおよそ観客にとっての単なる虚構は、登場人物にとっては単なる現実のはずだ。しかし本作はそうではないのではないか。どちらかといえば、これは、ミューズがミューズの魅力を伝えるために演じたPVのようなものなのではないか。

 TVアニメ『ラブライブ!』におけるミューズは、他のスクールアイドルたちとでさえ対比されない。たとえばアライズとの実力的対決も、アライズとの思想的対立も正面から表象されることはけっしてない。他の登場人物についても同様である。本作にはミューズとミューズの味方だけがいるのだ。ではTVアニメ『ラブライブ!』はミューズのメンバーの多種多様性を描き出しているのかと言えば、そうではない。穂乃果が語り皆が同意するように、彼女たちは最終的には主義も主張も一致してしまった。ミューズが結束してしまえば、主人公の行く手を阻むものは「天候」くらいしかないだろう。

 人物のダイアローグを通じてポリフォニーを描くものが物語であるなら、これは物語ではない。TVアニメ『ラブライブ!』は物語映像というよりはPV映像なのだ。この意味で、本作はTVアニメ『アイマス』とも『WUG』とも異質である。そう捉えなければ本作は正当に評価できないと感じる。

倫理的であること、修辞的であること。 ――西尾維新の〈物語〉シリーズについて(上)

 西尾維新の〈物語〉シリーズは、大きく三つのシーズンに分けられている。まず『化物語』から『猫物語(黒)』までのファーストシーズン、次に『猫物語(白)』から『恋物語』までのセカンドシーズン、そして『憑物語』から『続・終物語』までのファイナルシーズンである。ここで重要なのは、ファーストシーズンの物語に対する吟味としてセカンドシーズンの物語が存在しているということである。前者が何らかの倫理的原則の可能性を打ち立てようとしているのに対して、後者はその倫理観的原則の限界を描き出そうとしているのだ。
 本稿では、まずファーストシーズンで打ち立てられた倫理的原則がどのようなものか検討していく。

 

1 忍野メメ、貝木泥舟、影縫余弦
 ファーストシーズンにおける倫理的原則とは、ひと言で言えば公正な平等主義であり公平な相対主義である。そして、それを体現するキャラクターこそ怪異の専門家・忍野メメに他ならない。
 たとえば『傷物語』では、人間側の都合と吸血鬼の都合は和解不可能なまでに対立している。すなわちドラマツルギー、エピソード、ギロチンカッターは人間側の都合(「怪異に食われてはならない」)を代表し、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは吸血鬼の都合(「人間を食わなければならない」)を代表している。ここで確認すべきは、忍野メメが「バランサー」「あくまで中立」の態度を崩さないということである。彼は人間側の都合が正しいとも吸血鬼の都合が正しいとも言わず、あくまで両者の幸不幸を再分配しようとするのである。
 同じように『猫物語(黒)』では、大人側(両親側)の都合と子供側の都合が和解不可能なまでに対立している。すなわち羽川翼の父親と母親は大人側(両親側)の都合(「子供のせいで苛立たざるを得ない」)を代表し、羽川翼と障り猫(=ブラック羽川)は子供側の都合(「両親のせいで苛立たざるを得ない」)を代表している。そしてやはりここで、忍野メメは「バランサー」「あくまで中立」の態度を崩さないということは指摘すべきだろう。彼は両親側の都合が正しいとも子供側の都合が正しいとも言わず、あくまで両者の価値観を相対化しようとするのである。
 こうした忍野メメの態度を支えている修辞的原理は、ある種のアイロニカルな否認ということになるだろう。
 たとえば『化物語』では、おおよそ五人の少女たちが様々な形で怪異絡みのトラブルに見舞われている。すなわち戦場ヶ原ひたぎのおもし蟹、八九寺真宵の迷い牛、神原駿河のレイニー・デヴィル、千石撫子蛇切縄、そして羽川翼の二度目の障り猫(=ブラック羽川)である。ここで注目すべきは、忍野メメが独自の信条(「自分が助けるのではなく相手が勝手に助かるだけである」)を掲げ、また彼女たちを助けようとする際に「力を『貸す』」という表現を好むことである。彼は明らかに他者を救済しようとするにも関わらず、その功績を否認することを選ぶのだ。
 この韜晦が意味するところは決して小さくないように思われる。改めて言うまでもなく、公正な平等主義と公平な相対主義は自己矛盾の罠に陥りやすい原理である。全体の平等性を維持する己の立場を特権化したり、個々の相対性を保持する己の立場を絶対化したりすれば、それは自分の正義を自分で裏切ってしまうことになるだろう。しかし忍野メメのアイロニカルな否認(「相手が勝手に助かるだけ」)は、言わば救済の過剰な見返りを己に禁じることによって、自身の平等主義相対主義を特権化し絶対化することを防いでいるのである。
 以上のごとき忍野メメの倫理的原則と修辞的原理は、彼と旧知の仲である貝木泥舟および影縫余弦と比較することで明瞭になるだろう。
 たとえば『偽物語』では、主人公である阿良々木暦の妹たちが怪異絡みのトラブルに見舞われている。すなわち長女・阿良々木火憐の囲い火蜂、そして次女・阿良々木月火のしでの鳥である。ここでは貝木泥舟と影縫余弦がそれぞれ、忍野メメの倫理的原則(=公正な平等主義と公平な相対主義)と修辞的原理(=アイロニカルな否認)を片方ずつしか共有していないことに注目すべきだろう。すなわち、貝木泥舟はアイロニカルである代わりに全く倫理的な人間ではなく、影縫余弦は公正かつ公平である代わりに全く修辞的な人間ではないのである。
 彼らの描写を見ることで、忍野メメが倫理的であると同時に修辞的であることの意味合いも分かるはずだ。たとえば貝木泥舟は自身の主義主張を特権化・絶対化するわけではないが、全体の幸不幸を公正に再分配したり、個々の価値観を公平に相対化したりするわけではないだろう。彼は『偽物語』においては卑小な悪人である。また影縫余弦は、全体の幸不幸を公正に再分配し個々の価値観を公平に相対化するが、自身の主義主張を特権化・絶対化してしまう。彼女は『偽物語』においては横暴な善人である。そして、両者とも少女たちのトラブルを収める立場ではなく起こす立場なのだ。

 

2.阿良々木暦
 修辞的な倫理、倫理的な修辞。それが忍野メメの体現するものであり、西尾維新が〈物語〉シリーズのファーストシーズンで打ち立てたものである。そしてそれを学び取っていくキャラクターこそ、半吸血鬼の高校生・阿良々木暦に他ならない。
 たとえば『傷物語』における阿良々木暦のアンバランスで偏った態度は、忍野メメのそれとは極めて対称的である。すなわちキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが殺されかけているのを見れば吸血鬼側の都合に加担し、ギロチンカッターが殺されているのを見れば人間側の都合に加勢するのだ。そして双方の都合を呑み込んでしまえば、身動きを取れなくなるだろう。彼は「バランサー」「あくまで中立」ではなく、吸血鬼側の都合と人間側の都合の双方に引き裂かれ、自分ひとりでは両者の幸不幸を再配分する立場にはいられないのである。
 同じことは『猫物語(黒)』における阿良々木暦の非平等的・非相対的な態度にも当てはまると言えよう。すなわち友人の羽川翼と対話し障り猫(=ブラック羽川)と対話したから子供側の都合に加勢しているのであり、もし羽川翼の両親と対話していたら大人側の都合に加担したかもしれないのだ。そして双方の都合を呑み込んでしまえば、やはり身動きを取れなくなっただろう。「バランサー」「あくまで中立」ではない彼は、両親側の都合を斥けて子供側の都合に寄っているだけであり、両者の価値観を相対化することができていないのである。
 こうした阿良々木暦の態度は、だが忍野メメの倫理的原則と修辞的原理に感化され少しずつ変化していくだろう。
 たとえば『化物語』とは、様々な形で怪異絡みのトラブルに見舞われている五人の少女たちと関わりながら、阿良々木暦が忍野メメ的な原理原則を内面化し成熟していく過程だと要約できる。もちろん、八九寺真宵の件では子供側の都合と両親側の都合を相対化できていないし、千石撫子の件では被害者側の幸不幸と加害者側の幸不幸を再分配できていないだろう。それを可能にしているのは、前者の場合は『傾物語』における自分自身であり、後者の場合は神原駿河である。ここではやはり、彼はアンバランスで偏った態度のままなのだ――それが正義ではなく愛だと誤解されるほどに。
 しかしそれ以外のエピソードでは、阿良々木暦の精神は少しずつ進歩していると言えよう。まず彼は蟹に魅入られていた戦場ヶ原ひたぎと恋人関係になると、彼女に恋をしていた神原駿河との三角関係に陥り、また彼自身に恋をしていた羽川翼との三角関係にも陥ってしまう。ここで問題にすべきは、駿河の件では自分が死ぬことで事態を丸く収めようとしていたはずの彼が、翼の件ではそれを明確に退けた上でキスショットに助けを求めるということだ。直接的にはひたぎの影響を受けたこの転回は、とはいえ結果としては「あくまで中立」「バランサー」の態度に近付いている。
 そして阿良々木暦の変化がある程度の完成を見せる作品こそ、ファーストシーズンの完結編である『偽物語』なのだ。
 具体的には『偽物語』での、貝木泥舟および影縫余弦に対する阿良々木暦の倫理的・修辞的態度がそれに当たるだろう。すなわち阿良々木火憐を傷つけた貝木泥舟に対しては倫理的に振る舞い、阿良々木月火の怪異を殺そうとした影縫余弦に対しては修辞的に振る舞うのだ。ただ単にアイロニズムを振りかざすだけの「悪人」に向けては公正さと公平さをぶつけ(=悪の否定)、ただ単に公正さと公平さを振りかざすだけの「善人」に向けてはアイロニカルな否認をぶつける(=悪の肯定)。そのような形で、彼は忍野メメの原理原則を回復しているのである。
 特に同作において、阿良々木暦が火憐と対峙しながら語る正義論は重要な意味を持つように思われる。正義の味方は他者を救済するために行動しながら、あくまで自分のために行動しているのだと嘯かなければならない――すなわち自身の正義が「偽物」であると宣言しなければならない――以上のような論理を彼は語るのである。これは明らかに、忍野メメの修辞(「相手が勝手に助かるだけ」)と同じ精神を共有していると見なすことができよう。平等主義相対主義に殉じながら、その立場を特権化し絶対化しないためのレトリックがここにはあるのだ。
 修辞的な倫理と倫理的な修辞。そしてそれを内面化し成長していく主人公。それこそ西尾維新〈物語〉シリーズのファーストシーズンにおける主題的骨子である。

ボカロ良曲私的まとめ ――2014年5月&6月

①YM『キラワレ』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23857262

②ATOLS『ユラグ』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23603700

③カラスヤサボウ『共犯者』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23675411

④みきとP『しゃったーちゃんす』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23611330

⑤Task『新宿シック』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23566939

⑥ピノキオP『すろぉもぉしょん』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23648996

⑦やいり『咆哮≒Emotion』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23718775

⑧ぽてんしゃる0『死神のギター』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23857726

 

ヘイトスピーチ、ポルノグラフィ、カミングアウト ――ジュディス・バトラー『触発する言葉』について

 ジュディス・バトラーは『触発する言葉』のなかで、言葉が人を傷つけることについて考察している。ここで具体例として挙げられるのは、ヘイトスピーチとポルノグラフィとカミングアウトの問題である。まず、ヘイトスピーチを取り巻く米国の議論から見ていこう。
 たとえば中傷発言や炎上行為といったヘイトスピーチを擁護する人間は……ヘイトスピーチは単なる言葉に他ならず、それは実際の「傷つける」行為とは区別されると主張している。他方で中傷発言や炎上行為といったヘイトスピーチを批判する人間は……ヘイトスピーチは単なる言葉ではありえず、それは実際の「傷つける」行為とは区別されないと主張しているのだ。もし後者の立場が正しければ、たとえ「表現の自由」が近代国民国家の枠組によって保証されているとしても、私たちはヘイトスピーチを法的に規制すべきだと考えることができる。
 おそらく良識的な「リベラル左派」と呼ばれる人間なら、こうした意見はそこまで呑み込みにくいものではないだろう。では、ポルノグラフィを取り巻く次のような議論はどうだろうか?
 たとえばポルノグラフィを擁護する人間は……ポルノグラフィは単なる表現に他ならず、それは実際の「犯す」「辱める」行為とは区別されると主張している。他方でポルノグラフィを批判する人間は……ポルノグラフィは単なる表現ではありえず、それは実際の「犯す」「辱める」行為とは区別されないと主張するのだ。もし後者の立場が正しければ、たとえ「表現の自由」が近代国民国家の枠組によって保証されているとしても、私たちはポルノグラフィを法的に規制すべきだと考えることができる。そう、この議論はヘイトスピーチのそれと全く同じ形式のものなのである。
 おそらく良識的な「リベラル左派」と呼ばれる人間なら、前半のヘイトスピーチの規制について同意することはできても、後半のポルノグラフィの規制に同意することは難しいかもしれない。あるいは貴方はラディカル・フェミニストとして、ヘイトスピーチの規制とポルノグラフィの規制に両方とも同意し、曖昧な「リベラル左派」の潜在的な性差別主義を非難するかもしれない。しかしそれなら、カミングアウトを取り巻く次のような議論はどうだろう?
 これは2011年までの有名な話だが、米軍の内部では同性愛のカミングアウト(同性愛の自己宣告)が禁じられていた。同性愛のカミングアウトを擁護する多くの人間は……同性愛のカミングアウトは単なる表現に他ならず、それは実際の同性愛行為とは区別されると主張していた。他方で同性愛のカミングアウトを批判する米軍の人間は……同性愛のカミングアウトは単なる表現ではありえず、それは実際の同性愛行為とは区別されないと主張しているのだ。のみならず、同性愛のカミングアウトは米軍の内部に同性愛を「伝染させる」ものであると。
 どのような「リベラル左派」やラディカル・フェミニストであろうと、このような暴論に同意するわけがないことは明らかである。しかし同時に、以上のヘイトスピーチとポルノグラフィとカミングアウトを取り巻く議論は、明らかに全く同一の形式によって展開されているのだ。要するに擁護派は「それは単なる表現である」と言い、批判派は「それは単なる表現ではない」と言っているのである……表現を巡る議論は規制するしない以前に、そもそも単なる表現か否かを問う必要があるわけだ。いったい、ここで論理的に首尾一貫した立場を持つことはできるのか?
 ジュディス・バトラーの立場は……あらゆる言葉は単なる言葉ではありえず、それが実際の行為と区別されないことを認めるものである。それゆえに、バトラーは表現の規制に関しては「基本的に」慎重である。むしろ言語が行為と区別されないがゆえに、私たちは言語によって人種差別主義者のヘイトスピーチと戦い、性差別主義者のカミングアウト規制と戦うことができるのである。具体的実践によって。もし言語の規制に同意するならば、私たちはあらゆる言語と行為の自由を権力に委託してしまいかねない……それはたぶん望ましい事柄ではないはずだ。

 

初著『ジェンダー・トラブル』について
 ジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル』において、生物的性と文化的性と性的欲望が相互浸透を起こしていることを分析し、そして構造主義精神分析異性愛中心主義を再生産していることを暴露した。これは生来的で固定的な性的アイデンティティを想定する立場に批判を加え、女であることを基盤にしてきたフェミニズムに再考を促すものであった。バトラーのフェミニズムにとって重要なのは、構造主義的・精神分析的な異性愛中心主義を攪乱するための身体行為、すなわちジェンダーの秩序をトラブルに陥れるための具体的実践なのである。

 

(この記事はシリーズ「現代フェミニズムの地平」第6回として書かれました)