鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

説得しない哲学者 ――國分功一郎『スピノザの方法』感想

 國分功一郎『スピノザの方法』はデカルトの思想とスピノザの思想を対比した上で、ある驚くべきテーゼを発見している。デカルトの思想が他者への説得を試みるのに対し、スピノザの思想は他者への説得を試みない、というのだ。

 

 本書の問いは、人はいかにして真の観念・真の認識に到達できるのかという「方法」の問題から始められている。まず、方法は精神にとって外的な「道具」と見なされた。しかし、そのような方法を探究するにはまた別の方法が必要であることから、懐疑論者(ソフィスト)によって無限遡行の問いを付されてしまう。そこで、デカルトは方法を精神にとって内的な道具と見なした上で、懐疑論者を説得する外的な「標識」を求めた。決して疑い得ないコギト、すなわち「我思う、ゆえに我あり」がそれである。さらにデカルトはコギトから、決して私を欺くことのない神の存在を証明しようとした。二つのア・ポステリオリな証明と一つのア・プリオリな証明が、こうして生まれる。デカルトの思想は、常に説得の要請に貫かれている。

 だが、結果としてデカルトの思想は様々な問題を招いてしまった。たとえば、外的な標識を求めるにはまた別の標識が必要であることから、懐疑論者によって再び無限遡行の問いを付されてしまう。また、神の存在を証明するには先に疑い得ないコギトを証明しなければならないが、そもそもコギトを証明するには、先に私を欺くことのない神の存在を証明しなければならないはずなので、循環が生じてしまう。そのうえデカルトの観念思想は、観念を実在する事物の表象と見なす「表象論的観念思想」に近づいてしまった。それは彼が二つのア・ポステリオリな証明において、他者を説得すべく既存の神の観念を使用したことに起因する。要するにデカルトは、説得の試みのために自らの思想を歪めてしまったのである。

 他方でスピノザは、既に『知性改善論』では懐疑論者への説得を拒絶していた。説得の必要がなくなれば、外部に標識を求めることもなくなる。次に『デカルトの哲学原理』において、コギトを「我思う、ゆえに我あり」から「私は思惟しつつ存在する」に書き換えた。コギトを標識としての証明から状態描写にすることで、循環は断ち切られる。他にも彼は、独自の定式化、省略あるいは削除、並べ替え、書き換えという計四種類の操作をデカルトに施している。しかしたとえばその並べ替えは、デカルトが述べた順序に関する規則(先行する命題は後続の命題に依存してはならず、後続する命題は先行する命題にのみ依存しなければならない)をむしろ忠実に守っている。スピノザデカルトの思想から説得の試みを取り除くことで、その歪みを矯正しようとしたのだ。

 最終的に、スピノザは『エチカ』で独自の観念思想「平行論」を唱え、新たな神の観念「汎神論」をも構築した。これらの考えによって、観念を実在する事物の表象と見なす「表象論的観念思想」への接近は免れる。それらがどのような思想および観念なのか、どうして「表象論的観念思想」を免れるのかはここでは扱わない。またスピノザは、真の観念に到達する「道」そのものとして方法を捉えた。一見この定義は、およそ二つの逆説を招くかのように思われる。一つ目は、真の観念に到達するまで存在しない「道」は方法としての役割を果たせない、という方法の逆説。二つ目は、真の観念に到達するまでは存在しない方法をあらかじめ論じることはできない、という方法論の逆説である。しかしスピノザは、これらの逆説を「平行論」を導入することで解決している。それがどのような解決なのかも、ここでは取り上げないこととしよう。いずれにせよ重要なのは、スピノザは説得の試みを放棄することでデカルトが陥った罠を次々とクリアした、ということである。

 

 國分功一郎は、結論に「スピノザの方法からスピノザの教育へ」という題を冠している。これは、デカルトのように他者を説得する哲学よりも、スピノザのように他者を説得しない哲学の方が教育的に望ましい、ということだ。「スピノザの哲学は説き伏せない。「従いなさい」とは言わない。それは神の観念へと誘い、導く。いうなれば「一緒にやってみましょう」と言うのだ」(p355)。これは、即座に頷ける話ではないかもしれない。単に他者を説得しないことと、他者を誘い導くことの間には少なからず隔たりがあるからだ。とはいえ、他者を説き伏せ従わせることが教育的ではありえないという言葉には、最大限の同意が示されてよい。

 一般的に私たちは、他者への説得の試みが倫理的にも政治的にも必要なものだと考えがちだ。だが、その試みこそが私たちの意見を歪めてしまうならば、スピノザは改めて注目すべき哲学者である。