鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

どちらが終焉したのか? ――スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義』感想

 スラヴォイ・ジジェクポストモダン共産主義』(2009)には、「はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」というサブタイトルが冠せられている。ここで言われる悲劇とは2001年の9.11同時多発テロのことであり、笑劇とは2008年の金融大崩壊のことだ。これら二つの出来事は、とあるユートピア思想を終焉させた。それは、フランシス・フクヤマが唱えた「歴史の終わり」(1992)である。フクヤマによれば、民主主義と資本主義はいつか世界的な勝利を収め、それに伴って社会制度の発展も人類の発展も大局的には終了するという。ジジェクはまず、この思想を切って捨てる。というのも、9.11同時多発テロはリベラル民主主義のユートピア性を、金融大崩壊はグローバル資本主義のユートピア性を崩壊させたからだ。代わりに唱えられるのは、マルクスに端を発する共産主義である。

 

 ポストモダンは一般的に、「大きな物語の終焉」として知られている。それは要するに、近代の支配的なイデオロギーが衰退した時代のことだ。しかし多くのポストモダン論者は、リベラル民主主義とグローバル資本主義は「大きな物語」から除外しているらしい。すなわち、それら二つの主義があたかもイデオロギーではないかのように見せかけているのだ。ジジェクは、このような態度こそがイデオロギー的であると批判する。第一部の題名「肝心なのはイデオロギーなんだよ、まぬけ!」は、彼のそうした態度を明確に示しているだろう。

 言うまでもなく、リベラル民主主義もグローバル資本主義もイデオロギーである。現実の先進資本主義国は社会主義を「資本主義的」である限りにおいて認め、ショック療法として様々な危機を利用している。しかし、なぜこれらのイデオロギー性は隠されてしまうのか? それは、彼らが排除するのが敵対するイデオロギーではなく、「敵対するイデオロギーがありうる」という可能性そのものだからだ。かくして、これら二つの主義は脱イデオロギー化される。あるいは、「リベラル民主主義とグローバル資本主義が最良でないことは分かっている。しかし、他に正解がないのだから仕方ないじゃないか」というシニシズムを招く。ジジェクはこの現象をイデオロギーの「人間化」と形容し、彼らのイデオロギーに対する欲望を「フェティシズム」と呼んでいる。彼はもはや、資本主義の新たな段階などといった思想を肯定しない。そこで、民主主義と資本主義のカップリングに対抗する共産主義を主張するのだ。

 ここで改めて注意すべきは、社会主義と共産主義は異なるということだ。社会主義は共同体に依存した特殊性=一般性のレベルでなされるが、共産主義はむしろあらゆる共同体から離れた単独的=普遍的レベルで行なわれる。それを明らかにするのが、ハイチの革命である。フランス革命の影響を受けて起きたこの革命は、その理念をフランスという共同体から離れたレベルで実現することで、具体的な普遍性を獲得したのだ。ジジェクは、カントの言う「理性の公的使用」を共産主義に当てはめた上で、それをより実体的なものとすべくヘーゲルの思想を援用している。

 さらに押さえておかなければならないのは、彼は決して民主主義を否定しているわけではない、ということだ。そうではなく、現行の議会制民主主義が実際には民主主義として機能していないこと、また民主主義と資本主義のカップリングが自明視されていることを批判しているのである。それを示すのが、エリートたちによる独裁資本主義を指す「アジア的価値観を持つ資本主義」という言葉だ(この語によって非難されているのは日本や中国に留まらず、こんにちのヨーロッパに及ぶ)。では、ジジェクはどのような共産主義を語っているのか? それこそが、マルクスレーニン主義への回帰にほかならない。つまり、国家を持続しつつ非国家的な運用を目指すことである。「共有材」(コモンズ)を資本による私有から奪還し、労働者階級に取り戻すという目標こそが、彼の「コミュニズム仮説」だ。そしてその仮説は、情報テクノロジーなど一般知性の私有が超過利潤を生んでいるこの世界において急務である。

 

 むろん、私はジジェクの仮説には賛同しない。「国家の非国家的な運用」と言うだけでは、結局のところ単一国家・単一主体モデルでしか革命を描けないのではないか、そこには複数国家・複数主体モデル、すなわちコミュニケーションの位相が抜け落ちていないか、という疑問は拭えない(そしてその問題は、結局のところ彼がラカンをヘーゲル化していることに遠因があると思う)。だが、ジジェクから学ぶべきことも多い。たとえば本書では、「多くの左翼はフクヤマを否定するが、リベラル民主主義とグローバル資本主義の結合を受け入れた時点でフクヤマ主義者も同然ではないか」といった論旨の非難が述べられている。なるほどそのとおりである以上に、残念ながら今やフクヤマを肯定するポストモダン論者さえ現れる始末だ。

 たしかに共産主義は、ポストモダン論からすれば「終わった」ユートピア思想かもしれない。だが、当のポストモダン論が「終わった」ユートピア思想なら、我々はもういちど共産主義に取り組んでもよいはずだ。