鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

スピヴァク『文化としての他者』について ――現代フェミニズムの地平

 デリダ『グラマトロジーについて』の英訳を手がけたスピヴァクが長大な「序文」で示したのは、「抹消の下へ置く」身振りへの並々ならぬ関心だった。それは彼女には、デリダ脱構築思想と他の現代思想を分ける大きな境界線に見えたのである。では、その関心はどのような形でスピヴァクの哲学に表れているのか。そのことを我々に教えてくれるのが、評論集『文化としての他者』(1987)である。先のデリダ論で実質的なデビューを飾った1976年から、11年が経とうとしていた(イェーツに関する博士論文を提出した1974年から数えれば、13年もの歳月になる)。

 

 スピヴァク『文化としての他者』に収められた論考が一貫して主張するのは、言葉(文字=手紙)が常に暴力性と偏向性を孕んでいること、言わばある種の「刃」だということである。どんな言葉も他人を傷つける可能性を秘めているし、歴史的・地理的な制約を逃れることはできない。この主張は、彼女にとって「フェミニズム的な読み」が絶えず実践的・主体的に発見されるものであることを指し示すだろう。言葉はこの世界に初めから用意されているのではなく、我々が発するたびごとに創造されるのだ。スピヴァクの哲学においては、こうした「実践(=刃)」を完全に離れた「批評理論」などといったものは存在しない。なぜなら理論を書き語ること自体、既に実践(=刃)だからだ。

 我々はなんらかの「文化」を「説明」するときに、その説明自体が文化に拘束されていることを見失いがちだ。しかし残念ながら、あらゆる文化の制約から自由であるような普遍的・非暴力的な説明は存在しない。どれだけ客観性や理論性を装おうとも、結局のところ「解釈」はひとつの「政治」なのだ。スピヴァクに言わせれば、それを考慮していないのが「国際的」枠組における「フランス・フェミニズム」ということになるだろう。たとえば代表的な論客ジュリア・クリステヴァは、「東洋の女」たちについて語るときに自分がひとりの「西洋の女」であることを見失っている。そこで東洋は、単に西洋を乗り越えるものとして美化されているだけだ。「東洋」という他者が、自分たち西洋の言説にとって「価値あるもの」だから利用されているのである。「ものを言えないあなたたちの代わりに私が語ってあげますよ、嬉しいでしょう?」――そういう傲慢な立場に潜む搾取の構造を、彼女は鋭く指摘する。

 では、どうすればいいのか。スピヴァクは『文化としての他者』において、第三世界の女性(の作家)の文学的テクストに注目している。なぜならそこには、従来のエリート的アプローチでは決して「利用」されることのなかった副次的な(subaltern)ものが表象されているからだ。具体的にはマルクス主義フェミニズム自由主義フェミニズム、女性の肉体の理論……などの読みからは出てこなかった「解釈」「説明」を、スピヴァク第三世界のテクストに見出すのである。むろん彼女は、これまでのエリート的アプローチが持っていた偏向性・暴力性を明るみに出すための主体的・実践的「政治」として、そのような「解釈」を創造しているわけだ。

 

 だが、なにかがおかしくないだろうか。あらゆる表現には暴力性と偏向性が宿っているし、完全に理論的で客観的な立場は存在しない、という主張はよく分かる。しかしだとすれば、「あらゆる表現には暴力性と偏向性が宿っている」という表現そのものも暴力的で偏向的になるはずだし、「完全に理論的で客観的な立場は存在しない」という立場自体が理論性も客観性もないということになるはずだ。解釈は政治にすぎない、というのも解釈であり政治なのである。それは暴力や偏向を肯定する開き直りや、実践や主観に引き籠る居直りを許容しかねない。つまり、スピヴァクによる脱構築は思想としての自己矛盾を抱えているのではないか、との疑問がすぐさま頭をもたげるのだ。

 むろん、スピヴァクがこの自己矛盾に気付いていないはずがない。だからこそ脱構築脱構築が、すなわち「抹消の下に置く」身振りが重要になるわけだ。要するに「理論/実践」「説明/文化」「解釈/政治」の二項対立は、転倒されると同時に保持されるべきものなのである。以上のような態度は、たとえば絶対主義(=絶対的な何かがある)とも相対主義(=全ては相対的である)とも明確に異なるだろう。繰り返せば、「抹消の下に置かれた」彼女のこの姿勢こそ、おそらくデリダから受け取ったで最大のもののように思われる。我々は、さらにこの哲学に付き合っておく必要がある。

 

前回)http://sunakago.hateblo.jp/entry/2013/05/21/064353