鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

むしろ冒頭は重要ではない。 ――保坂和志『未明の闘争』について

 保坂和志『未明の闘争』(2013)には「文学の定型的思考を打ち破る」という惹句が寄せられている。とはいえ私の考えでは、本作の醍醐味は決して文学の定型的思考を打ち破ったことではなく……なにかを打ち破る、という発想自体が既に定型的である……定型的思考と非定型的思考の拮抗を描いていることだ。

 たしかに保坂自身は『未明の闘争』について「伝統的な小説観から見て最大の欠点は構成がめちゃくちゃであること。最後に全くけりも付けないし」「読みながら何かが活性化される。ストーリーや題材を取っ払っても、小説って面白いんですよ」と語りながら、次のように述べている。

「私は『未明の闘争』について、『この小説は何が言いたいのか?』とか『どうしてこういう展開になったのか?』と訊かれても、自分では説明できない。たぶん読者も説明できない。説明する読者はいるだろうが、それは説明でなく感想でしかないだろう。精神分析的に解釈することは可能かもしれないが、解釈は小説の部分であって全体ではない。私はこういう言い方が可能なら、自分で説明できないように書いた。説明はできないが、そういうことと関係なく、読むとなんだか面白い。という、そういう小説になっていればいいと思いながら書いた」

「小説というのは、書いて渡すたびにそれを受け取る編集者は、もっともらしい意味やテーマを返礼として作者に言ってくるものだが、この連載はさいわいなことに『群像』で毎月原稿を受け取った編集者も、『村中鳴海がエロくてムラムラきました。』とか『チャーちゃんの話に半泣きになりました。』みたいな、ものすごい素朴な感想しか言ってこない。私は『長谷川君、そんな素朴なことばっかり言ってていいのか。』と言ってはいたが、世の中の読者がみんなこの長谷川君のような読み方しかしなかったら、小説はどんなにいいだろう!」

 しかし、もし彼の言葉を鵜呑みにして「構成がめちゃくちゃであること」「説明や解釈ができないこと」を理由に『未明の闘争』を優れた文学作品として扱うならば、それは批評としては怠惰以外の何物でもない。どちらかと言えば本作は構成がめちゃくちゃになりきっていないこと、完全に説明や解釈が不可能なわけではないこと、その絶妙なバランスに面白さがあるのだ。

 

 定型的なもの(構成的な説明=解釈可能性)と非定型的なもの(非構成的な説明=解釈不可能性)の拮抗は、具体的には本作を牽引している二種類の死者たち、篠島とペットたちの対比に代表されている。ここで重要なのは彼らが全く別の女たち、要するに「友人たちやキャバクラ嬢たち」と「妻である沙織」に結び付けられ、それぞれ異なる機能を負っていることだ。篠島の死は友人たちやキャバクラ嬢たちによって語られるなか、霊魂や分身や前世といった本作における主要な題材を生み出していくのに対し、ペットたちの死は悲しみが悲しみのままで放置されているように思われる。主人公である星川高志が、アキちゃんと小林ひかると共に霊魂や分身や前世について説明し合えるのに比べると、ペットたちの死はそのような解釈を許さない場所で幾度も回帰している。それは言うまでもなく、妻である沙織が序盤から早々に立ち退いてしまうからだ。

 一見、篠島の方が「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」という奇妙なセンテンスによって非定型的思考を担った存在のように思われる。しかし裏を返せば、それは保坂和志篠島の死を正しく文学的な実験場に連れ出していること、つまり篠島を説明=解釈可能な存在として統御していることを意味するだろう。

「冒頭の段落で、『私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。』という文法的におかしいセンテンスが出てくるが、文章というのは記号としてたんに頭で規則に沿って読んでいるだけでなく、全身で読んでいる。だから文法的におかしいセンテンスは体に響く。これはけっこうこの小説全体の方針で、私はその響きを共鳴体として、読者の五感や記憶や忘れている経験を鳴らしたいと思った」

 ここで保坂和志は、明らかに「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」というセンテンスを説明=解釈できてしまっている。たとえば彼に、同じように「私は一週間前に死んだチャーちゃんが歩いていた」というセンテンスが書けるかどうか、そこには議論の余地など存在しないはずだ。書けない。であれば問題にすべきは「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」という文章ではなく、篠島の死単体ではなく、そのような構成から外れた細部で描かれるペットたちの死との関係なのだ。

 同じような対比は小林ひかるから想起された二人の女、すなわち松島文恵と村中鳴海の二分法にも見出すことができる。そもそも星川とアキちゃんに交じって分身や前世について語り合う小林ひかるは、篠島=人間的死の側に立つ存在、あらかじめ構成された説明=解釈可能な女として描かれている。小林ひかると同じ台詞を言った松島文恵もまた例外ではなく、それゆえ星川は彼女についてはアキちゃんや小林ひかるの前で明晰に物語り、アキちゃんの議論を根底から揺さぶらないだろう。しかし村中鳴海の存在感は松島文恵とは大きく異なっており、星川にとっては名前さえ満足に思い出せない対象、しかるにアキちゃんと小林ひかるの前では曖昧にしか物語られない女なのだ。村中鳴海は非構成された説明=解釈不可能な存在、だからこそ星川の前から姿を消してしまう存在として描かれている。

 星川とアキちゃんは、小林ひかるや松島文恵の前では霊魂や分身や前世について語り尽くせるとしても、村中鳴海の前では語り尽くすことができないだろう。どう好意的に読んでみても、それは対話や描写の力を必要としない概念操作、定型的な分析の対象になるだろう「分かる」「伝わる」概念操作に過ぎない(実際、小林ひかるには分かってしまう)。

「友達のアキちゃんは、分身や生まれ変わりのことばかり考えている。分身や生まれ変わりはあっても、いま私たちが使っている文章ではそれを捕らえられないだろう。と、これも書いているうちに考えた。『捕らえる』という言葉がすでに、自分と対象という二分法に乗っかった考え方で、それは捕らえるのでなく、並走するとか、掠めるとか、踊るというような感じだろう。分身・生まれ変わり・永劫回帰・主体の入れ替わり・・・・・というようなことは、人生の思いもかけないときに起こっていたのかもしれない。起こっていたのに、『起こらない』とか『起こってほしい』という否定的な先入観で生きていたために、それを踊れなかったのかもしれない」

 だが少なくとも星川高志は、未だ永劫回帰を踊ることのできない男なのだ。

 仮に冒頭の夢に引き摺られた読解を施し、霊魂や分身や前世についての議論を本作の主題として読み込むなら、これほど作品に対して片手落ちな読みはない。そうではなく、私たちは「おまえがいくらもっともらしくそんなことを言ったって、チャーちゃんは現にいないじゃないか。もっともらしく言うんなら、ここにチャーちゃんを出せよ」という星川の素朴すぎる嘆き、あるいは「いまポッコの魂が去ってゆくのがジョジョにわかってそれを追いかけたと、友達にも妻にもわかった」という不用意すぎる「魂」の使用にこそ注目しなければならないのである。猫を愛さない者たちに向かって星川が説得を試みる箇所が示唆するとおり、保坂和志『未明の闘争』においては、ペット=動物的死こそが「分からない」「伝わらない」情念の集積なのだから。

 それは言い換えれば、保坂和志が執筆当初に抱いていた意図を受け取ることではなく、作品に影響を受けて変化していった執筆末尾の非意図を受け取らなければならない、ということである。

「最初のうちは意図やつもりが全然ないわけではなかった。しかし何しろ連載期間だけで三年八ヵ月だ、三・一一もあった。連載の前も入れると五年くらいこの小説を書いていた。最初の頃の気持ちと終わりの頃の気持ちが同じだったらおかしい。作者は作品の外にいる存在だから、作品に働きかけることはあっても、作品から働きかけられることはない―つまり作者は作品に対して神のような存在であり、作品に流れる時間の影響を受けない、というのが普通の作品観だが、一年くらい経った頃から『それはおかしい。おかしいし、つまらない。』と思うようになった。

 作者は作品を書きながら、作品から影響を受けてどこかに連れていかれる。ということは、作者もまた作品の中にいる。この作品は書きながらどんどん、『全体を考えるのはやめようよ』『先がどうなるか、もう全然わからないよ』という小説になった。私はいままでの小説も先がどうなるか見えないまま書いたが、全体の大きな枠はなんとなくあった。今回はもう完全になくなった。もし、『小説執筆期間中に起こった三・一一について、あなたはどう考えているか?』と訊かれたら、これがそのまま答えだと思う。自然の前で、人間がプランを立てたり完成形を決めたりするのは自然をリスペクトしていない。自然の前で、作者が作品をコントロールするのは自然をリスペクトしていない。自然の前で、作者は神でなく人であり、作品内人物のひとりである」

 以上を踏まえつつ興味深いのは、定型的思考と非定型的思考の並行が、最後の段落で美しく統合されていることだろう。「それにしてもコンちゃんはどこから来たのか。あれは篠島の実家から俺んとこまで来たんだよ。篠島んちはあのあとおふくろさんが気落ちして死んでおやじさんが倒れて入院騒ぎの最中にいなくなった猫がいたとして、長い旅をして体がボロボロになって俺んとこまで来たんだ」。人間によって構成された説明=解釈可能な死が、文脈を離れたところで、動物によって非構成されていた説明=解釈不可能な死をめぐる悲哀を救済しうるかもしれないこと。そして説明=解釈不可能な死を救済しうる一点だけでも、説明=解釈可能な死が肯定されるかもしれないということ。保坂和志『未明の闘争』は三年八ヶ月に渡る執筆の末にそのような円環を描き、最後にケリをつけたのである。