鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

綾辻行人と本格ミステリの倫理――『十角館』『時計館』『アナザー』

綾辻行人は、一般的に新本格ムーブメントの旗手として知られている。そして、本人もその役割を積極的に引き受けてきたように思われる。たとえば彼は、デビュー作『十角館の殺人』において、次のようなセリフを書いている。 「僕にとって推理小説は、あくまで…

被選択の排除――『ロボティックス・ノーツ』のためのノート

前回のおさらい 『カオスヘッド』の物語には、「選ばれること」はあっても「選ぶこと」がない。たしかに、主人公である西條拓巳は、咲畑梨深に承認されるか否かをめぐって苦悩する。しかし、たとえば梨深と優愛のどちらを愛すべきか、梨深と七海のどちらを助…

これは「母性」ではない。――『おおかみこどもの雨と雪』論

雨と雪について 雨と雪は、どちらも成長するにつれて「狼」と「人」のあいだで苦悩する。だが、その結末はきわめて対照的である。雨は「狼」として動物たちに融け込み、雪は「人」として学校に慣れ親しんでいった。この対比は単なるおとぎ話ではなく、もう少…

回避された選択 ――『ロボティックス・ノーツ』のためのノート

はじめに 『ロボティックス・ノーツ』は『カオスヘッド』と『シュタインズ・ゲート』から続く科学アドベンチャーシリーズの第三弾だ。このシリーズは、その世界観や登場人物の一部を同じくしている。そのため、もしも『ロボティックス・ノーツ』を論じようと…

『BLACKPAST vol.2』に文章が載ります。

お知らせです。 2012年夏のコミックマーケット三日目、8月12日(日)に発売される『BLACKPAST vol.2』に、拙稿を載せていただくことになりました。タイトルは、「「95年」と桃果の倫理――幾原邦彦『少女革命ウテナ』『輪るピングドラ…

『動ポモ』と『ゲーリア』、『クォンタム・ファミリーズ』について ――東浩紀と柄谷行人(第四回)

東浩紀は、『クォンタム・ファミリーズ』(二〇〇九)で本格的に小説家としての活動を始める。それまでにも、桜坂洋らとの共著で「ギートステイト」『キャラクターズ』といった作品はあったが、ひとりで小説を発表したのは『クォンタム・ファミリーズ』が初…

長井龍雪作品における「見る」ことと恋愛。 ――『あの夏』から『あの花』『とらドラ!』へ

なぜこんなにメガネをかけた登場人物が多いのか。長井龍雪『あの夏で待ってる』の物語を動かす六人のうち、三人がメガネをかけている。これはアニメの伝統から言って、いささか大きな割合を占めすぎではないだろうか。メガネはたんなる物体ではなく、キャラ…

遅延すること、それが新房の正義だ ――『偽物語』から『まどマギ』へ

新房昭之が監督したTVアニメーション『偽物語』を観ながら私は、新房作品に共通するテーマにようやく気づきつつあった。この作品は、ある種の目の肥えた人々には「内容がない」と評されているらしい。だが、それはあまりに「早まった」評価だと言わざるを…

『一般意志2.0』について ――東浩紀と柄谷行人(第三回)

東浩紀は『一般意志2.0 ルソー、グーグル、フロイト』(二〇一一)を書く前に、似たテーマで「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」と「情報自由論」の二つを書いている。だが、これらは書き手にとって満足のいくものではなかったらしく、単行本にはな…

「上手な文章」を目指さなくてもよい理由

今回は、小説の書き方に関わることがらについて話をしようと思います。せっかく文芸サークルなんてものに入っていることですし、たまには。 内容はタイトルのとおりです。私たちは小説を書くときにせよなんにせよ、普通「上手い文章」を書こうと心がけていま…

『郵便的不安たち』について ――東浩紀と柄谷行人(第二回)

そもそも、東浩紀にとって柄谷行人とはどのような存在だったのか。それを問うことは、柄谷行人にとって東浩紀がどのような存在だったのかを知ることに繋がる。てっとり早いのは、『郵便的不安たち』(一九九九)を読むことだろう。この評論集は『郵便的不安…

『ブラック・スワン』はAKBだ。

映画『ブラック・スワン』を観ながら、私は目の前のバレリーナの物語をそのままバレリーナの物語とは受け取っていなかった。「これは要するに、AKB48のことではないか!」と感じていた。もちろん、AKB48の秋元康氏がトマスのようなことをしている…

『存在論的、郵便的』について ――東浩紀と柄谷行人(第一回)

東浩紀のデビュー作『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』(一九九八)は、従来のデリダ観を覆したことで知られている。ふつう私たちは、デリダの思想の変遷を次のように理解している。すなわち、六〇年代において彼は「脱構築」の理論について語り…

もしも人工知能がピーター・シンガー『実践の倫理』を読んだら

ピーター・シンガーは、倫理の適用範囲を人間以外、すなわち「動物」にまで拡大させたことで知られている。それは、彼が「最大多数の最大幸福」を重んずる功利主義者であることと関わっている。ここでは「幸福」が、シンプルに「苦痛ではないこと」として捉…

性愛にとって死とはなにか? ――戸田誠二、唐辺葉介、島尾敏雄

1 戸田誠二の短編「小さな死」では、とある感染症患者(「血液感染あるいはセックスでうつる」病、とだけ記されている)たちと主人公との関わりが描かれている。一人目は小学生時代、差別と偏見に満ちたクラスのなかで、学校に通い続けていた「彼女」。二人…

Antiseptic氏に応答する。――『魔法少女まどか☆マギカ』試論

先日『まどマギ』についてツイートしていたところ、Antiseptic氏からリプライを頂いた。そこでは氏のブログ『消毒しましょ!』の記事「少女たちは何を間違えたのか」のURL( http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20110226/p2 )とともに、私の『まどマギ』…

嘘をつくことは悪なのか? ――シュタゲ、まどマギ、ピンドラ、そして乙一

他者の言葉もまた、「私という他者」に応じてその形を変える。従って、代弁することや自分から語らせること、合意を取り結ぶことや自由に選ばせること、そのいずれも倫理的正当性を完全には保証しない。ここから導き出されるのは、私たちには他者の言葉が本…

あなたは「私は弱者だ」と言えるか? ――思想、震災、サブカルチャー――

ここに、あなたから見て明らかなハラスメントを受けている人がいる。仮に、名前をAさんとしておこう。このAさんを悲惨な状況から救うために、Bさんという別の人が「Aさんが嫌がっているじゃないか、やめろよ」と声を挙げる。しかし、Aさんはそれに応え…

果たして「他者」はどこにいるのか? ――『シュタゲ』と『クオリア』

『シュタインズ・ゲート』は、その物語から『紫色のクオリア』と比べられることが多い。どちらも、大切な人が死んでしまったために、主人公がタイムリープを繰り返してその人を救おうとする点が共通している。『シュタゲ』ならば岡部倫太郎が椎名まゆりを、…

BLと百合のフェミニズム

ここ一年で、BLと百合に対する見方が大きく変わった。むろん、その二、三年前ではまた別の見方をしていたので、これから変わっていく可能性も大いにある。とはいえ、少し考えをまとめておく必要があるだろう。 たとえば、私は一年前「BLや百合は同性愛者…

「ポスト・エヴァ」など存在しない。――『エヴァ』試論2――

したがって、『エヴァ』はレイとアスカの二項対立ではなく、レイとアスカとミサトとカヲルの四項対立で考えるべきである。「セカイ系」や「ポスト・エヴァ」といった枠組みさえ外せば、そうしない理由はどこにもない。 そもそも、レイとアスカが本当に対立し…

今週はなにも書きません。

というのも、本当は宇野常寛『ゼロ年代の想像力』への疑問点などをまとめた文章を載せる予定だったのです。 が、その一部をツイートしていたところ、当の著者本人からの反論リプライが届きました(ちなみに、氏のリプライは私のツイートへの反論としては成立…

「現実に帰れ」はなぜ間違っているか。――『エヴァ』試論――

『新世紀エヴァンゲリオン』における最後の二話や旧劇場版は、しばしばそのメッセージを「現実に帰れ」という一言で括られがちだ。すなわち、オタクはアニメという虚構に逃げ込まずに、たとえ「気持ち悪い」としても現実を受け入れろ、萌えキャラではなくア…

性的なもの、政治的なもの(下) ――大江健三郎『性的人間』論――

オイディプスと戦後日本 先ほどわたしは、ラカン派精神分析によれば最初の法とは父であると述べた。母と子の関係を断ち切り、子に名を与える父の存在(父の名=否)である、とも。では、Jという名をJに与えた者とは、父とは誰を指すのか。「そもそもその青…

性的なもの、政治的なもの(上) ――大江健三郎『性的人間』論――

代理=表象、そして法の裁き「性的人間」という作品に対し、作者である大江健三郎本人は次のようなことを述べている。「「性的人間」と「政治的人間」。政治的に牝になった国の青年は、性的な人間として滑稽に、悲劇的に生きるしかない。政治的人間は他者と…

名和晃平「シンセシス」とデジタルな視線

1 その展示は、何回でも順路を辿ることができた。 初めの部屋にあるのは、四角い箱の数々だった。その内側にはそれぞれ植物や椅子、食べものや靴が収められているらしい。しかし目をこらし、また見る場所を変えると、内側のオブジェは揺らぎ、二重になり、…

メディアアートと内面、そしてオリジナル性

1 メディアアートの意義 メディアアートとはどういったものか? もしそれがメディア(媒介)を要とするアート(芸術)だとすれば、あらゆるアートはメディアアートにならないか。絵と字を描きつける壁も、音と声を載せ運ぶ空気も、また一つのメディアなのだ…

記号として、匿名として――津村記久子『ポトスライムの舟』論

工場で働く二九歳の女性ナガセは、自分の年収と世界一周旅行の費用が、同じ一六三万円であることを知る。「働く=時間を金で売る」虚しさへ立ち向かうように、ナガセはその日から得る一年分の「金=時間」を、世界一周という行為のために蓄えようとする。しか…