鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

遅延すること、それが新房の正義だ ――『偽物語』から『まどマギ』へ

 新房昭之が監督したTVアニメーション『偽物語』を観ながら私は、新房作品に共通するテーマにようやく気づきつつあった。この作品は、ある種の目の肥えた人々には「内容がない」と評されているらしい。だが、それはあまりに「早まった」評価だと言わざるをえない。『偽物語』のストーリーは「内容がない」というよりも、むしろ「内容を遅らせている」のだ。遅らせること、引き延ばすこと、そして生き延びること、これこそが新房作品の一貫して描いてきたテーマではないか。たとえばこの作品は、普通なら三話で済ますような物語を七話の長さで語ろうとする。その遅れは、シリーズ前作『化物語』と比べても明らかに目立つ。そしてその遅れは、登場人物らの饒舌で、一見すると本筋となんの関わりもないダイアローグによってもたらされている。とすれば当然、私たちは「なぜ彼らはこうもべらべらと喋りとおすのか?」と問うしかないだろう。
 ファイヤーシスターズたる阿良々木火憐と月火による、兄の暦に対する長々としたはぐらかし。戦場ヶ原ひたぎや忍野忍による回りくどい「ツンデレ」。そして主人公、暦の恋愛に関する徹底した鈍さ(彼は「恋」を「来い」と間違えてしまう)。これらは、なにを意味しているのか。前後編「かれんビー」「つきひフェニックス」の両方で立ち回る黒幕、貝木泥舟の饒舌さがそれを教えてくれる。たとえば彼が火憐を打ち負かすのは、決して肉体的な暴力によってではない。詐欺師である彼は「話し合おう」とうそぶき、言葉を弄することで勝利してしまうのだ。力ではなく言語の強さが勝敗を決するというルールは、作中で徹底されている。暦は火憐を言葉によって諭すし、忍野忍はハッタリをかまして難を逃れる。最後の影縫余弦との戦いにおいても、影縫の意識しない言葉、元吸血鬼である暦を人間扱いする言葉こそが暦を白けさせてしまった。
 かつて蓮實重彦は、言語そのものに宿っている「排除と選別の血なまぐささ」を指摘した。それは言葉が、あることを喋っているときには別のことを喋れない、ある人が喋っているときは別の人は喋れない、といった暴力性を孕んでいるからだ。その意味では、彼らのお喋りはひとつの「血なまぐさい戦い」としてあるのだと言ってよい。みながみなダイアローグの主権を争って口角泡を飛ばしつづける、そのような物語としてこの作品はあるのだ。それは八九寺真宵と阿良々木暦との対話「どうすれば大人になれる?」「そう問うているうちは大人になれない」にはっきりと表れている。喋ることが内容を遅らせるという構造は、いたるところに見出せるだろう。特に重要なのは、暦が火憐に「正義の第一条件は正しいことじゃない。強いことだ」と語るシーンだ。この強さは、のちに本人によって「意志の強さ」というエクスキューズを添えられる。だがこれまで見てきたとおり、それは第一に「言葉の強さ」に他ならない。『偽物語』の正義において、意志とはすなわち言葉を発し続ける意志、そしてなにかを遅らせ続ける意志にあるだろう。では、それはどのような「正義」なのか?
 私たちは普通、正義とは他者のためにあるものだと考えている。少なくとも、火憐にとっての正義はそのような形をとっている。しかし、暦はこの正義観の問題点を鋭く突いている。「笑わすな。理由を他人に求める奴が正義であってたまるものか。他人に理由を押し付けて、それでどうやって責任を取るというんだ」。その感情の、いったいどこにお前の意志があると言うんだ、と暦は問う。そのとおり、他者のためだと言ってなにかを行なう人は、つまり自分の行ないを他者のせいにしている。そこには責任を引き受けるべき主体が、自由な意志が、ぽっかりと抜け落ちているのだ。もちろん、だからと言って他者を目的としないような正義は考えられない。要するに、ここで暦は、他者のための正義に関して「偽ること」の重要さを述べている。自己犠牲について、あくまでそれは自己満足だったと嘘をつくこと。それが自由意志を生む。「意志」と「言葉」が結びつくのは、まさにこの論理においてだと思われる。似た論理は『シュタインズゲート』の岡部倫太郎にも見受けられる。彼は椎名まゆりのために行動しながら、あくまでそれは自己満足だったと語るのだ。この二重性は、彼にとっては名前が二つある(岡部倫太郎・鳳凰院凶真)ことに表れている。
 その論理は、影縫と暦の戦いにおいてもう一度現れる。月火を守り、その秘密について沈黙し続けようとする態度を「理想の一方的な押し付け」と影縫に指摘されたあとで、彼は「家族には、僕は理想を押し付けますよ」と言ってのける。そしてなにも知らない月火に「無理させろよ、好きでやってんだから」と言うわけだ。なお、ここには正義の他にもうひとつ、家族についての重要な主張も含まれている。それは、家族という枠組みはまさに偽の、人工的なものでしかないということだ。家族は第一に、「私たちは家族だ」という言葉によって形成され、支えられる。たとえばその言葉は『偽物語』において、同じ名字や漢字の共有によって表れているだろう。阿良々木という名字がそれであり、ファイヤーシスターズたる火憐と月火の「火」がそれだ。逆に血の繋がりなどといったものは、あくまで二次的なものにすぎない。式神を「名前で縛る」というモチーフは、この家族というテーマから導き出されている。『輪るピングドラム』の多蕗は「しょせん、僕らは偽の家族でしかない」と言った。彼を不幸にしているのは、「本物の家族」があるのだというファンタジーに他ならない。しかし繰り返すなら家族は偽物でしかなく、だからこそ書き換え可能性という希望を持っているのだ。そのことを『ピンドラ』の主人公たちは示したし、『偽物語』もまた同じような問題意識を持っている(なお、ピンドラの描く正義も偽物語やシュタゲと似たような二重性を抱えている。それは二つに破れた日記、二つに分けた林檎、というモチーフ自体の分割に見ることができる)。
 肝心なのは、以上のような暦の言葉もまた単なる「ハッタリ」かもしれない、という留保が与えられていることだ。したがって、私たちは暦の正義観を素直に「本物」として受け取るわけにはいかない。仮にそうするなら、私たちは彼の嘘を嘘として聴けなくなってしまうだろう。彼はつねに自身の正義を、言葉と意志によって「偽物」にし続け、本物に成り下がることを「遅らせている」。そしてそこに、「偽物の方が本物らしい」という作品の倫理があるのだと言ってよい。もちろん、この遅れは永遠のものではないし、実際には遅れ続けたストーリーも幕を下ろさざるをえない。登場人物らが髪を伸ばし、やがて切るのはその証だ。たとえば羽川翼と戦場ヶ原ひたぎが髪を切るのは、まさに「けじめ」としてあった。なによりクライマックス、影縫は阿良々木という名字を「単に同じかと思った」と言って家族の偽性を暴き立て(貝木泥舟が火憐に「良い名前だ、親に感謝しろ」と言うのと対照的だ)、元吸血鬼の彼を人間扱いすることで、その命の有限性を暗に示してしまう。おまけに彼女は、忍野メメなら決して言わない「さようなら」を告げて立ち去るのだ。付け加えれば、斧乃木余接の口癖である「僕はキメ顔でそう言った」もまた、その切断性を象徴している。だが、その切断はまず「遅らせること」あってのことだ、というのは確かなようだ。
 思えば、新房昭之はずっとこの「遅らせること」について描いてきたのではないか。たとえば『荒川アンダーザブリッジ』は、主人公が生き延びてしまうところから始まる。そして『さよなら絶望先生』ではもっと直に、主人公の糸色望が自殺を引き延ばしつづけるドラマとして観ることができる。ここでは、厖大な量に及ぶ彼の作品を全て挙げることはできない。私たちはひとつ、あの『魔法少女まどか☆マギカ』を詳しく見ていくことにしたい。そう、『まどマギ』が、主人公である鹿目まどかの契約を、もう一人の主人公である暁美ほむらが遅らせ続ける物語だったことは言うまでもない。そして、それは鹿目まどかの切断によって幕を下ろす物語でもある。まとめるなら、偽物語の阿良々木暦が「半人間・半怪異」というハイブリッドな身体で示した二重性を、まどマギは、まどかとほむらのダブルヒロインという構造によって示したわけだ。前者の場合、彼が半怪異であることは家族に秘密をつくる重要なきっかけになっており、後者の場合、まどかが表向き誠実たりえるのは暁美ほむらが真相を伏せているからだ。
 もちろん、こうしたテーマは同時代的なものかもしれない。しかし、この「遅らせることとその切断」をアニメーションの演出レベルにおいても表現している者として、やはり新房は特筆すべき存在だと言わなければならない。たとえば、シュタゲもまた椎名まゆりの死を岡部が「遅らせること」に物語がある、と言うことはできる。しかし、その演出やストーリー進行はきわめて明快で、淀みがない。他方、偽物語は妹の歯みがきに一〇分を費やすし、まどマギは一見すると真っ直ぐに物語を進めてはいるが、鹿目まどか暁美ほむらのメインストーリーが第一〇話でようやく明かされる、という構成に奇妙なものを感じる人もいただろう(脇役の恋物語になぜ六話も使うのか)。裏話的なものを導入すれば、後述する美樹さやかをなんとか救おうとする新房と、残酷なカタルシスを描こうとする虚淵玄との「やり取り」を私たちは想像することができる。言わば、遅らせるほむらと切断するまどかという関係性は、ある意味で、新房と虚淵の関係性の写し絵でもあったのではないか(……とはいえ、私はこのテーマはやはり同時代的なものだろうとも思う。機会があれば、いつか詳しく考えてみたい)。
 しかし、偽物語とまどマギの関わりはそれだけに留まらない。補足すれば、ファイヤーシスターズたる火憐と月火の物語は、美樹さやかの物語を二つに分けて描き直したものとして読めるのだ。火憐をめぐる自己犠牲の正義についての物語と、月火をめぐる空虚な身体についての物語を、同時に引き受ける者としての美樹さやか。私たちは、美樹さやかに足りなかったものをはっきりと偽物語に見ることができる。それは阿良々木暦のような存在ないしは態度であり、自己犠牲の正義を自己満足だったと「偽る」態度、他の魔法少女たちとの関係について「早とちりしない」態度だったのだ。

 追記。こうした新房作品の特徴は、原作者の西尾維新とすこぶる相性がいいだろう。彼のデビュー作「戯言シリーズ」最終巻『ネコソギラジカル』は、そのテーマを物語の「加速」と銘打っていた。だが、実際にはそのストーリーは大きくうねり、豊かな「遅らせること」に満ちていた。そしてテーマとしても、「物語=世界の終わり」を目論む黒幕、西東天を否定するものだったのだ。