鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

ネグリ+ハート『マルチチュード』について2 ――柄谷行人との関係

 ネグリ+ハートの哲学は、様々な形で日本の批評・思想に影響を与えている。たとえば宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(2011)の「拡張現実の時代」「リトル・ピープル」といった枠組は、濱野智史が指摘するように、ネグリ+ハートの言う「〈帝国〉時代」および「マルチチュード」のほぼ完全な言い換えである。他方で、ネグリ+ハートと同時期に似た思想を構築した者もある。たとえば柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス』(2001)には「時代」に関する大々的な言及こそないものの、そこで言われている「単独性」を持つ者の姿は「マルチチュード」と酷似している。

 柄谷は『トランスクリティーク』において、次のように述べていた。

 

 しかし、商品経済における人間の「社会的」な関係は、むしろ資本によって形成されるのであり、最初から物と物の関係を通してあらわれる。そもそもわれわれは互いに、誰と関係しているのかを知ることができない。しかし、そのような「分離」が、共同体や国家によって閉じられた人々を「社会的」に結びつけ、いわばコスモポリスを形成するのである。こうした「社会的関係」においては、われわれは相互に関係し合っていることを知りえないが、それは同時に、われわれが相互に「無関係」だということをも不可能にする。たとえば、現在、世界の過半数の人々が飢餓状態にあるが、先進国の人間はそれと「無関係」だということはできない。だが、その「関係」を明示することもできない。ゆえに、関係論的な世界が物象化されているなどという考えは、本来事後的な遠近法的倒錯にすぎない。それは資本の運動が現実に世界的に「社会的関係」を組織するということを見落としている(傍線は引用者による)。

 

 ここで柄谷が言っているのは、世界は国境を超えたネットワーク状の資本制によって支配されているが、人々はそのネットワークを逆手に取って国境を超え連帯しうるということである。この説明は、明らかにネグリ+ハートの〈帝国〉論およびマルチチュード論に類似している。事実、『トランスクリティーク』の原型である「探究Ⅲ」は冷戦終結後まもなく開始されているが、それはネグリ+ハートが〈帝国〉の幕開けとした時期と正確に一致している。柄谷自身も、「『トランスクリティーク』を書いた時点では、(略)ネグリらの観点と似たものを持っていた」「グローバルな資本主義の深化が、ネーション=ステートというものを希薄にすると考え」ていた、と述べている。

 しかし柄谷は9・11とそれ以降の戦争と出会い、こうした観点を放棄している。

 

 本書において、私は国家がたんなる上部構造ではなく、自律性をもった主体(=エージェント)だということを書いている。それは、国家が先ず他の国家に対して存在することから来ている。したがって、他の国家がある以上、国家をその内部からでは揚棄することができない。ゆえに、一国だけの革命はありえない。マルクスバクーニンも、社会主義革命は「世界同時革命」としてしかありえないと考えていた。しかし、本書を書いたとき、私はこの問題をさほど深刻に考えていなかった。各国における対抗運動がどこかで自然につながるだろうと考えていたのである。二〇〇一年以後の事態が示したのは、何もしないなら、各国の対抗運動は資本と国家によって必ず分断されてしまうだろう、ということだ(傍線は引用者による)。

 

 ここには、柄谷の「資本=ネーション=ステート」という概念が関わっている。「資本=ネーション=ステート」とは、近代国家は資本とナショナリズムと国家が結合したものであることを指している。近代国家はそれゆえ、資本に対する抵抗が国境を超えればナショナリズムと国家がそれを阻み、ナショナリズムに対する抵抗が国境を超えようとすれば資本と国家がそれを阻み、国家に対する抵抗が国境を超えれば資本とナショナリズムがそれを阻む……といった形で存続する。したがって、マルチチュード的な連帯は不可能なものとなってしまう。のちに柄谷は「(〈帝国〉対マルチチュード)のような二元性は、諸国家の自立性を捨象する時にのみ想定される」として、ネグリ+ハートへの批判を記すことになる。

 現代を〈帝国〉対マルチチュードの構図で捉えられない以上、柄谷は冷戦終結後の世界秩序に別の名前を与える他ない。『世界史の構造』(2010)では景気循環説と世界システム論を結びつけることで、1990年以降の時代を明確に「帝国主義的」と書いている(改めて言うまでもなく、〈帝国〉と帝国主義は全くの別物である)。そこで柄谷はマルチチュードのオートノミズムではなく、むしろ来る世界戦争に対抗して「国連」がシステム的な成長を果たすこと、そして日本が「憲法9条」を実践に移すことにかろうじて未来の可能性を見ている。

 

 もちろん、筆者は「国連」にも「憲法9条」にも柄谷ほどの期待は寄せていない。しかしネグリ+ハート批判に関しては、彼の言説は妥当だと言わざるを得ない。世界秩序を単一の〈帝国〉と見なす視点だけでは、各国間のコミュニケーションの位相が抜け落ちてしまうように思われる。それは、現に起こっている国境レベルの格差や喧騒を見逃すことになりはしないか。たしかに、「〈帝国〉」や「マルチチュード」といった概念の有用性は否定しきれない。だが私たちはそれらの概念を、ネグリ+ハートの抽象的な宣言とは別の場所に位置づけける必要があるだろう。

 グローバル資本主義の深化は、むしろネーション=ステートの結束を強固にする。今日の排外運動の高まりや「右傾化」と呼ばれる風潮は、そのような立場から見ることができるかもしれない。