鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

性愛にとって死とはなにか? ――戸田誠二、唐辺葉介、島尾敏雄


 戸田誠二の短編「小さな死」では、とある感染症患者(「血液感染あるいはセックスでうつる」病、とだけ記されている)たちと主人公との関わりが描かれている。一人目は小学生時代、差別と偏見に満ちたクラスのなかで、学校に通い続けていた「彼女」。二人目は大学生時代、差別や偏見のない友人に囲まれながら、だからこそ「死」への恐怖に苛まれていた「彼女」。三人目は現在、主人公の恋人である「彼」。この短編では主人公が、セックス(正しくはオーガズム?)は「小さな死」という意味なのだと知るところから始まり、彼とのセックスのなかでその意味を自分なりに理解する場面で締めくくられる。
 「キスもします。セックスもします。気を付ければ100%うつりません。/が、私はそのたびにいつも、ある種のカクゴをします。/これで死ぬかもしれない。でもいいと。/泣けるのはこんな自分が嬉しいからです」
 この独白を読むだけでは、なぜ主人公が「小さな死」を理解したのかが完全には分かりにくい。というのもこれは、「感染していない私」と「感染している彼」という条件があって初めて成り立つ独白だからだ。むしろこの短編において重要なのは、主人公と「彼」の関係に先立って二人の「彼女」が描かれていることの方だ。そこでははっきりと、愛に満ちた関係のなかで、だからこそ「死」に怯えなければならない人間の姿がある。これは決して特定の病に限られた問題ではない。私たちは自分が必ずいつかは死ぬのだということを、常にすでに忘れ去ることで生きている。それを思い出して怖がるのは、むしろ自由で平等で友情や愛情に溢れた環境においてなのだ。もし不自由で不平等で愛も情もない場所で生きていかなければならないとしたら、私はさほど「死」を怖がらないに違いない。なぜなら、生きることに大して価値を見出せないからだ(実際、そういうときには食を絶ったりアルコールを採りすぎたりしてしまう)。
 愛し愛されるとはしたがって、「死」を見つめなければならないことを意味する。私があなたを「かけがえのない存在」と捉え、あなたも私をそう捉えるとき、その交換不可能な生が失われてしまうことは致命的な恐怖になる。主人公が「死んでもいい」と思える自分が嬉しくて泣くのは、その感情が「愛」と「死への恐怖」に裏打ちされていることを知っているからだ。もちろん、人間が交換不可能であり生が必然的だ、などというのは単なるまやかしにすぎない。だが愛や倫理とは、そのまやかしをリアルなものとして引き受けることなのだ。「愛になんの意味があるのか」「なにが目的の倫理か分からない」と嘲笑おうとするリアリストたちは、この点で間違っている。逆だ。愛が意味をつくり、倫理が目的をつくる(本筋を離れて愚痴を書くならば、カント主義を「無根拠だ」という理由で否定する人の俗流リベラリズムが凡庸で空疎なのは、自分自身の無根拠性さえろくに見据えていないためだ)。


 唐辺葉介ドッペルゲンガーの恋人』が描く物語は、以上のような問題意識を延長したものとして読める。研究員である主人公ハジユウジは、死んでしまった恋人・木原慧の全ての記憶を恋人のクローンに植え付け、新しい生活を始める。しかしクローンは自分が木原慧と同一人物であることを受け入れられず、主人公と諍いを繰り返す。結局、主人公はクローンと別れることになるのだが、そこに至るまでに慧が投げかける言葉は決して主人公に届くことがない。
 「じゃあ教えてください。そのとき、どんな気分でしたか? 木原慧がそこで死ぬのは、哀しかったですか? だって、その時にはもう、私が作り出されることが予定されていたわけじゃないですか。だから、目の前のこの女が死んでもどうせスペアがあるって、そんな気持ちになったんじゃないですか?」
 ここでの彼女の苛立ちは、先ほど述べた「愛」と「死」の分かちがたい関係が崩れていることによる。「あなたはかけがえのない存在だ」と語るのが愛であるならば、あなたと交換可能な人間は存在してはならないからだ。よって、彼女の存在が主人公に訴えるのは「私が木原慧であると思うならば愛してはいけないし、愛しているならば私は木原慧であってはいけない」というメッセージになる。主人公はこの言葉に「きみは木原慧であり、きみを愛している」という食い違った言葉を返すばかりだ。のちに主人公は「きみは木原慧ではないが、きみを愛している」と言うようにもなる。だが彼女からすれば、それもまた単なる欺瞞的な転向でしかない。もし彼女を木原慧ではないと思うなら、それまで木原慧として愛していた事実・甦らせた記憶と折り合いがつかないからだ。もし主人公が彼女を愛するために「きみは木原慧ではない」と認めるならば、もともと主人公の愛の対象は木原慧だろうとなかろうと、なんでもよかったということになる。したがって、彼女は主人公に「きみを愛していない」と言われることしか望めない。たとえ彼女が主人公を心の内で愛していたとしても、そうなのだ。
 このジレンマを解決する一応の方法はなにか。主人公ではなく、別の誰かに愛されてもいいだろう。にもかかわらず彼女は主人公を愛しているために、この作品の結末はきわめて歪なものとなる。すなわち彼女を諦めきれない主人公ハジユウジは、彼女と別れたあと今度は自分のクローンをつくるのだ。同じく全ての記憶を植えつけられた彼は、彼女と再会し愛し合い始める。それは彼女にとってハジユウジでありながらハジユウジではないために、木原慧であって木原慧ではない彼女と完全に条件を同じくする。二人はこの世界で「完全に」交換可能な存在であるがゆえに、却って特別な交換不可能性を得るのだ。もちろん、彼らの幸せはオリジナルのハジユウジが家を訪れることによって相対化される。
 こうした事態はSFのなかでだけ起こるものではない。私は「あなたはかけがえのない存在だ」と語りかけることであなたを愛そうとする。しかし、繰り返すようにこの言葉自体はまやかしなのだ。私とあなたが出会ったこと、愛し合うようになったことは偶然による。ひとたびこの偶然性、交換可能性が明るみに出されるとき、私たちの愛は危機に晒されてしまう。たとえばあなたの愛の対象が変わったり増えたりしてしまうような場合、私は「あなたの愛の対象は、べつに私でなくてもよいのだ」と悟るほかない。木原慧の場合がまさにそうなのだ。彼女はクローンとして、主人公の愛の対象として「増やされた」存在なのだから。また、相手の元恋人の存在に心を苦しめられる人もまた、この偶然性、交換可能性に晒されているのだと言えるだろう。彼らに「たしかに昔は別の人が好きだったけど、今はあなたしか好きじゃない」と言ってみても逆効果だ。なぜなら彼らにとって、あなたの愛はもはや「その程度」でしかなくなるから。


 島尾敏雄『死の棘』は、主人公である夫トシオの十年間に渡る不倫に妻ミホが心を壊すところから始まる。妻は夫の過去を暴き立て、ことあるごとに責め立てる。夫がどれだけ許しを乞い、心を入れ替えようとしても認めないのだ。まるで、夫が不倫男から真人間になることさえ拒むかのように。
 「死にますとも。そうすればあなたには都合がいいでしょ。すぐその女のところに行きなさい。けどあなたとちがってあたしは生涯をかけてあなたひとりしか知らないんですからね。これだけははっきり言っておきます。しっかり覚えていてくださいね。あなただけがあたしのいきがいだったんだわ」
 妻ミホは夫一人しか愛したことがないし、愛そうとしない。そんな妻にとって夫が心を入れ替えて別人のようになることは、もはや愛の対象が変わってしまうために耐えられない。妻は必然で交換不可能な「この夫」を愛しているのであって、「この夫」以外の夫に彼がなってしまうことは「この夫」の「死」を意味する。彼女の狂気は、愛の対象がこのまま変わらないことを決して許さない一方で、変わることも認めないところから来ている。しかもこの狂気は、愛が偶然で交換可能であることを厭うごく日常的な感性から出発しているのだ。結果として、夫は妻と同じかそれ以上に心を壊し、何度も心中を試みては失敗を繰り返す。変わることも変わらないことも許されないなら、人は自分ではなく時間の方を止めるしかない。先ほど述べた問題と似たジレンマを描くこの作品は、確たる解決を持たないために救いのない閉塞を抱えている。
 初めに私は「愛」と「死」が分かちがたい関係になっていると述べた。しかし愛の偶然性と交換可能性に触れたとき、私たちはそれとどう向き合い、再び「死」の概念へと結び合わせるべきなのか。愛などしょせんそんなものだと皮肉ればいいのか、目をそらせばいいのか、必然で交換不可能な愛(たとえば「神」への愛?)を求めて生きればいいのか。違う。そうではなく、偶然性と交換可能性をポジティブに捉え直すことができるのではないか。たとえば、「私の愛の対象はべつにあなたでなくとも構わない。だからこそ、あなたがあなたでなくなっても私は愛する」という風に。愛の対象がいくらでも変わりうることを肯定するのが、いつクローン木原慧や妻ミホになるかもしれない私たちに残された道だ。人は時間とともに移り変わり、あるいは年老いていく。ミクロなレベルでの自己同一性など存在しない。そうして過去のあなたと現在のあなたが別人であるならば、私はもともと「たった一人」を愛することなどできないのだ。あなたも私も「複数」であり、これから少しずつ、何度でも「死」と「再生」を局所的に繰り返す。その度ごとに、私はあなたをかけがえのない愛の対象として捉え直そう。なぜなら、愛とは偶然で交換可能なものだから。その意味で、私はオーガズムが「小さな死」であることを理解する。愛する人のために「死んでもいい」と思うとき、私は「実際に、少しだけ死んでいる」のだ。過去あなたを愛していなかった私は消え去り、新しく生まれ変わる。