鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

『一般意志2.0』について ――東浩紀と柄谷行人(第三回)

 東浩紀は『一般意志2.0 ルソー、グーグル、フロイト』(二〇一一)を書く前に、似たテーマで「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」と「情報自由論」の二つを書いている。だが、これらは書き手にとって満足のいくものではなかったらしく、単行本にはなっていない(のちに『情報環境論集』(二〇〇七)という名でまとめて収録されてはいる)。『一般意志2.0』は、東にとって「三度目の正直」とでも言うべきものだった。それを読む前にまず、私たちはこの二つの論文を読まなければならない。それによって、『存在論的、郵便的』から『一般意志2.0』までの流れを示すことが容易になる。この流れを通して分かることは、『存在論的、郵便的』において示された郵便的、精神分析的脱構築が、具体的な主体のモデル、国家のモデルとして練り直されていることだ。

 一九九七年から二〇〇〇年まで連載された「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」は、タイトルのとおりの問いに貫かれている。コンピュータのつくり出す仮想世界は、なぜ「空間=スペース」の隠喩で語られなければならないのか。そして、その隠喩はコンピュータのどのような可能性を隠してしまっているのか。第一の問いには、きわめてシンプルな答えが出される。すなわち、情報メディアと精神分析はもともと深い関わりがあったから、というものだ。フロイトの精神分析は主体のモデルを、様々な情報が行き来する空間(スペース)として捉えていた。このことは『存在論的、郵便的』のなかで、「郵便空間」という名のもとに語られていたことだ。したがってコンピュータという情報メディアがつくり出す仮想世界も、この空間(スペース)という隠喩に囚われることになるというわけだ。

 情報メディアと精神分析には深い関係がある、というアイデアが核になってこの論文とそれに関する小論文は動かされる。たとえばヴァルター・ベンヤミンは、「映画」と精神分析とを並べていた。映画と精神分析のいずれも、ものごとの全体と細部とのズレを「速度」の問題によって示していたのだ。細部を拡大すると、全体とは異なるメカニズムが見出されることがある。ドゥルーズ=ガタリは、全体としてはオイディプス・コンプレックスが見出される精神の細部に、より多様な欲望の流れがあることを見ていた。それが「速度」の問題だ、というのはどういうことか。次のとおりだ。映画はスローモーションによって人間の動きの細部を見せ、その人間が意識していなかった動きを明るみに出してしまう。そして精神分析において無意識と意識は、そこで流れる情報の「速度」の差異によって説明されていたのだ。無意識で流れる情報は速すぎるため、私たちの意識に上ってこない。フロイトは精神分析家に、この無意識を感じ取る情報メディア(無意識機械)たることを求めた。以上のようなことが「精神分析の世紀、情報機械の世紀――ベンヤミンから「無意識機械へ」」(一九九六)では語られている。

 したがって、サイバースペースが空間(スペース)という隠喩に囚われる必要はない。その隠喩は、コンピュータが精神分析を書き換えてしまっているような可能性を隠しているのだ。詳しく見ていこう。フリードリヒ・キットラーは、ジャック・ラカンの精神分析もまた情報メディアの影響下にあったことを指摘している。たとえば、ラカンは主体を想像界(イメージ)・象徴界(シンボル)・現実界(リアル)の三つに分けてモデル化している。これらがそれぞれフィルム、タイプライター、グラモフォンの三つに当たるというのだ。また、主体・自我=仮面・他者の三つにそれぞれ映写機・スクリーン・観客の三つが当てはまるとしている。しかし、新しく現れたコンピュータはこれら三つのメディアの特徴を全て備えている。なにより、そのスクリーンは想像界(イメージ)と象徴界(シンボル)を区別しない。そこでは、図像ファイルとテキストファイルがひとつの平面の上で処理されているし、いわゆる「カメラアイ=構造化」が存在しない(超平面化)。

 だとすれば、新しい情報メディアに見合った新しい主体のモデルが求められるだろう。それが先ほどの「映写機モデル」に代わる「データベースモデル」と呼ばれる。東浩紀はモダンからポストモダンへの移行を語るとき、それをなによりも情報メディアの移行によって語る。たとえば、ポストモダンでは近代国家のイデオロギー(大きな物語)が弱まると言われている。東はそれを端的に、コンピュータ・スクリーンの台頭による象徴界(シンボル=言語・社会)の弱体化と結びつけてみせる。映写機のような単一の主体ではなく、データベースのようにいつでもアクセスできる無意識的記憶としての主体というわけだ。こうしたモデルによって説明可能になるのは、七〇年代から急増した多重人格(解離性同一性障害)だ。ときと場合によって異なる記憶を持つ自我(人格)が立ち現われてしまうのは、言わばアクセスしたデータベースの場所が違うからなのだ。これは、単一の主体から病を説明する従来のモデルよりも遥かに明快である。

 ところで、ジャック・ラカン想像界(イメージ)と象徴界(シンボル)の区別は、そのまま「動物」と「人間」の区別を意味している。ラカンははっきりと、動物は想像界しか持たないが、人間は想像界象徴界の二つを持っていると述べている(なお、現実界はその定義からして「持つこと」ができない)。この人間中心主義は、マルティン・ハイデガーと構造を同じくしている。ハイデガーは、人間には「世界を持つ」、動物には「世界が貧しい」という形容をしている。かつてジャック・デリダが批判したのはハイデガーの人間中心主義だったが、東浩紀は同じ批判をラカンの精神分析にも当てはめようとするのだ。データベースモデルにおいて想像界象徴界が区別されないことは、以上のような人間中心主義批判をもとに新たな主体のモデルを立ち上げたという意義も持っている。のちに東はアレクサンドル・コジェーブをもとに「動物化」という語を用いてポストモダンの生を語るが、それはデリダの「動物」が基盤にあるのだ(「想像界と動物的回路」(二〇〇〇)と『動物化するポストモダン』(二〇〇一)を参照)。

 あとで柄谷行人を読むときに重要となる箇所なので、もう少し深く追っておこう。ラカンの象徴界(シンボル)における言語とは、「音声」言語のみを指している。それはフェルディナン・ド・ソシュールの整理に従い、シニフィアン(意味を示す言葉)とシニフィエ(示される意味)の二つに分けられる。さてラカンは、シニフィエのないシニフィアンがたったひとつあると言い、それをファルス(象徴的なペニス)と名づけた。それは意味を持たないがゆえに、他の全てのシニフィアンを統御する役割を担っている。ペニスのある/なしは男(父)/女(母)を分ける。その「ある/なし」の象徴たるファルスは具体的にはなにも指し示さないが、そのことによって全ての「ある/なし」を指し示すのだ。それが象徴界を裏側から支えている(表側から支えるのは父=法だ)。デリダが批判するのは、この音声中心主義に他ならない。したがって「文字」言語=エクリチュールが導入される。一度に複数のものを意味に届いたり、またどんな意味にも届かなかったりするエクリチュールは、ファルスの特権性(たったひとつのシニフィエなきシニフィアン)を打ち崩してしまう。そう、郵便空間による否定神学脱構築だ。

 話をもとに戻そう。新しい主体のモデルを考えるということは、新しい主体化のモデルを考えることを意味している。かつてミシェル・フーコーは、近代の権力型を「規律訓練型権力」と呼び、それによって人は主体化するのだと考えた。学校、病院、そして監獄において人はルールを守らされ、訓練される。やがて人は権力を内面化し、誰もなにも言わなくても自らルールを守るようになる。これが規律訓練型権力と呼ばれるものであり、それはたとえばイデオロギーによって支えられてきた。フーコーの死後、ジル・ドゥルーズは規律訓練型権力に代わる新たな権力の到来を告げている。東浩紀はこれを受け、二〇〇二年から二〇〇三年まで連載した「情報自由論」において「環境管理型権力」を描き出した。そこでは人は単一の主体を形づくるのではなく、データベースの設計(アーキテクチャ)によって管理される。たとえば、インターネット上で他人を中傷するような発言をどう禁じればいいのか。規律訓練型権力はここで教育などによって、他人を傷つけてはいけないというルールをイデオロギーのもと内面化させるだろう。しかし、環境管理型権力はそのような「抑圧」を行なわない。単純に、中傷と思わしき言葉がインターネット上に表示されなくなるようなサービスをみんなで共有すればいい。私がどれだけひどい言葉を書き込もうと、それは誰にも届かなくなるだろう。「抑圧」ではなく「排除」というこの移行は、フロイトにおける「抑圧」とピエール・ジャネにおける「解離」という精神分析の黎明期にあった二つの(病に関する)説を下敷きにしている。東浩紀にとってのポストモダンとは、これら二つの権力が並行して振るわれる二層社会の到来のことだ。私たちは抑圧には抵抗できるが、排除=解離には抵抗できない。なぜなら、そもそも排除=解離されていることに気づけないようにされているからだ。ではどうすればいいのか?

 

  *

 

 『一般意志2.0』はジャン=ジャック・ルソーの概念「一般意志」を、フロイトの精神分析を踏まえた上で、グーグル社に代表される数多のネットワークサービスに関連させている。「一般意志」とは、個々の人間が持つ意志「特殊意志」を単に合わせたもの「全体意志」と区別されるものだ。それは特殊意志の「差異」を合わせたものであり、政府の「外側」に置かれる主権だと定義されている。また、全体意志が誤ることがあるのに対して、一般意志は定義の上で決して誤ることがない。東はルソーを読みながら、それが数学的な存在であり、ヒトの秩序ではなくモノの秩序に属するのだと述べている。なによりも注目すべきは、一般意志について「コミュニケーションが必要ない」という一文をルソーが残したことだ。「もし、人民が充分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケーションも取らないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はつねによいものとなるであろう」と。

 政治においてコミュニケーション(熟議)の必要がない、という点にこそ東浩紀は目を向けている。普通、ルソーは個人の自由を謳う思想家(『告白』)でありながら、個人と社会の融合を謳う思想家(『社会契約論』)でもあったことを一種の分裂として解釈されていた。しかし、それは分裂ではなかった。ルソーは政治においても、個々の人間がヒトの秩序(コミュニケーション=熟議)ではなく、数学的なモノの秩序に従うことをよしとしたからだ。東はこの概念が、インターネット社会のなかですでに実現しているのだと言う。たとえばグーグルの検索機能は、そこにアクセスする全ての人が行なった検索をデータとして集積している。たとえば「夫」と「殺したい」という二つの言葉を同時に検索する人が多ければ、次に誰かが「夫」と検索したときに「殺したい」という語も検索候補として表示されるようになる。これが一般意志(より正しく言えば「一般意志2.0」)だ、というのが東の主張だ。

 フロイトと情報メディアには深い関わりがある、というのはすでに述べた。この「殺したい」は人々の無意識の可視化だ、と考えられるのだ。もちろん、だからといって全ての夫たちを殺すわけにはいかない。ただ、現代の日本社会における夫婦の関係になんらかの問題があるのだ、ということは明るみに出される。政府はこの「殺したい」を無視すべきだが、しかし無意識のうちになんらかの政策決定の際には参考にしてしまう。それを、東は「空気を読む」という言葉で表している。コミュニケーション=熟議は否定されないが、それは一般意志=無意識によって制限されるのだ。すなわち、社会を「公(国家)」「私(個人)」の二項でヘーゲル的に捉えるのではなく、「共(データベース)」の第三項を加えて考えることを東は提唱している。そう、一般意志2.0=明るみに出される無意識とはデータベースであり、かつてサイバースペースと呼ばれていたもの、幽霊の漂う郵便空間のことだ。

 東が目を向けるのはグーグルの検索候補機能に限らない。たとえば現在、配信される動画にコメントを流せるニコニコ動画というサービスがある。東は、政治的なコミュニケーション=熟議をニコニコ動画の生放送で流すべきだと提案する。エリートたちはコメントを無視していいが、しかし無意識のうちに空気を読むだろう。閉じた体系が幽霊によって脅かされること、それによってイデオロギー的偏りが攪乱されることに私たちの可能性がある。かつて規律訓練型権力と環境管理型権力の二層で説明された社会において、それぞれ「熟議」と「無意識」という二つの抵抗が描かれるのだ。それは、象徴界想像界がもはや区別できないこと、私たちが人間であるだけではなく同時に動物であることと繋がるだろう。東はルソーをリチャード・ローティに繋げつつ、人間的な理性のみならず動物的な憐みが、個々人の感情移入による連帯が公共性を形づくるような未来を夢見る。この憐みとは、「転移」と名指されたものでもある。東は「自由」という語を、この動物のレベルに積極的に見出していこうとするのだ。東が柄谷に言及するのは、まさにここにおいてだ。相対主義に関して柄谷の概念「ヒューモア」は、ローティの「リベラル・アイロ二ズム」と構造を同じくしている(なお、デリダも同じことを「歓待の論理」という名で語っている)。詳しくはあとで述べるが、柄谷においてそれはマルクスの唯物論とカントの人格主義の関係にあるとまとめられるだろう。ローティにおいてそれは、自分が私的に信じるべきことと公的に信じるべきことを切り離すことだ。また別の箇所では、東は柄谷のあの固有名論をツイッターというブログサービスとともに語っている。東が注目するのは、ツイッターの「リツイート」と呼ばれる機能だ。それは私が自分の画面=タイムラインに流れてきた他人のツイート(言葉)を、自分のツイートのように再発信する。それは言葉を拡散する。他人にとっては、特に読むつもりのなかった言葉に思いがけなく出会うことを意味する。つまり、固有名(ユーザーID)の訂正可能性が予期しない出会いを生み、それが「自由」を、感情移入による連帯を生み出すのだ。

 ロバート・ノージックは市場における国家の機能、すなわち富の収奪=再分配を否定したことで知られている。以上のことからすれば、東がノージックの自由至上主義を一般意志2.0の理念に置くことは当り前だろう。データベースは、サイバースペースは、郵便空間は、政府の外側にあるのだから。そしてそれは、コンピュータ・スクリーンによる象徴界(シンボル=言語・社会)の弱体化に伴う必然でもある。これもまたあとで述べるが、柄谷はまさに国家による富の収奪=再分配を「象徴界」と関連づけたのだ。共同体の互酬(ネーション)が想像界、国家の収奪=再分配(ステート)が象徴界、そして市場の貨幣交換(資本)が現実界、という風に。市場の自由拡大と国家の機能縮小(ネグリ=ハート的なグローバル資本主義における革命可能性)は、このことから導き出される。そしてそれが、柄谷との大きな違いだろう。柄谷はあくまで「自由」を人間的なレベルでのみ語っている(と東は読んでいる)し、グローバル資本主義やリバタリア二ズムはむしろ国家を温存してしまうと考える。

 ところで、『一般意志2.0』には著者本人いわく「奇妙に内省的で、そして情緒的な序文」が添えられている。そこでは東が、二〇一一年三月一一日に起きた震災とそれに伴う原発事故に大きく揺さぶられたことが告白されている。東は「一般意志2.0」によって、熟議民主主義を苦手とする日本が「新しい民主主義」を得意とする国に生まれ変わることを夢見ていた。なぜなら、新しい民主主義において重要になるのはコミュニケーション=熟議を司る理性というより、「空気を読むこと」、無意識のうちに行なわれる感情移入、転移であり、また情報技術の扱いであるだろうからだ。しかし、震災と原発事故が起きたあとの日本において、東(を含む多くの知識人)は、そのような楽観的な未来社会像を人々が受け入れられるとは考えられなくなってしまった。だが加筆訂正を行なえば、それは全く別の「日本論」にならざるをえないだろう、という。よって東は「本書をあえて連載時のままの構成で出版することに決めた」。言わば、東自身もまた人々の無意識にさらされたわけだ。私たちは、これまで追ってきた問いに再び問い直されていることに気づく。なぜ柄谷とデリダのスタイルは大きく異なっているのかという問いと、なぜ柄谷は哲学と批評の乖離を乗り越えることができたのか、という問いは、いずれも「日本」と「西洋」という大きな関係のなかで捉えられようとしている。東は『一般意志2.0』において日本の特異性を、「空気を読むこと」というきわめてシンプルな表現で描いている。では、私たちはこう問い直さなければならないだろう。なぜ日本の人々は空気を読むこと、無意識のうちに行なわれる感情移入=転移にさらされることに秀でているのか。「そこにはフランス語と日本語におけるエクリチュールの条件の差異が、大きく関係する」というヒントは、実のところ精神分析における言語観のもとで読まれるべきなのだ。そして、それに答えたもののひとつが柄谷の『日本精神分析』であることは言うまでもない。

 

 追補) また、東の「一般意志2.0」モデルは、『存在論的、郵便的』で提示されたあるモデルの具体化だということが分かる。それは、浅田彰否定神学を語る際に用いた「クラインの壺」のバージョンアップモデルだ(なお、山形浩生は浅田のモデルが間違っていると指摘したが、現在は逆に山形の指摘の方が間違いだったことが明らかにされている)。座談会「トランスクリティークと(しての)脱構築」では、浅田は東がクラインの壺2.0を描き出すことに否定的だった。というのも、クラインの壺はどこまで行っても単一の主体モデルであり、複数のコミュニケーションを重視する東の論にはそぐわないと浅田は考えたからだ。それはコミュニケーション論から主体論に向かった柄谷と構造を同じくしており、再び「否定神学」に立ち帰る危険性を孕んでいる。では、なぜそのモデルは再び描かれたのか(私たちは、柄谷やデリダはなぜ理論的後退を強いられたのか、という問い自体を揺さぶられようとしている。それは本当に後退だったのか?)